009
「やあ、来たね。お風呂にも入って、服も清潔そのもの──うん、充分だろう」
「そういうお前は、なんだか祭司みたいな服装になってるが──神官気取りか?」
「そうそう、気取ってるのさ。あくまで雰囲気だけ、シチュエーションだけでも大事にしないと、神様は降りてきちゃくれないからね」
廃ビルから家まで、家から廃ビルまで、合計一往復分の距離を自転車でせっせこ移動した僕達は──現在その廃ビル近くにある空き地で、所謂《神降ろし》の準備を取り進めている漫の元へ向かった。
「ありがとな、菊」
「……」
案内してくれた菊は、やはり何も言いやしなかった。ただ、いつも締まった口元が、今は少し綻んでいる──ような気がしなくもない。
「……」
ドヤ顔だわ、これ。
まあ、それはさておいて。空き地に施されたどでかい魔法陣の上に、僕達は立っていた。
一定の間隔を空けて蝋燭が置かれており、なんとも《それらしい》雰囲気を醸し出すことに成功している。
「魔法陣ってのは、本来悪霊とか死霊とかから身を守るための結界的役割だったんだけど──ま、神様に使っても、問題はないだろう」
「曖昧すぎねえ、それ?」
「曖昧でいいのさ。大体、悪霊だって見方を変えれば神様みたいなものじゃないのかい?神格化された人間の話も、それなりに聞くしね」
キリストとか、黄帝とか。
信仰心の欠片もない口調だ。
「さて、それじゃあ早速だけど──お嬢ちゃん、靴を脱いでそこに立ってくれるかい?」
漫は、魔法陣の中心を指差した。
中央には、白い布が敷かれている。
「わかりました」
指示に従い、円のど真ん中に直立する門倉。
仁王立ちで。
お前、多分護法善神とか向いてるんじゃねえかな。
凄まじい度胸だよ、マジで。
「古谷くん。今の時代、男は愛嬌、女は度胸よ!」
「男に愛嬌なんぞあるか!」
それは今この場を一目見渡せば、火を見るよりも明らかだ。片やどこの誰かもわかりやしないバックグラウンドの高校生A、片や出自境遇人間関係一切不明の明け透けに怪しいおっさんだぞ。
まあ、怪しいことが明け透けの開けっ広げであるだけで、怪しさの根源までは到底判明しているものでもないが。
「漫、僕はどうすればいい?」
ここにいるということは、当然やるべきことがある筈だ──そう考えて、僕は漫に訊いてみた。
「そうだね……きみはもしもの場合に備えて、ツンデレちゃんの隣にいてあげなよ。彼女をどうにかできるのは、紛れもなくきみだけだ──専門家の僕が言うんだから、間違いはない」
「……そうか」
僕は腹の虫を鳴らしながら、門倉の隣に立つ。
無論、普通に。
仁王立ちなど、僕は断じてしない──阿形と吽形は、今この場には不必要なのである。
……
「腹減った」
そう、僕はとても腹を空かしている。
母には事前に《自分探しの旅》だと嘘の用件を伝えてあるので、まさか警察に捜索願を出したりはしないだろう。
簡単に信じる母さんでよかったと、心の底から思う瞬間だった。
そんなこんなで、僕は現在事実上の家出という口実で《お祓い》に参加しているのだけれど。
あろうことか、飯を食い損ねた。
しかしながら、門倉の身体って死ぬほど不便だけど、そういう点においては役に立つよな。
オイルしか飲めないし、うまい物も碌に食えないから、デメリットの方が遥かにでかいなんて言われたら、それまでだが。
そこで僕はふと、門倉の方を一目見る──どこから持ってきたのかも明らかでない水筒を開け、オイルを一気飲みしていた。
改めて考えるとやべえよ。水みたいに軽く飲んでるけど、お前おかしいからな。
水筒じゃなく、油筒だ。
「不味いわね、もっと美味しいオイルはないのかしら?」
「オイルに味の良し悪しを求めるやつなんざお前くらいだ!」
「牛の乳にだってレパートリーがあるのだから、少しは欲張ったっていいでしょう」
牛乳のノリでいいのか。
コーヒー味とか、いちご味とか、そんなんで満足するのか、お前は。
口当たりを気にしろよ。
……しかし、オイルを飲んだだけあって、心なしか門倉の唇に潤いが増えているような。
擬音で言うなら、とぅるんとぅるんだ。
「そんなに私の辰が気になるのね、キスしてみてもいいのよ」
