010
「おはよう、古谷くん」
「……は?」
「挨拶の一つも返さないなんて、マナーがなっていないんじゃないかしら?」
「その言葉を、一学期のお前にそっくりそのまま返してやりたいよ……」
後日談というか、今回のオチ。
前日、門倉の《お祓い》を無事に成功させた僕は、彼女を家まで送り届け──その後、こっそり自宅に入り、そして静かに就寝した。
朝、反抗期のせいか荒々しい妹に容赦なく叩き起こされ、歯を磨き、飯を食い、制服に着替え、実に手際よく家を出ると──玄関前であの武装少女、門倉御前が僕を待っていたのである。
「……お前、僕の家知ってたっけ?」
「昨日の夜、ちょっとあなたを尾行しただけよ」
「いろんな意味で怖えわ!」
自転車を尾行できるって、どんな脚力だよ。
「私、元陸上部だもの」
「元陸上部というだけでは説明のつかない超常現象なんだが、そこんとこどうなの?」
「得意競技は百メートル走よ」
「ますます説明がつかなくなったわ!」
「私としては」
門倉は、僕の左手を指差して言う。
「あなたの治癒能力の方が、疑問なのだけれど」
「そういうもんなんだよ、僕の身体は」
「なら、どれだけ痛めつけても再生するのかしら? まったく、便利な身体ね」
「僕を痛めつけてやろうという明確な意思を感じるんだが、気のせいか?」
「そう、気のせいだといいわね」
「気のせいになるかはお前が決めることだ!」
僕だけ自転車に乗るのも忍びないので、ハンドルを握って門倉の隣を歩く。
「あら、乗っていてもよかったのよ」
「自転車と並走する女子高生とか、見たくねえ……」
「なら、代わりにあなたが走りなさい。私は自転車に乗るから」
「乗れんのかよ!」
一輪車とスワンボートしか漕げないとかなんとか言ってたよなあ、お前。
「冗談よ。ふふ、信じたかしら? バーカバーカ」
「前半と後半の落差が凄まじい一文だ……」
「いつも落ちぶれてる人には言われたくないわ」
「中学と高校の落差が凄まじい人間だよ、はいはい!」
「……なんか、ごめんなさいね」
憐れまれた。
それが本人にとって最も辛いのだと、何故気付かない。
「でも僕、数学は結構いい成績なんだぜ? 暗記の必要がないから、僕にとっちゃ得意科目だ」
「それは『私は国語と社会が苦手だから理系です』なんて嘯いている人間とまったくもって同じよ」
「……お前、もうちょっと素直に褒めてくれてもいいんじゃないか?」
「すごーい、古谷くん、すごーい」
「それは安直に褒めてんだろうが!」
男を褒めるさしすせそも、使い手に依存するもんなのか。
「ごめんなさい。私、他人の褒め方がわからないの」
「じゃあ、僕が手本を見せてやる」
「お願いするわ」
「まず、人のいいところを見つけるんだ」
「無理ね」
「諦めが早い!」
「人類の歴史において、私より優れた人間は存在しないわ」
「やっぱり高飛車だな、お前……」
「ちなみに、私の得意戦法は居飛車よ」
「振り飛車は嘘かよ!?」
盤外戦術で僕を惑わそうとしてんじゃねえぞ。
いやまあ、確かにやたらと矢倉とか角換わりとかしてたけども。
「そういうあなたは居飛車と振り飛車、どちらもいけるクチじゃない」
「別に誇れることじゃねえよ──大体、いっつも凡ミスで負けてるし」
「あら、凡人だものね」
「凡ミスは凡人のミスを省略した言葉ではない!」
「ぼん‐ミス【凡ミス】不注意による失敗。軽率でつまらないミス。」
「お前は国語辞典か!」
「私は曲芸師よ」
どこかしらから引っ張ってきただろ、お前。
僕にはお見通しだぞ。
「ほら、これでわかったでしょう。あなたはつまらない人間、凡人なの」
「安直でもいいから褒めてくれよ、お前……」
「私の天邪鬼は治らないのよ、我慢なさい」
安直だが、曲がっていた。
僕、この罵詈雑言にあと二年半耐えなきゃいけねえの?
