002
「─────ん……」
やや西側に傾いた太陽の、夏の日照りが残る秋分の教室で、僕は目を醒ました。
秋、と言うからには、それこそ日暮れ時の燦々として赤くなった空を想像するのだろうが──残念ながら、現在時刻は午後二時三十二分十六秒。第六校時の始業ベルが鳴り響くまで、あと二分四十四秒である。
ああ、今二分四十三秒になった。
二分四十二秒、四十一秒、四十秒……
……
壁掛け時計から視線を外し、掲示板に画鋲一個で貼り付けられた簡素な時間割表を見る。
六時限目は──数学。
数学なら、まだ得意な方だ。暗記が必要な国語や地理歴史なら、僕はこのまま居眠りを決め込んでいたのかもしれないが、数学はその暗記をする必要もないので安心である。
そうして重たい瞼をわざわざ開き、視界に入っているだけでメランコリックな気分に陥りそうな時間割表を見ていると──不意に、彼女の姿が映り込んだ。
彼女──というのは当然、僕の孤独仲間かつ友人の、門倉御前だった。
時代の流れと共にやや淘汰されつつあるセーラー服に、謎めかしい印象を与える赤黒い瞳孔と長髪、さらにその嫋やかな髪はこれでもかと綺麗に切り揃えられ、彼女をより一層ミステリアスな人間たらしめている。
《絡繰小町》なんて渾名がついても、それは妥当だと思った。
絡繰。
糸、歯車、ぜんまい、様々な道具を使って仕掛けを動かすこと。絡繰人形の略称。
小町。
小野小町から転じて、美しい娘の意を表す。
それら二つで、絡繰小町。
美麗な女性の人形。
僕としては、かなりユーモアに溢れる素晴らしい渾名だと思うのだけれど。
「……」
彼女にとっては、どうなのだろうか。
鉄の身体を持った、ともすると冗談も戯言もなく人形になってしまいかねない、門倉御前にとって──その渾名で自身を呼ばれるのは、果たして誉れあることなのだろうか。
彼女のことは、わからない。
掴めない人間。
彼女を入学式で一目見て、同一の空間で勉学に励み(実際のところ僕はまともに勉強していないが)、日数にして百五十六日もの間を彼女と共に過ごした僕でさえ、彼女のことを──門倉御前のことをよく知らない。
《よく知っている》のラインが一体どこまでかにもよるが、もしその境界線とやらを《プライベートな事情》と仮定するならば──僕は門倉御前のそれを、全くと言っていいほど知りもしない。
彼女が僕の内面を知らないように。
僕もまた──そうなのだろう。
外面しか知らない。
そんな下りのない無駄な独白を、文字通り独りでに語っていると、当然時間は過ぎ去っていくわけで。
六時限目の始業を伝達するチャイムが鳴り、僕はその目をようやっと完全に醒ました。
……まあ、学生だろうが社会人だろうが、なんなら辺境に住まうご老体だろうが、友達の《少ない》僕が真面目に授業を受けているシーンを見続けるのは、退屈極まりないことこの上ないと思うので──ここでは、僕の優等生ムーヴを割愛させていただこう。
さて、六時限目が終わり、僕達学生は掃除の時間に突入した。学校で無給労働の過酷さを学べるなんて、いやはや、日本という国は素晴らしい経済大国である。
まあ、これは誇張にすぎないが。
できることなら早く帰りてえ。
高校での僕は何故か存在感の一切もない生徒と化してしまっているため、通常であれば、この箒を木製の床に向けてぶんぶん振り回す作業も省略して帰宅できる筈なのだけれど。
「もう、古谷くんったら──ちゃんと掃除しないと駄目だよ。手動かして、すぐ終わるから」
……そう、僕が帰るに帰れない理由は、この女の存在に帰結する。
「遊、そろそろ僕に構うのをやめてくれ……」
「いいえ、やめません。古谷くんを更生させてみせると決めた以上、私にはきみを見守る義務があるのよ」
「僕は堕天使かなんかか?」
蝙蝠遊。
優等生中の優等生。
文武両道、才色兼備、八面玲瓏。
公明正大、世界最強の委員長。
そう、彼女はこのクラスにおいて唯一の、無二の学級委員長──委員長が二人も三人もいては、それはそれで困ったものだが。