「そのキスする口がないと、どうにもならないぞ」
「ああ、言い忘れていたけれど。代価として、あなたの転生先が一生ミノムシになる呪いをかけるわ」
「払うもんが大きすぎやしないか、門倉さん?」
畜生道にもほどがある──つまるところ、指の先端でも触れたら終わりってことだろ。
言い忘れとか言葉足らずとか、そういう次元じゃねえ。言語を発する部位すらねえんだもん。
「あら、こんな好条件にいちゃもんをつけやがるなんて、本当に欲張りで口減らずな人間ね、十八人尹」
「たった今お前の手によって減らされたわ!」
ただでさえ少ない口数をもっと少なくしてどうすんだよ。
そんでもって、大して好条件でもねえし。
「まあ、確かに古谷君には重すぎる代償だったわ。代わりにセミでどうかしら?」
……大して変わってない気がしなくもないんだが、こればっかりは僕の杞憂じゃないよな、なあ?
「ミノムシはともかく、セミなら数百年後、あるいは数千年後に世界の覇権を握っているかもしれないのよ。未来を見据えた投資だと、そう思いなさい」
「大器晩成が過ぎる!」
「そうね、器器晩成よ」
「今度は口が多くなったぞ、おい!」
それ、多分さっきの辰と僕の名前から取ったろ。ちゃんと戻してくれ。
「まあ、その程度の代償で済むのなら、現世で好きなだけべろちゅーでも何でもしてやるよ」
「あら、品のないことを言わないでくれるかしら?」
「お前が始めた話題だろうが!」
品がないのは八割方お前のせいだ。
「……まあ、全部終わった後なら、そのくらいはっちゃけてもいいのかもしれないわね」
「今、なんて言ったんだ?」
「冗談よ……肝心なところだけ聞き取れないのは、何かの病気なのかしら?」
病気を疑われてしまった。
理不尽極まりない。
「二人とも、準備できたよ。お嬢ちゃんも古谷くんも、一旦座ってくれたまえ」
と、お祓いの下準備を済ませたらしい漫が、僕達に声をかけてきた。
「さて、これからお祓いの手順を説明しよう」
例の黒い小袋から、さも当然のようにホワイトボードを取り出して図解を描き始める漫。
その服でも提げたままなのを見るに、やはり相当な貴重品なのだろうか。
単純に考えて、持ち運びが楽な容量無限の倉庫だもんなあ。政府に見つかったら、一発で国宝指定もんだよ。
「神様ってのはね、殆どの場合《視えない》状態でそこに居る。居るには居るんだけど、実際にお目にかかるにはちょいと一工夫必要って感じだね。その一工夫が、昨日も言った《実体化》──神様の姿を具現化して、意志疎通を可能にする方法さ」
「……それは、どうやったらいいんですか?」
「いい質問だ。神様を構成する最大の要素──それは、《信仰》。信じる人間がいるから、必要とする人間がいるから、神の存在もその者達の願望に沿って形作られていく。とは言っても、神様は気分屋だからね──全員の望みが叶うとは限らないし、なんなら全く関係ないことを叶えるやつも少なくない。そう考えると、きみの望みが叶ったのはある意味《奇跡》なのかな?」
ただ滔々と、漫は語る。
「私の望みは、叶ってなんかいません」
それに反駁する門倉。
だが漫は、そんな彼女を軽くあしらうかのように、
「いいや、確かに叶っているよ。だって、死んでないんだから」
「……死んでないからって」
無情に、言葉を返した。
「さっき、『関係ないことを叶える』と言ったけれど──それは、端的に述べてしまえば《死》だ。やつらは僕達を生物と看做していないどころか、気まぐれでその人生──いや、人をメチャクチャにしちまうのさ。ゲームマスターのように、人間と同じ造りをしている神様は──稀有なんだよ」
《死》。
僕は門倉を横目に見る。あまりに突飛な話だったのか、顔を歪ませながら聞いていた。
「とにかく、今回はお嬢ちゃんにだけ神様が視えていればいい。そこで、だ──お嬢ちゃんに、神様を信じてもらう。そうすることで、お嬢ちゃんの想像する《力の神ヰ》が、見事目の前に現れるって寸法だね。神様との繋がりを持っている──つまり、契約をしているきみにしか、故意に神様を降ろすことはできないのさ」
……そこから先は?