ちょっと荷が重いな。
「──話を戻そう。人のいいところを見つけたら、あとはそれを普段の会話に織り交ぜるんだ。お前のいいところは──そうだな、おっ」
「死にたい?」
一瞬一秒にも満たない瞬き、僕の喉元にカッターナイフが迫る。
そういえば、回収されたのを忘れていた。
「わかった、では優しいと仮定しよう」
「仮定ですって?」
「お前のどこが優しいんだ!」
「今、あなたを生かしているところ」
優しい人間は他人の生命を脅かしたりしない。
「……まあ、いいだろう。門倉、僕の鞄を持ってくれないか?」
「わかったわ」
鞄を下ろし、門倉に手渡す。
「ああ、ありがとう──お前は優しいんだな」
「……」
「ほら、こういう感じで。このとき、笑っているのが一番重要なポイントだ。相手の顔を見るとなおよし、『この人は自分を褒めてるんだ』ってわかりやすくなる」
「……」
「えっと、門倉?」
「……褒め方より先に、それを教えて欲しかったわ」
「何を?」
「なんでもない」
プイと顔を逸らし、門倉は早足で歩き始める。
僕、なんかしたかなあ。
《何もしない》をモットーに、十六年間今の今まで生きてきた筈なのだけれど。
「待てよ、ならまずは笑う練習から──」
「笑うって、何?」
綾波レイみたいなことを言い出した。
お前、散々不敵な笑みでもなんでも浮かべてただろうが。
「……そりゃ、面白いことがあったときに浮かべる表情みたいなもんじゃねえのかよ?」
「それだけなの、なんだ」
「楽しいときとか、幸せなときとか、そういう──うーん、説明し難いな」
「じゃあ私、古谷くんといるときは笑っていたいわ」
「え?」
「馬鹿、阿呆、間抜け、おたんこなす、朴念仁」
「だーっ、待て待て! 待ってくれ、今理解するから僕に猶予を─────」
「あなたの都合なんて知らない」
僕の言葉を遮って、彼女は更に行く足を早める。
速い、速すぎる。
自転車を使わないと置いていかれそうなほどだ。
「わからん、結局お前の言いたいことはなんだ!?」
「古谷くんに教える道理なんてないわ」
「悪いがなあ、僕ははっきり言ってくれないとわからないようなタチの悪い人間なんだよ。今までの付き合いで、散々見てきただろ? だから、もし僕に言いたいことがあるってんなら、正直に話して欲しい──悪いところは直すし、悩みも最大限聞けるつもりだ」
だって僕は、お前を楽しませると決めたんだから。
あれだけ駄々をこねておいて、当の本人に何もしないというのは……あまりに図々しい。
もはや怠惰である。
「──はあ、わかったわ」
と、そこで──門倉は忽然と足を止め、僕を見る。
「わかった、って」
「あなたに伝える、という意味よ。その前に──二つ、いいかしら」
「……僕は、いいけど」
それから、門倉は指を一本立てて。
「そう。まず、あなたは最低の人間よ。私にあらぬことを言わせて、その上恥辱をもたらす──これは重罪以外のなんでもなく、それ故に、私はあなたを心底軽蔑するわ」
「お、おお……」
「次に、私がこれから何を言おうと、決して失望しないでちょうだい。あなたが言わせるという体なのだから、自分勝手にがっかりしちゃ駄目よ」
「……」
「そして、最後」
「……最後は?」
「──その、私の伝えたいことは──私からしてみれば、とても烏滸がましいことなの。許して──くれるかしら」
「ああ、勿論」
烏滸がましい。
言うにはあまりに身の程知らず。
そんなことが、果たしてあるのか。
きっとどこかで、間違えている。
「そう、ありがとう──じゃあ」
深く息を吸い、吐き、彼女は深呼吸を繰り返す。
…‥
実のところ、彼女の言わんとしていることは、既になんとなく察しがついてしまっているのだが──ここは、こいつの意志に任せよう。
恥ずかしいこと。
失望されかねないこと。
烏滸がましい──こと。
「古谷くん─────」
そう、『あれ』だろう。
「……Tバックとリボンの件は、忘れてちょうだい」
……
…………
………………
冗談だろ、お前─────
「古谷くん、私があれを本気で着けるものだと思っていないかって。いろいろ考えたのだけれど、今日伝えることにしたわ」
「あ、ああ……」
僕はてっきり、『月が綺麗ですね』みたいなのを言われると想定してたんだけど。
──自意識過剰なのは、僕の方だったかあ。
「まあ、あなたが忘れたくないというならそれで構わないし、なんなら着てあげてもいいわ」
「マジで?」
「冗談よ。かかったわね、変態」
「自分の肉体美を餌にするんじゃねえ!」
