003
「お勉強会をします!」
「いえーい!」
「もしくは、お勉強回とも言えるね」
「それはもっと後だ!」
第一、そんな話を一話目に持ってくんな。
──持ってきちゃったよ。
そうして、僕達は学校の図書室にて定期試験対策の勉強に取り組み(この時ばかりは僕も真面目にペンを持った、でないと何をされるかわからないからだ)──気づけばもう日は傾き、机に置かれた文房具とプリントが斜陽に照らされていた。
遊の徹底的な指導のおかげもあってか、僕の学力パラメータはこの短時間で指数関数的に上昇していった……ような気がする。
実際のところ、何も学んでいないのかもしれないが。
学んでいないから、何度も何度も間違える。
いつまで経っても同じ過ちを繰り返すのは、僕の悪い癖だ。そう、例えば─────
「古谷くん。いつになったら、元旦を元亘と書き間違えるのをやめてくれるのかな?」
「……期日としては、来年を予定している」
「年賀状を送るのは今年です!」
「は、はあ……」
こんな癖である。
あえて屁理屈をこねるならば、そもそも年賀状を送るような間柄の人間がいないんだよ。家族は家にいるから、わざわざ八十五円の葉書を貼ってまで新年のご挨拶をする必要もないし、昔から懇意にしている幼馴染も、今はいない。だから僕には、特に誰彼といって年賀状を宛てる相手は存在し得ない筈なのだが。
「私は、古谷くんからの年賀状──貰えたら、嬉しいよ? 門倉さんとか、きみはよく一緒にいるみたいだし……」
ここで僕が犯した失敗は、年賀状を送り合うほど親しき仲の友人を作ってしまったことである。
上記の通り同じ過ちを反復する悪癖に、加えて忘れっぽいときている僕にとって、郵便ポストに年賀状を入れるという行為は最高難易度のインポッシブルなミッションだった。
仮に年賀状を無事書き終え、それを投函することができたとしても、そのご挨拶が知らない家の老若男女にお届けされたりしては元も子もない。つまり、僕が彼女らの家に正しく年賀状を送るのは不可能に等しいことなのであった。
いや、年賀状の話に関しては、この際どうでもいいんだよ。
大事なのは、本題だ。
門倉御前。
心身冷ややか、冷鉄少女──彼女について、僕はあらん限りの事情を知っておかなければならない。
もし彼女が今の状況に困窮しているというのなら、僕は寸時の迷いもなく手を差し伸べるまでだ。そうでないなら、それまで。
同じ過ちを繰り返すのは、僕の悪い癖。
多分、一生治らない。
僕自身、治らなくてもいいとは思っているが。
──上手く、行っているから。何もかもが順調に運ばれているから、きっと僕はこのハヴィットを修正しようとは考えられないのだろう。
なんて、変に格好をつけて大仰に言ってはみたが──結局のところ、こんなのは間違いにすぎない。
それ以上でも、以下でもない。
僕の間違い。
僕が間違い。
だからせめて彼女には、門倉御前には、普通でいてほしい……というのも、勿論僕の独善だ。
「──門倉御前、ね……」
僕は独り言のつもりでそう呟いたが、どうやら隣の彼女にはばっちり聞こえていたらしい。
「門倉さんが、どうかしたの?」
と、少々怪訝な顔で僕を見つめる。
「いや、なんつーか……僕、あいつの私生活とかなんも知らないな、ってさ」
咄嗟に言い訳をする僕。
というのも、今回の事件において──門倉御前の秘密を口外することは、絶対に避けなければならない《最悪の可能性》の内一つなのだ。
僕が異常を秘匿したように、彼女もまたそうなのだろう。
いつからかは、知らないけれども。
だが少なくとも、あの身体で学校に通っているということは、おそらく一年以上──現在把握している情報から類推しただけでも、彼女は中学生の頃からおかしくなり始めた。
突然に訪れた悲劇か。
あるいは、引き起こした必然の惨劇か。
まあ、どちらにせよ──一介の女子生徒が抱える現状としてはあまり芳しくないというのが、僕なりの断案だった。
「門倉さんの私生活……私もよくわからないけれど、昔はあんな人じゃなかったんだって話なら、聞かせてあげられるよ」
「え? そうなのか?」
そいつはびっくりだな。
「うん。門倉さん、中学生の頃は、今とは逆を往く性格だったんだよ。陽気で、快活で、爛漫で──年頃の女の子って感じの。そのときは陸上部で、かなり名の知れた選手として注目されてたみたいだね」
饒舌な語調で門倉御前を語る遊。
どこかしらの検索エンジンと比較しても、なんら遜色はなさそうだ。
「……それで、その後は?」
「それがね──彼女、中学三年生の時に、重い病気を患ったらしくて。そのせいで、最後の大会、出られなかったみたいなんだ。人が変わったみたいに鬱ぎ込んで、それ以来ずっとあんな感じだよ」
重い病気。
それは症状の進行度合いがあまりよろしくないという意味なのか、でなければ物理的な問題か。
重大で十代。
「それにしても、古谷くんが突拍子もなくそんなこと言い出すなんて──門倉さんのこと、気になってるの?」
「いや、好意という好意じゃないんだが──」