「神様の話を聞かずにスルー、それで終わり!」
「待てよ、スルーだって──?」
「そう、無視しちゃう。そうすれば、向こうから『契約破棄』と判断されて、勝手に縁を切ってくれる」
なら、結局あっち側から切ってんじゃねえか。
「はっはー、そんなことはどうだっていいだろう?」
──毎夜毎晩、命の安全を脅かされるのに較べればね。
どこまでも軽薄に、軽率に、軽はずみに。
皮肉を込めたような語り口。
「まあ、ここまで色々言ったけれど、要は簡単な一問一答だよ。僕が質問して、お嬢ちゃんが答える───それを何度も繰り返す、それだけのことさ」
「……それだけ?」
「そう、それだけ。こっちは問題ないけど、そっちの準備は万端かい?」
「じゃあ、僕は離れとくよ──」
僕が近くにいるのは、かえって失敗を招くだろう。
そう思い立ち上がって、門倉と距離を置かんとしたそのとき。
「待って」
思いもよらず、服の袖を掴まれる──身体が引っ張られる感覚で、僕は咄嗟に振り向いた。
「──行かないで」
僕を決して離しはしない、その細やかで冷たい手は。
ほんの少しだけ、震えていた。
それはきっと──《不安》の顕れ。
ネガティヴな感情を漏出させている彼女のことは、僕だって知らない。
けれどきっと、冗談じゃない。
戯言じゃない。
一切の首肯もなく、それは──間違いじゃない。
「……わかった」
だから僕は、お前が普通であるための手助けをしよう。
「ま、古谷くんはここにいた方が都合もよくなる。それじゃ、始めようか──お嬢ちゃん、目を閉じて頭を下げたら、十数えるんだ」
言われた通りに、門倉は目を瞑って──茶道におけるお点前頂戴のように、頭を下げる。
狭く重苦しい空気が、広々とした空き地に漂っていた。
僕のときとはまるで対処法が違うので、たとえ付き添いであっても変に緊張してしまう。
あれはまあ、前もって《視えて》いたからか。
そうこう考えていると、どうやら門倉が十を数え終わったようで。
「そのまま、質問に答えてもらう」
「わかりました」
言うなれば、自己暗示に近いものなんだろう。
催眠──とも、呼ぶけれど。
信じさせて、信仰させる。
「きみの名前は?」
「門倉御前」
「誕生日は?」
「八月二十五日」
淡々と、続ける。
「趣味は?」
「強いて言うなら、読書です」
「好きな小説家は?」
「梶井基次郎」
「今年の夏休みは何をした?」
「決まった時間に起きて、寝てを繰り返しました」
「好きな料理は?」
「覚えていません」
「運動はよくする方?」
「する方でした」
「漫完についてどう思う?」
「私の意志で信頼はしていません」
「なら、古谷欠は?」
「気の利いたクラスメイトです」
気が利いているらしい。
「人生で、一番思い出したくない思い出は?」
「……それは」
門倉はそこで、言葉を詰まらせた。
沈黙。
「どうしたんだい? 人生で一番嫌だった出来事について、訊いているんだ」
漫が、その質問だけに意味を集約させていたことを──知る。
意味ありげに、意味のない質問をしていたのは──このため。
「お、お母さんが──」
「お母さんが?」
拒否はできない。
知らないとも、言いたくないとも──言えない。
絶対の状況。
口は自ずと開き、舌は自ずと動く。