「知っているわ、世間ではこれをフィッシング詐欺と呼ぶのでしょう」
違う、そんなところでアナログを出すな。
なんも知らないじゃねえか。
そうして、僕達は──門倉はどうやら長距離走も得手だったようで、ひたすらに走り続け、僕は自転車を必死に漕ぎ、弍街市立盈月高等学校の正門に到着した。
結果として、自転車と女子高生が並走する冗談のような光景が現実のものになってしまったわけだが──というか、門倉の方がちょっと速かった。
素で現役高校生の全力チャリ漕ぎより速く走れるお前はなんなんだよ。
「運動不足(略)」
読み上げんな。
「いや、お前が、おかしい……」
専用の駐輪スペースにマイチャリを留めて、僕はそう返した。
「でもあなた、百メートル走は七秒だったでしょう」
「それは何かの冗談か?」
そもそも、僕は学校で走ったことなどない。体育祭はおろか、通常の授業にさえ碌に出席していなかったのだから。いやまあ、正確に憶えてなどいないが。
そう考えると、まともに全授業を受け、なおかつノートを余すところなくとっている人間ってのは凄いんだな──なんて、浅薄な思考を巡らせる僕だった。
遊や中学の後輩、ましてや門倉でさえそれを習慣的に、慣習的に行っている。
いやしかし、道端のおばあちゃんを助けたりなんなりしていた筈の僕なので、社会貢献という名目で振り返れば、僕は人一倍抜きん出ていると思う。
それについては他聞もない、多分。
「──そういや門倉、お前確か勉強できたよな?」
門倉が博学多才であったことを今時独白で思い出し、僕は彼女に訊ねた。
「ええ。それはもう、テストの点数なんてクラスの中では腕折りよ」
それはただ腕を折ってるだけだろうが。
「いつもの冗談に決まっているでしょう。大体あなた、私達のクラスに《あの》蝙蝠さんがいることを忘れていないかしら?」
「あの?」
「そう、あの」
遊って、そんなに名の知れたやつだったのか。
「当然よ。運動で言えば私だったけれど──こと勉学に関して、彼女より秀でた人間はいなかったわ。なんでも中学生の時、何かの模試で一位を取ったとか、なんとかって話」
「マジ?」
「大真面目。私がいつ冗談を言ったの?」
改行を一行として、九行前。
「あれで類を見ない善人だってんだから、もう勝てる気しねえよ……」
「──いいんじゃない、勝とうとしなくても、勝てなくても。負けて初めて、気付くこともあるのだから」
「その言葉、いつ考えたんだ?」
「あなたから学んだのよ。人に頼ってもいいと、私に気付かせてくれたのは──古谷くんでしょう」
──負けたわ、あなたの根気強さに。
「……僕」
僕がお前に教えた、ねえ。
教訓にするべき人材を大々的に間違えているような、そんな気がしなくもないんだが。
「──まあ、知らないようなら構わないわ。それで、私は古谷くんが羨ましがるほど勉強を得意としているけれど、それがどうしたの?」
自己肯定感が高すぎる。
努力できることを、羨ましいとは思うけど。
「いや、僕に勉強教えて欲しいなってさ。遊にあんまり時間を割かせるのも、申し訳ないし……」
「じゃあなによ、私の貴重な時間を浪費するのは差し支えないというわけ?」
「だって、お前暇だろ」
「ええそうねそうよねそうですね、それで?」
謎の三段活用。
暇であることにコンプレックスを抱いているかのような言い草だった。
「だから、僕の成績を華やかなものにする手伝いをして欲しいんだけど──休日とか、家庭教師みたいな感じで家に呼ぶからさ」
「それはつまり、私を家に連れ込むための口実ね」
「門倉さん、違うよ?」
純粋な勉強に対する意欲から出た言葉だ。
決して不純な性欲からではない。
「テストでいい点数が取れたら《ご褒美》を要求してくるんじゃないの?」
……
河川敷でエロ本読んだ小学生みてえ。
僕は何も言わなかった。
「家族と話しているときに、扉一枚隔ててあんなことやこんなことを」
「待て、話を聞け」
「勉強の合間に休憩がてら○○○○○でも○○○○でもしてもらう計らいなんでしょう?」
「隠すと余計に際立つだろうが!」
「最終的には、わざわざ家族が外出する日を狙って一日中《削除済》を《自主規制音》して《修正済》で《1kHz正弦波》──」
政府の機密文書みたいになってんじゃねえか。
「ええい、違う! 僕は勉強を教えて欲しいだけだ、大人の階段を上っていくわけではない!」
「社会的地位の観点で言えば真っ逆さまね」
「上手いこと言った風にしてんじゃねえ!」
いいんだよ、今更ソーシャルカーストなんて。