「はいはい、男子はああいう女の子好きそうだもんね。ぞっこんぞっこん」
「……」
あらぬ誤解を孕んでしまった。
特段、門倉に対する情愛を含んだが故の質問ではないのだけれど、結果として大きな勘違いを起こすことになるとは──コミュニケーションは難儀だな。
いや、この場合、日本語という世界有数の難解言語の側に問題が生じているのかもしれない。
ちなみに、これは本筋から逸れた閑談なのだが──《世界で最も習得が難しい言語》は、聞くところによるとどうやら中国語らしい。漢字とかやたら多種だもんなあ、あの言語。僕も中国語をマスターしてやろうと自腹を切って書籍を購入した試しがあるのだけど、三日坊主と言わず三時間で習得を諦めた。まあ、僕の経験則から言わせてもらえば、今は英語さえ覚えておけばなんとかなるのだ。
更にちなむと、僕は英語すらまともに憶えていない。
「しかし、中学三年生か……」
僕よりも一年とちょっとだけ、化物歴では先輩にあたる。うーむ、これは門倉に敬称を用いる必要があるやもしれないぞ。
「ありがとな、遊。お前のおかげで、どうにかなりそうだよ」
「うん、どういたしまして。──ああ、そうだ」
「どうした?」
「……ここだけの話なんだけどね、門倉さん、束縛が激しいタイプなんだって。古谷くんも気をつけてね──恋が実ったからといって、身の安全が保証されるわけじゃないんだよ」
……
余計なお世話だ、委員長。
それから僕は、なんたる障害もなく遊お手製の対策プリントを解き続け──というわけにもいかず、高校一年生にして世界史の穴埋め問題に四苦八苦していた。
七転八倒だった。
どこの宗教用語だよ、これ。
六道輪廻とか涅槃とかなら、まだ日本人の必修科目に収まる範疇なのだが、ヴェーダって。
バラモン教もヒンドゥー教も僕は事細かに知らねえけど、とりあえず立宗したやつは許さん。
「よし、帰ろう!」
そして、僕は逃走を試みた。
「古谷くん、世界史のプリントがまだ終わってないよ?」
当然のごとく、失敗に終わった。
「……期日としては、来年を予定している」
「定期考査は来月です!」
「いやでも、あんまり遅くなると母さんに迷惑かけるし……」
「……わかりました。じゃあ、このプリントは持って帰っておくように。解いてもいいし、もしわからない所があったら、いつでも私に訊いていいからね」
おや、意外にもあっさり承諾してくれたな。
もしかすると、嘘をつかなかったからだろうか。嘘をつく人間はオーラで分別つくという街談巷説は、なんと真の話であった。
実際問題、門限までに我が家の玄関を踏まなければ、母さんがとっても心配する。学校おまわりその他諸々の公的機関に多大なるご迷惑をおかけしてしまうことだけはなるべく避けたいので、僕は毎日大人しく帰宅しているのだ。
まあ、家の外ではやることもないから、というのが本音だが。ゲームも、睡眠も、妹と雑言合戦するのも、僕にとっては全て家内でなされる恒例行事みたいなものである。
「それにだな、今日は漫におつかいを頼まれてるんだ。あいつ、ちょっと目離した隙にどっか行くから、早めに終わらせとくのが楽なんだよ」
「へえ、漫さんに?」
「不本意ながらな」
あのおっさん、高校生をパシリにしてこき使うとは、マジで一発ぶん殴ってやりたい。
ただ、今回も漫の協力が必須の事案だからな。本当に不本意ながら、あいつにじゃがりことさけるチーズを買っていってやるとしよう。
これは心の内に留めておくが、それは既に過ぎ去った流行だぞ──時代遅れにもほどがあるってもんだ。
まあ、僕達が世俗的に間違いだとするならば、漫は普通──何の変哲もない、ごくごく普通の日本人男性。それを鑑みれば、僕よりもあいつの方が正しいと言わざるを得ないだろう。
人として正しい漫。
歪として正しい僕。
どちらがより世界に受容されるかは、ひとえに明白だった。
「じゃあな、遊──また明日」
「うん、また明日」
僕はそう言い残して、図書室の扉を静かに閉める。
「放課後に勉強なんて、随分と熱心なのね」
声が、聞こえた。
誰かはわからないが、しかし僕の背後からは確かに──人間のそれと酷似した音声が、僕の鼓膜を刺していた。
鋭い声。
僕はいつの日か、この声を聞いている。
決して忘れることのない、冷たい色をした声。
決して錆びることのない、重たい音をした声。
僕は声の出所を確かめようと、後ろを──
─────おかしい。
この場合の《おかしい》は、声の出所がどこにも見当たらなかったとか、そもそも僕は振り向けなかったとか、そういった話ではなく。
ただ──違う。
僕の知る彼女の声色と、今の声とでは全く──重みが、違う。
何かの覚悟を決めたような。
何かに取り憑かれたような。
けれど、僕はそんなことを意にも介さず、振り向いた。
ただの独善で。
自己満足で。
たったそれだけの感情で──僕はその姿を垣間見るため、振り向いてしまった。
「動かないで」
そして、その瞬間。
彼女の──門倉御前の左手人差し指が、僕の口内に捩じ込まれた。
……指?