「──お母さんが、《怪しい薬の研究団体》に、嵌まったこと─────」
……
あの家族に、母親が存在しなかった理由。
門倉の父が、殆ど家に帰らない理由。
それが一番、辛かった出来事。
自身が鉄と化したことよりも、遥かに辛いこと。
──当然なのだろう。
けれど、それは。
それだけでは。
「へえ、それで?」
「……それでって、そこまでだろ」
「いいや、違うさ。あくまで怪しいというだけで、根拠がないなら、それは子供の偏った主観に過ぎない。研究団体だって、別に薬の開発自体は制限されてないからね──法に抵触しない限りは、だけど」
「……」
「何か、あったんだろう?」
そこから先を、漫は求める。
「は、はい──お母さんが、研究団体に騙されて、そのあと─────」
「そのあと?」
門倉は、顔を強く歪ませて言う。
ネガティヴな感情、その全てが入り雑じった表情で──彼女は、説き明かす。
「──お母さんが、その研究団体の人を、家に連れてきて──それで」
「それで、どうした?」
「わ──私、を」
冷水が、地面に敷いた白い布に滴り落ちる。
常人なら、そうだ。
門倉は違う。
涙はおろか、汗でさえ流すことはできない。
「……きみに、何をしたんだい?」
「私、に──乱暴を」
「乱暴……それは、暴力を振るったという意味? それとも、性的なそれかい?」
軽々しく、漫は言う。
けれど、今の彼女にとっては、余程効果的だったらしい。
「私を─────犯そうと、した」
……
「『そうと』──つまりは、未遂だったんだろう。きみは、どうした?」
「──その人の腕を、どかそうとしたら」
……おおかた、予想はついている。
「私の──指、が──刺さって─────」
「きみはその研究団体に反抗する力を得ていたんじゃないか。でも、そうはならなかった──違うかい?」
「──反抗、したせいで、家族は─────」
「《壊れて》、しまったんだね」
「─────っ」
門倉は、再び押し黙る。
どうやら、ここが臨界点のようだった。
──いや。
《決壊の前兆》。
「──全部、奪われました」
「うん? 質問はこれで終わりだよ、もう答える必要は」
「聞いてもらわないと、駄目なんです。家も、財産も、日常も、全部失くした私の話─────」
「……じゃあ、聞かせてもらおうか」
……
ここからは、僕が語ろう。
小学生の頃、門倉御前は病弱だった。ちょっとしたことで病気にかかり、疾病を原因にした欠席も少なくなかったという。
そこで門倉御前の母は、件の《研究団体》に出資を開始した。患者ひとりひとりの病気に寄り添うスタイルが売り、なんて話だった。
まあ、当然そんなものは存在しない。
そして、身体が成長していくにつれ、門倉御前の病弱体質は改善されていった。……そう、《研究団体の薬》に関係なく、門倉御前の身体は病気に対する免疫を獲得したのだ。
しかし、門倉の母は──それを、彼らのおかげだと錯覚してしまった。研究団体に置く信頼と出資総額は加速的に増加し、ついには偶像崇拝のごとく──あたかも神のように、崇めた。
父は仕事の間柄、家に帰ることが極めて稀で、肝心の母は詐欺集団に溺れている。
自分を守る人間はいない。
そう直感で理解した門倉御前は、力を求めた。
祈った。
それは何故か?