……ソーシャルカーストって、なんだか語感がいいな。
見慣れた廊下を、だけどいつもとは少し違った廊下を歩きながら考える。
変わらない、くだらない、どうもしないこと。
けれども、きっと。
終わらない、間違いない、忘れはしないこと。
「まあ、冗談は半分にしておいて──いいわ、あなたの勉強、この門倉御前が見てあげる」
「……ありがとう」
「御前御前と呼んでもいいのよ!」
「読みづらいわ!」
「私もあなたのことを、ゴミ野郎と呼んであげるから」
「…………」
昨今の小学生でも言わない悪口だ。
お前、もうちょっと道徳心を育んだ方がいいんじゃないのか。
「それにしても、お前ってなかなか──いかめしいことを、日々考えてるんだな」
「……あなた、如何わしいをいかめしいと勘違いしていない? 無知蒙昧もここまでくると終わりね、『知』という言葉を使うことすら許されない、知能も無能よ」
「お前はわざとかよ!」
「私を失望させたこと、後悔するといいわ」
「もう十二分にしてるから、改稿させてくれ!」
と、そんな冗談を交わしていると。
「あっ─────」
三階から四階への階段を上っていた門倉御前が、僕の眼前で──転倒した。
僕達が本当の意味で出会った、この階段で。
鉄の身体であれば、あるいはそうならなかったのかもしれないが──しかし今の彼女は、何の変哲もヘンテコもない、正真正銘ごく普通の少女である。
「門倉っ!」
周囲に他の生徒がいなかったのは、ある意味幸運と言えるだろう。
僕以外に被害が及ばなくて、よかった。僕が下になれば、落ちても衝撃はない。
神様のいたずらで与えられたこの身体は、そういう使い道が相応だ。
門倉を抱える体勢へと、僕は瞬時にシフトする。大丈夫──僕がクッションになれば、彼女が怪我をする可能性は万に一つもない。
そして門倉は、そのまま僕の身体へとダイブする──
「……え?」
──ことはなく、そのまま上空へ舞い上がり──さながら体操選手のごとく、縦千八十度回転、横七百二十度回転と見事なローリング・アクロバットを披露し、そして──僕の真後ろで、スタッとスマートに着地した。ついでに言うと、今日は水色のレースショーツだった。
競技なら、大歓声に拍手喝采間違いなしの凄技なのかもしれなかったが──しかし、ここはいたって普遍的な踊り場である。
僕以外に、観客はいない。
門倉は僕の方へ振り向くと、それから、階段に転がる僕に手を差し伸べて──言う。
「ああ、言い忘れていたけれど──身体が軽くなったおかげかしら、運動に関しては、とても調子が良いの。それこそ、陸上部時代にも劣らない──いえ、全盛さえ超える身体能力を、私は手に入れた。でも、その自己犠牲の精神、私は好きよ」
よくよく考えてみれば、それは至極当然のことだった。
身体が重くなったのなら、彼女は神位に憑かれていた一年半の間、まともに動くことすら叶わない筈なのだ─────!
「じゃ──じゃあお前、僕と並走してたのは」
「ええ、軽くなったおかげ」
「さっき華麗に着地したのも」
「そう、軽さと美貌のおかげ」
「突然ヒロイン感を前面に出してきたのも!?」
「それは尻が軽いからね」
すまない、冗談だ。
そこで僕は、少々意地悪な質問をしてやろうと考えた。
「──僕と、友達でいてくれるのも」
「……そうね、それは─────」
門倉は口に手を当てると、暫くして答える。
「──あなたといると、気が軽いから?」
「……僕に、訊くなよ」
ああ。
僕の我儘に付き合わせて、すまない。
僕の望みを押し付けて、すまない。
これから送る青春が、せめてもの贖罪になることを願っておこう。
どこまでいっても、独善で。
罪で、夢想で、絶望だ。
けれど──互いに、《希望》。
いや、お前が僕を必要としているのかは、訊いてみないとわからないが。
それが僕達の間ではっきりする、その瞬間まで。
すくい合って生きていよう。
「さあ、行きましょう。遅刻するわよ、古谷くん!」
彼女は僕の手を掴んで、あどけない笑顔を向ける。
「待て待て待て、僕の腕が千切れる!」
「そのときは、私が生涯あなたを看病すると誓うわ!」
「覚悟重すぎんだろ、お前!?」
まあ、一聞一見一触では冷たく、鋭く、それでいてお堅く感じる僕のクラスメイト──孤独仲間で友達の、門倉御前だが。
「フッ……ハハ、ハハハッ!」
「あなた、何がおかしいの?」
「いや、ごめん──全部、おかしくてさ」
今僕の握る右手は、一つの間違いもなく─────
人肌の温もりを感じる、柔らかい少女の手なのだった。