まあ、彼女一人でも普通の学級委員長十人分くらいの委員長パワーを有しているので、実質そういった状況であることに変わりはない。
「とにかく、真面目に掃除しないと、流石の私も怒るからね」
「はいはい、委員長はお人好しなこった……」
人は彼女を、委員長と呼ぶ。
勿論、単純に彼女が委員長だからという理由でそう呼称する人間も多くいるのだろうが、しかし彼女は、蝙蝠遊は──委員長という雰囲気が、あまりにも顕著に出すぎている。
整いすぎた三つ編み。伊達か本物か、いまいち判別が難しい眼鏡。白と青藍を基調とした制服を、学校規定に則って華麗に着こなす彼女は──まさしく、委員長中の委員長である。
たとえ彼女が委員長でなくとも、そう呼ばれるに相応しい。
委員長になるため生まれてきた人間と言っても、それこそ過言ではないのだから。
──いや、過言か。
まあ、そうでなくとも。僕のような根っからの性悪を、わざわざ自分の時間を費やしてまで気にかけてくれる彼女を、学校一の聖人と評して異論はないだろう。
「そういえば、古谷くん。もうすぐ定期試験だけれど、ちゃんと勉強してる?」
長い棒の先端に植物の枝や繊維などを着けている道具(つまり箒)で丁寧に《掃除》をしながら、遊は僕にそう訊ねた。
定期試験は来週の月曜日──土曜日、今年は秋分の日と被った日曜日、そしてその振替休日、合計三日の休みを跨いだ週明けに行われる。
今日から大体一週間後に待ち構えているそいつを迎え撃つため、日本列島にあまねく存在する高校生は猫も杓子も一斉に筆を取り始めるのだけれど、僕に限ってそんなことは元よりなかった。
「ああ、勿論」
僕は嘘をついた。
根っからの性悪というのは、つまるところ、こういうことである。
「嘘。私、きみのそういう所が嫌いだな」
そして、見事に看破された。
目も泳いでいなかったし、声も上擦ってなどいなかった筈なのだが。
善良な人間からしてみれば、嘘をついている人間はオーラとか波動とかであらかた分別がつくのかもしれない。
そして、しれっと『嫌い』って。
世界最強の委員長からこうもはっきり厭悪の意思を表明されると、僕もちょっと傷付く。
まあ、彼女ら善良かつ優良な人間にとって──人に対して嫌悪感を抱く殆どの原因は、大抵そいつが劣悪だったり、人として根本的にできていないからだったりするのだろう。
僕はそういう人間だ。
普通でいることさえできない。
世界にとって、至極どうでもいい一生命。
──まったく、落ちぶれたもんだ。僕も中学生の頃は、真面目に学校生活に勤しんでいた優等生だったんだが。
どうかしちまったかなあ、僕。
「じゃあ、今日から放課後お勉強会をします。出題予想対策は作ってあるから、古谷くんはそれを解くだけ。簡単でしょ?」
「いや、簡単っちゃ簡単だけどな」
「簡単でしょ?」
「簡単です!」
気圧されてしまった。
やっぱり、僕はどうかしている。
……まあ、遊には前々から訊きたいこともあったしな。この機会に色々と探らせてもらうとしよう。
それに。
門倉御前についても、僕は知る必要がある。
それから僕達は──僕は渋々床を撫で、遊は揚々と机から窓から黒板まで大掃除のごとく、ピッカピカのエフェクトが視認可能になるくらいそこら中を綺麗にすると、不意に教室を出て、暫くしてまた戻ってきた。どうして教室を出たのかと問うと、どうやら周辺の掃除を手伝ってきたらしい。外を見ると、擬音通りピッカピカになっていた──太陽よりもこっちの方が、断然眠気醒ましになるかもしれない。
僕よりも遊の掃除描写が何倍も多いのは、僕の掃除にそれだけやる気が伴っておらず、逆に彼女は満ち溢れすぎているということを表しているのだと思う。
「他のとこ、行ってよかったのか?」
「他の班の掃除を手伝っちゃいけない、なんて規則はないからね。それに、もし仮にそんなルールがあるのなら──私は徹底的に反抗するよ。ワン・フォー・オール、って言えばいいのかな?」
いや、お前以外にできる奴がいねえんだよ。