「──悪例を、知っていたから」
《人》に騙された自らの母を知っていたからこそ、彼女は更なる愚行に走った。
教材にもなりやしないものを、あろうことか彼女は教材にしてしまった。
それはきっと、正しくあっても間違っている。
《ありえないこと》を──した。
結果として。
《ありえないこと》は、実った。
人間不信。
「そう、人間不信──誰も近付けないために、彼女は力を手に入れた。冷たくなって、鋭くなって、硬くなった──争うために、《武装》した」
これが、彼女の真実。
悲壮な秘密。
門倉御前が誰とも関わることなく、誰の助けも借りることなく、地獄のような一年半を過ごすこととなった──欠損。
「……なるほど。顔を、上げてごらん。失礼はないよ、話を聞かなきゃいいんだ」
「──は、はい─────」
全てを打ち明かした門倉は、顔を上げる。
「あ──あああああっ!」
一瞬にして、顔を青ざめさせる門倉。
恐怖──している。
あの門倉御前が、戦いている。
「そこに、何か《居る》のかい?」
「は、はい──居ます、そこに居ます」
「そう、僕には何も見えないけど。じゃ、古谷くん──きみにお嬢ちゃんが見ているものは、《視える》かな?」
「いや……」
僕には何も見えない。
ただ門倉御前が、目の前の《何か》に呻いて、怖れているようにしか──見えない。
ただ、居るのはわかる。
「わ、私──が、居る──!」
「……それが、力の象徴さ。きみの考える、力そのものだ──隠れていた理想、裏側とも言えるね。お嬢ちゃん、《何があっても》、言葉を返しちゃいけないよ」
「─────っ!」
門倉は顔をひきつらせ、明後日の方向を見つめている。
彼女が何を言われているのか、僕達にはまるでわからない。彼女にしか知り得ないことで争い、戦っている。
「お嬢ちゃん、気をしっかり持つんだ」
肩で息をする門倉に、漫は語気を強くして言う。
「はあっ──はあっ──」
だが、当の本人はその言葉を聞き入れてすらいないようで、ただ焦点の合わない目を小刻みに動かしている。
そして。
「……! っそれは─────!」
器は──決壊、した。
「門倉っ!」
瞬時にそう判断を下した僕は、門倉の元へと駆け寄る。
「なっ──なんだよ、これ……!」
それはもはや、本人の意志とは乖離し、逆行している動作──門倉の右手の五本指が、僕の口を切り裂いたかの鋭い刃へと変貌し、彼女の頸に迫っていた。
《自害》。
「おい、漫──どういうことだ!」
「《お祓い》のプランAは、失敗した──彼女の心が、神様に負けたんだ。このまま彼女の喉をかっ切ることを許してしまえば、血こそ出ないけれど──呼吸が駄目になるよ」
「そうかよ、長ったらしい説明どうも!」
「そりゃ酷いな、古谷くん……」
この状況に、お前の口調は似合わない──僕はすぐさま彼女を襲う鋭刃に手を伸ばし、自分の左手に突き刺す。
「痛っ──てえええっ!」
「古谷くん─────」
痛い、ああ痛いさ。何度味わおうが、人間痛みに慣れたらおしまいだ。
けれど、マシだろ。
地獄のような夏休みに較べれば。
間違うことに較べれば。
門倉御前の──心の痛みに較べれば。
鉄の身体を以てしても、すり減った彼女の精神は──僕の身体とは違うんだ。
傷なんて、一瞬で治る。
けれど、一度壊れてしまった心は、元の形に戻らない。
壊れそうなほど軟らかく。
抱きしめたいほど暖かく。
宙に舞うほど、軽やかな。
彼女の繊細な心が負った、凄惨な傷の数々と比較すれば──この手の痛みは、偽物だ。
「古谷くん、やめて!もう、いいから──!」
……なんと、その言葉を吐いたのは、他でもない門倉御前だった。
「もういいって、どういう──」
「このまま、死なせて……!」
汗も涙も流すことはできないまま、彼女は言葉を連ねる。
ネガティヴな語群から、無作為に選び出すかのように。
「これは──《私が望んだこと》だから」
「……そんなの冗談だ、本当は」
「冗談なんかじゃない!」
彼女から出た大声に、僕は思わず手の力を弛めた。
刃が、近付いていく。