どうして、指なんだ?
《一切の動作を禁じる》という目的で僕に凶器を当てるなら、それこそカッターナイフでも──なんなら、ホッチキスでもよかった筈だ。
それなのに、どうして──こんなにも、どうかしているんだ?
彼女の命令に従い、僕はその動きを止める。その合間、僕の口に突っ込まれたものを舌触りで確認するが─────
痛い。頬が──痛んでやまない。
それにこれは──冷たい。到底、人肌の平均体温などではない。
そして、何より。
鉄の味がする。
違う、これは指なんかじゃない──間違いなく、《刃物》だ。いや、もっと正しく言うのならば、《指》であり、同時に《刃物》──!
「今後一切、私の身辺について詮索しないこと。いいわね?」
彼女は剣呑な目でそう言った。
誰も近づかせない、とでも意思表示をしているかのような──そんな常套句を吐いて。
僕はその要求に、首を振れなかった。イエスとも、ノーとも表明せず、ただ彼女に視線を返した。
「……人との接触は、できるだけ避けていた筈なのだけれど。私も迂闊だったわ──まさかあなたに知られるなんて、最悪のケースよ」
「最悪……って」
「黙りなさい」
僕の内頬に当てられた刃が、更に深くへと入っていく。
「……っ!」
「あら、音を上げないなんて大した器量ね。私はてっきり、大声を出して誰かが来るのを待つのかと思ったのだけれど」
「──黙れって、言われたからだ」
そんなこと、この状況下でできるわけないだろ。遊が壁一枚隔てた先にいて、お前がいるから──だから僕は、そう易々と呻いたりしない。
つまりは、僕の独善だ。
まさかこの僕とは言えど、お前の秘密を忘れるわけがない。忘れられる筈も、ない。
「このことを知っているのは私だけ──あなたを除いて、私以外は誰も知らない。クラスの主任にも、病院の先生にも、父にも、誰にも明かしていない秘密よ。どう、失望した?」
……まさか。
僕は首を横に振る。
寸時の、迷いもなく。
「そう、残念。まあ、いいわ──そう、あなたも知っての通り、私の全身は鉄になった。なんの脈絡や伏線やストーリーもなく、私は硬くて冷たくて重たい存在になった。丁度、中学三年生の春頃ね」
僕の口に刃物を挟んだまま、門倉は続ける。
「いつもの冗談だと、そう思っているんでしょう? でも、違う。それは間違いよ、まったくもって正しくない推論。証拠に、あなたは今左頬に激しい痛みを感じているじゃない──どう、嫌いになった?」
……ありえない。
僕は再度首を横に振る。
「本当、お人好し。つまらないと言った方が、存外正しいのかもしれないわね。先に断りを入れておくけれど、同情や共感の類は求めていないから──私はただ、あなたに黙っていてほしいだけよ。そう、あなたは沈黙を貫いていればいいの」
なに? 同情?
