5.怖いこと
夕日が窓を染める頃、施設のラウンジで、チカチカと映像が変わるモニターを眺めながら、ジュラは片耳にイヤホンをして、鼻歌を歌っていた。
「何をしてるの?」と、彼に声をかけたのは、以前「ジュラは本当に『金魚』なのか」と、リモに詰め寄った少女、エカだった。
ジュラは、外の音が聞こえるほうの耳で、エカの声を聞きとって、「シアさんから借りたんです」と言って、モニターに接続された機器を操作し、ミュージックディスクを取り出した。
「おんがく、を聴いてたの?」と、エカは聞く。彼女にとっては、未だ「音楽」と言うものは、一定の規律を持って高低する音の波長としか受け取れなかった。
「ええ。気分転換になるって言って」と返して、ジュラは短期間の演技の練習で培われた淡い表情を浮かべた。
目を細め、首を少し傾け、唇に笑みを浮かべる。本人は微笑んでいるつもりらしいが、「うっとりしている」ようにも見える。
「さっきのモニターの映像は?」と、エカは質問を続ける。
「音楽と合わせてある視覚効果みたいです。なんでだろう。観てると、何となく気分が良いですよ」
「ふーん」と答えてから、エカは「私も観たいな」と申し出た。
「イヤホン、ひとつしかないけど…」と、ジュラが言うと、エカは「小さい音で流してれば、うるさくないと思う」と言って、モニターのスピーカーの音量を最低限にした。
静かなラウンジの中に、スロービートのロックンロールと少女のような甘い歌声が流れる。
モニターの中では、サブリミナル効果やダンスシーンやアニメーションや加工画像などを駆使した映像が、音楽に合わせてチカチカと光る。
「溶けてしまう水色。崩れ落ちる空色。願うほど叶わない。だけどまだもうひとつ。だけどまたもうひとつ。涙なんて知らない。涙なんて要らない。だけどまだもうひとつ。だけどまだもうひとつ」
画面の中に映る少女の歌声は、ポジティブなメロディーラインと合わさると、不思議と何かを覚悟しているような謎めいた響きを残す。
「不協和音って言うんですって」と、ジュラは歌声の邪魔にならないような小さな声で、エカの耳に囁きかける。「本来は、不安な気持ちにさせる音なのに、敢えてそう言う作り方をするんだって、シアさんが…」
そう言いかけた時、エカは突然目を大きく開き、ジュラの肩をつかむと、その服の上から皮膚に歯を食い立てた。
「痛い!」と言って、ジュラはエカを振り払おうとした。しかし、エカは両手で抱え込むようにジュラの腕をつかみ、離さない。
「エカさん。離して!」と、ジュラが叫ぶと、エカは我に返ったように目を瞬き、顎と両腕を震わせながらジュラから離れた。そして、その場から逃げ出した。
厚手の服の上から噛まれただけだったので、ジュラは肩の皮膚に赤い歯型が付いただけで済んだ。
医務室で、リーチャと言う名札をつけた職員が、ジュラの肩に出来た怪我の様子を観てくれた。「氷で冷やして置けば治るかな」と言って、氷冷室から保冷剤を取り出して、タオルで包んだものを患者の肩に当てた。
「皮膚も切れてないし、消毒は必要ないと思う。だけど、誰に噛まれたのかは教えてくれるかい?」と、リーチャは聞く。
「あの…。それを言ったら、僕に噛みついた人は、処罰されるんでしょうか?」と、ジュラが聞き返すと、「処罰されては欲しくないの?」と、職員は言ってから、「どんな状況で、なんで噛まれたのかの理由が分からないと、再発防止ができないだろ? 君はこの施設の中では、『希少』なんだからね。守られなきゃならない」と、質問を変えた。
ジュラは、ある姉と一緒に、映像付きのミュージックディクスをモニターで見ていたら、突然噛まれたと説明した。
「うん。分かった。そうなると、その人が何を思って君の肩を噛んだのかの理由が分からなきゃならないだろ?」と、リーチャは説明する。「それで、噛んだ人を教えてほしいんだ。処罰の話は、その後だね」
そう言われて、ジュラは恐る恐るとエカの名前を口にした。
エカは自室に鍵をかけて引きこもっていた。研究員や職員達が声をかけても、居留守を使う。居ないふりをしても、センサーにより扉の表示が「在席」になっているので、隠れようはないのだが。
時間が経てば部屋から出て来るだろうと思って、エカはしばらく部屋の中に放置された。しかし、丸一日経過しても、一歩も部屋の外に出てこない。
このままでは部屋の中で衰弱死してしまうとして、シア達が説得のために呼び出された。
事と次第を聞いたシアは、ドアをノックせずに、穏やかにエカに声をかけた。「エカ。大丈夫だよ。それは、怖い物じゃない」と。
職員達はシアの言葉の意味が分からず、ちらちらと互いに目を見合わせた。
「怖がらないで。今、ドアを開けるよ」とシアが言ってから、職員達の手によってエカの部屋の扉は鍵を壊された。
リモが職員達を身振りで止め、シアはエカの真っ暗な部屋の中に足を進めた。途中で、電灯のボタンを押し、明かりをつける。
エカは、目を血走らせ、ベッドのブランケットの中に潜り込んでいた。
「エカ」と呼びかけて、シアはブランケットの上から妹の背を撫でる。そこに、リモが清涼飲料水の入ったボトルを持ってきた。
喉の渇きを抑え、糖分を補給して、エカはようやく張りつめていた神経が落ち着いたようだ。「何が起こったかは、よく分からないの」と、自ら自分の内面で起こった事を説明し始めた。