「前々から、わかっていたことよ。心のどこかで思っていたわ──私がこうならなければ、皆は普通でいられたんじゃないかって。あなたに危害を加えることもなく、お父さんも、お母さんも──例外なく、幸せに暮らしている筈だったんじゃないかって! そんなの──今じゃ、とんだ冗談じゃない……」
「……門倉」
「だから、私はここで死ぬ──これ以上間違わないためにも、迷惑をかけないためにも、私はここで終わるべきなの! 友達のあなたなら、わかってくれるでしょう……?」
友。
「私の高校生活、唯一の友達──古谷くん。古谷、欠くん──その手を離して、助かる方法なんてないの、私が救われる道理なんて、どこにもない!」
─────だから、死なせて─────
私の人生を、終わらせて。
普通に考えれば、それは正しいのかもしれない。
《自分は間違っている》と理解した人間が命を絶つのは、なんらおかしなことでもないのかもしれない。
僕はどうしようもない馬鹿で、それについて考えるなんてのは、全然できないけれど。
でも、そんなのは。
そんな正しい終わり方は、きっと─────
「──ふざけんなよ、お前!」
「……え?」
─────きっと何かの、間違いだ。
鉄の少女を見据えて、僕は言う。
「いいか、門倉。お前のしたこととやらは、何をしても取り返しがつかない──けど、お前の犯した《間違い》ってのは、悪いことじゃないだろ! 人間誰しも間違って、それでもこうして生きている──本当に、死ぬべきなのか?」
「でも、もうどうにもならないから──死ぬ以外にないのよ、こんな状況─────」
「それが間違いって言ってんだ!」
「……私、は」
「そう、『こんな状況だから』、『選択肢がこれしかないから』、そんな思考が根付いてるせいで、お前は死を強要されてると勘違いしている。本当は一本道なんかじゃないのに、頼ることを忘れたせいで、自分が見てる景色だけを真実だと思い込んでるんだよ──お前の心持ち次第でどうにでもなる問題を、無意識の内に諦めてやがる。本当はもっと、生きる理由も、死ねない理由もあるのに、だ」
僕は門倉を見つめたまま、語り続ける。
騙り続ける。
「死ぬってのは、必ずしも悪いことじゃない──逃げ道としても、諦めとしても、そいつは最高の手段さ。けどな、門倉──『死ぬ以外にない』なんて、そんなの間違ってる! 死んでいった全ての人間は、全員、心のどこかで生きていたいと望んでたんだよ! それだけじゃない、そいつらに『生きて欲しい』と望んだやつらだっている。生きる理由なんて、死ねない理由なんていくらでも見つけられるのに、それなのに、自ら死を選ぶってのは──自分勝手な自己犠牲で、独善だ!」
僕が言えたことでも、ねえけどさ。
《ブーメラン現象》。
「──古谷くん」
……お前はさ、きっと優しいんだ。
暖かくて、柔軟だ。
でも、中学生のお前には、全てを変えるだけの力がなかった。
冷たくなかった。鋭くなかった。硬くなかった。
ただ、《おもい》だけが強かった。
だから、望んだ。
自分と他人、そのどちらも守れる力を望んだ。
願いは、叶ってしまった。
望まない形で、適わぬ形で叶った。
「お前はきっと、正しい道を選んだに違いない。それしか──なかったから、お前は一本道を進むしかなかったから、それは間違いで正しかったんだ! でも、今は違う。お前だけじゃない、僕がいる! ちゃんと見ろよ──僕が進む道は、お前のそれよりもっといいかもしれないだろ! ……なあ、門倉──そんなお前に、僕が望んでいることを言ってもいいか?」
「─────それは─────」
「お前とまた、ボードゲームがしたい。お前ともっと話がしたい。行ったことのない場所に行って、したことのない面白いことをしてみたい。一輪車にも、スワンボートにも乗ってみたい。ゲームセンターで遊んでみたい─────」
暇なときは、星でも見よう。
スマホを買ったら、連絡先を交換しよう。
自転車で知らない道を走るのも、いいかもしれない。
学校の屋上で黄昏に浸るのも、悪くはないだろう。
図書室で、一緒に勉強するのは?