と、このように──蝙蝠遊という人間は、最たる善良であり、そして優良だ。
人の皮を被った化物──とまでは行かなくとも、化物じみた倫理観と人生観を併せ持つ彼女が、どうしてこんな僕と関わってくれるのか、甚だ疑問である。
──善良、なのだろうか。
ただ一辺倒に、性善でしかないのか。
性悪の僕とは違って。
独善で《彼女》を助けた、僕とは違って──彼女のような真性の善人は、百パーセント他人を慮ったが故の行動だとでも言うのか。
僕は、そうじゃない。
嫌なことはすぐに忘れてしまうし、人の気持ちに重きを置いて物事一つ考えることもできやしないし、何より僕は──独善的だ。
独り善がり。
ただ、僕だけを基準とした善。
自分だけが正しくあれる善。
──いや、その独善をもってしても、僕は全てを間違えた。だからここでは、《自分が誰より正しいと信じてやまない倒錯的な思考》ではなく──《僕の意思によって為された善行》と、そう解釈することにしよう。
「──ちょっと、古谷くん。ねえ、聞いてる?」
「あ、ああ……」
見ると、遊とクラスメイトの尽力によりすっかり綺麗になった教室からは既に大半の生徒が姿を消し、残っているのは、確認する限り僕と遊だけだった。
「ほら、その箒離して。片付けておくから、古谷くんは先に図書室行っててね」
「……いや、手伝うよ」
「そっか、ありがとう。私、きみのそういう所が好き」
「はは、そりゃどうも」
……
いやいやいやいやいやいや。
僕は僕の認識する中ではかなり空気の読めない部類に入る人間だが、今のはファインプレーと言わざるを得ない。もしここで変にどもっていたら、僕は図書室に行くという選択を余儀なくさせられていたに違いあるまい。
しれっと『好き』って。
僕みたいなやつでも、優等生に褒められることはあるんだな。
いやまさか、あれか? 普段邪知暴虐の限りを尽くしている素行の悪い生徒が、雨の日に捨てられていた猫を拾うだけで賞賛されるというあれなのか?
世論ではあのセオリーを《映画版ジャイアンの法則》だの《両津勘吉理論》だの各々好きに呼んでいるらしいが、僕は敢えてこの現象を《レイニーデイズ・ヤンキー理論》と名付けよう。
安直ながら冗長で叙事的、実に素晴らしいネーミングセンスだな、うん。
「古谷くん、それはあんまり優れてるとは言えないかな……」
「今のやつ、声に出てたの?」
「ううん、モノローグを読んだだけだよ。ありきたりな名前だし、冗長は大抵の場合褒め言葉じゃないし……」
「委員長よ。アドバイスを賜るのは大変名誉なことなんだが、急にメタ的なボケをかまされると困るからやめてくれたまえ」
当たり前に僕の心を読むような真似をするのは、いくら委員長と言えどいかがなものかと思う。
あと、第四の壁認識を前提とした表現に頼りやすくなっちゃうから。
読者はあくまで僕を介して物語に感情移入するわけで、別に読者自身がストーリーに巻き込まれたいってことじゃないだろ?
まったく、少しは小説のノウハウというものを理解してもらいたいものだ。
「それより、遊。片付け終わったなら、そろそろ次の場面に移らないと話が進まないぞ」
しかし、僕がそんな高説を垂らせるわけもなかった。
「古谷くん、面白いこと言うんだね?」
「この期に及んで知らん顔するんじゃねえ!」
お前、さっき第四の壁しれっと越えてただろうが。
──まあ、どうせすぐに忘れることだ。
僕は片手に持った鞄を肩から背中に預け、遊はいかにも優良と言うような──脇腹に鞄を挟む形で、持ち手を腕に通して持つ。
物の持ち方ひとつとっても、その人となりは大まかに判別し得るんだなと、僕は劣悪ながらに思った。
「なあ、遊」
「どうしたの、古谷くん?」
「──今ここにいる僕は、《普通》か?」
「うん、普通だよ──きみは普通、それ以上でも以下でもない、弍街市立盈月高等学校の一生徒。どう、満足したかな」
「……ああ、ありがとう」
こんな問いに、意味はない。
こんな答えに、意味はない。
けれど──意気もなく、味気もないその言葉を、僕は確かに噛みしめた。