こんな脅迫じみたことされてんのに、同情はちょっと無理がある。というか、僕がお前に向ける感情は、もっと低俗でくだらないものだ。
それから一呼吸分の間を置いて、門倉は口を開く。
「ねえ、古谷くん──古谷欠くん。もう一度、あなたのための忠告よ。今後一切、私の身辺について詮索しないこと。いいわね?」
僕は、首を縦に振った。
それが普通だ。
普通に生きている人間ならこうするべきで、きっとこうして生きている人間が普通なんだ。
普遍妥当で、おおかた順当。
「……ありがとう。じゃあね、古谷くん──あなたとはもう話すこともないし、ボードゲームをすることもない」
──私に、関わらないで。
そう言って、彼女は僕の頬から指を抜き、少しの間怪訝な表情を浮かべると、階段を下りていった。
僕達二人が本当の意味で出会った、あの階段を。
「……古谷くん?」
脱力して倒れ込む僕の頭上から顔を覗かせたのは、遊だった。
「遊、どうしてこんなところに?」
「古谷くんこそ、どうして廊下に寝そべってるの。漫さんに何か頼まれたんじゃなかった?」
「秋の廊下には温熱効果、血行促進効果、リラックス効果、美肌効果など、様々な代謝があると聞いて試していたんだ」
「ネットの記事なんだろうけど、多分それ嘘だよ」
たった今僕が考えたデマなんだから、そりゃそうだろ。たかが学校の廊下で温泉並みの効能を得られてたまるか、商売あがったりどころじゃねえ。
「なあ、遊──僕、なんか悪いことしたかな」
「悪いと言えば、悪いね。古谷くんは罪な人です、罪人です」
「そうか……」
「ギロチン刑です」
「そうか……?」
なんか、重くない?
ギロチンと言えば、人間は首をぶった切りにされた後も数秒意識があるらしい──一度は体験してみたいが、しかし同時に味わってみたくない感覚でもある。
僕は身体を起こすと鞄を持ち直し、そしてぐいっと伸びをした。
心なしか、少しだけ肩が軽くなったような気がしなくもない。まあ、きっと何かの間違いだろう。
「じゃあな、遊!」
ウォームアップに五秒間の柔軟体操を済ませると、僕は廊下を駆け出した。
ごめんな、門倉。理不尽でいい加減な僕が、理不尽でいい加減な約束を守る男じゃないってのは、重々承知してる筈だ。
遊に事情を説明している暇はない──今はただ、門倉に追いつくことが最重要である。
「ちょっと、古谷くん──今度、徹頭徹尾説明してよ! 私、応援してるから!」
──まったく、お前は僕と違って優しいんだな。
その優しさに僕がどれだけ助けられたか、お前はまるでわかっちゃいないだろう?
校庭を一望できる窓から頭を出し、真下を見ると──僕の友人であり亜人の門倉御前が、今まさにそこを歩いている最中だった。
「……」
──いやいや無理無理、さすがの僕でもここから落ちれば死ぬ。もう夏休みの五体満足ではないのだから、落下した際の衝撃を緩和することも能わない。
僕は門倉の下っていった階段に目を付け、再度走り出す。
僕が彼女に恋心を抱いているから──ではなく、彼女が僕を必要としているから──でもなく、ただ助ける。
冷たく、重たい目をしていた。
傍若無人さながらの、人を寄せ付けない目をしていた。
だけど、それ以上に。
悲しい目を、していた。
お前との今生の別れが、こんなものであっていいはずがない──!
手すりを踏み越え、また次の手すりに着地して──少々骨身に沁みる痛みだが、なんら問題はない。
筋肉や神経が断裂でもしない限り、足は動く。
探し慣れた自分の靴箱から、使い慣れた自分のスニーカーを取り出し、脱いだ上履きを空いたスペースに投げ入れる。早着替えならぬ早履き替えで正面玄関を飛び抜けると、門倉御前の背中に向かって猛ダッシュ──あまりの大音量に、門倉もこちらへ振り向いた。
「待て、門倉。勝手に別れを告げられちゃ、こっちも示しがつかない」
そうして門倉に追いついた僕は、なんとか彼女を呼び止めることに成功する。
よくやった、僕。
今回ばかりは、褒めてやってもいいんじゃないか。
「……あなた、普段から結構運動するタイプなのね。口も切れてるのに、よくやるわ」
「そこは気にしなくていい! それに、ほら──」
僕は口をあんぐり開けて、刃が当たっていた箇所を意味ありげに見せた。
痛いものは痛い。
けれど、ただ痛いだけだ。
「……嘘」
あの仏頂面の門倉も、これには驚きを隠せなかったようで──瞼をこれでもかと開きながら、呆然として直立していた。
「《口が切れた》なんて、最初から間違いだったんじゃないのか?」
「え、ええ……その、あなた、もしかして」
「ああ」
お前と同じ──間違いさ。