当たり前にある、ファミリーレストランで。
教室で。
……もしくは、家で。
公園は──気分転換に。
お前にとってはわからないけど。
僕にとっては、楽しいこと。
だからこれは、僕の我儘で。
どこまでいっても、独善だ。
「──僕はお前に、生きて欲しい」
自分勝手で──ごめんな。
「……冗談じゃ、ない?」
「ああ。お前が生きてくれるのなら、僕は本望さ」
右手の力が、少しだけ弱まる。
「……本当に、底抜けのお人好しね。飽き飽きだわ」
──だから。
「……だから?」
そう訊き返すと、彼女ははにかんで言う。
「私を飽きさせないよう、精一杯努力しなさい。あなたの考える《面白いこと》──私に、全部教えて?」
負けたわ、あなたの根気強さに─────
身体の強張りは、もう解れていた。
右手の鋭刃はするりと抜けて、本来の《指》に戻る。
その代わりに。
《普通》となった彼女の、暖かい指が──僕の左手に触れた。
もう、武装はない。
戦いは終わったのだ。
間違うことなく。
紛うことなく、本物。
──それは正しく、彼女が望んだ形だ。
「これから、二人で考えるんだよ。勿論──お前が望むなら、だけどな」
「そうね。私も、古谷くんに楽しんでもらえるよう、精一杯努力するわ──あなたを、信じているから」
「……えっと、ありがとう?」
「ええ、どういたしまして」
「……きみ達、誰か忘れてないかい?」
──あ。
いつの間にか、神官じみた服を脱ぎ──いつものだらしない服装に戻っている漫が、にやけ顔で僕達の真横に居座っていた。
「イチャイチャするなら、おじさんから見えないところでやってくれよ。青春が恋しくなっちゃうじゃないか、やれやれ……」
イチャイチャはしてねえ。
「ああ、そうそう。頑張ったきみ達には、《昨日の古谷くん》からプレゼントがあるよ──お腹、空いてない?」
「昨日の僕?」
そう言うと、漫は小袋から何かを取り出し、僕に手渡す。
──そういや、こんなものも買ってたな。
見ると、コンビニで売っている三色団子だった。
「元々、お前に食わせるつもりだったんだが……貰っていいのか?」
「貰うも何も、もとよりきみの物じゃないか。チップはサービスの対象外だよ、古谷くん?」
ああ、それから──と、彼は付け足して。
「お嬢ちゃんのお祓いについてだけど、《成功》だね。ああなることは想定してたし、最終的には断ち切った──きみの『おもい』は、取り除かれたのさ。これからは、不必要に他人を遠ざけたりせず、心のままに接してくれよ?」
まったく、きみ達が羨ましい──なんて、似つかわしくもない台詞を捨て吐いて、漫はビルの中へと消えていった。
……
「あー……食べる?」
「よこしなさい、お腹が空いたわ」
切り替え早すぎんだろ。
まあ、彼女の事情を鑑みれば、とりあえず何でもいいから口にしたいという気持ちもわからなくはない。
蓋を開け、内一つを門倉に渡す。
「そうじゃない。あーんよ、あーん」
僕の手に戻された。
「食わせろって?」
「その通り。私に食べさせて欲しいの」
「冗談言うな、自分で食えるだろ」
「……チッ」
僕から団子をぶんどって、しかめっ面で食い始める門倉。
女子としての尊厳をまるで気にしていない。
「……月、綺麗だな」
「なによ、告白?」
「そうじゃない──綺麗だと思ったから、言ったんだ。ほら、今日って十六夜だろ」
「……今なら、手が届くかもしれないわね」
僕の手に自分の手を重ねて、彼女は言った。
「ああ、そうかもしれない」
「……それは」
「でも、考えてみてくれ。僕の身長が百七十センチ、対して地球から月までの距離は三十八万キロメートルだ。全然足りない、もし光と同じ速度で僕が─────」
……
「これだから、学のない人間は」
「なんだと? 仕方ないだろ。僕には《夏目漱石の気持ちを答えよ》なんて問題、解けやしないんだから」
「……馬鹿、阿呆、間抜け、おたんこなす、朴念仁」
ひでえ言い草だった。
しかも、黙りこくっちまったし。
……
「──そういえば、今日は中秋の名月じゃないわよね。団子を食べるには、日遅れだと思うのだけれど?」
「いいんだよ。青春に、間違いは付き物だからな」
「……取れるといいわね、そのつきもの」
「取れなくてもいいさ、だって─────」
その《つきもの》のおかげで、僕はお前を助けられたんだから。
まあ、これも独善で紛い物──彼女に明かすつもりなど、全くない。
「─────間違っても、まだ生きていけるから」
だからここではあえて、別の真実を語っておこう。
装いも争いもない、青春の一ページを飾るために。
「へえ、楽しそうで何よりだわ。滑稽ね」
「滑稽とはなんだ」
「ふふっ、半分くらいは冗談よ」
「半分は滑稽じゃねえか!」
「ええ。本当に、滑稽だわ─────」
忘れることなき、備忘録。