第九話 月の宮
「厨房の説明はこんなとこかねぇ。そんな広くないでしょう?」
「……えぇ、まぁ」
「閣下は寛容な方だから、多少失敗しても許してくださる。気楽にやんなさいな」
リヒムの屋敷で目覚めてから翌日の朝。
料理官の制服に着替えたシェラは老女の料理官から引継ぎを受けていた。主な調理道具の場所、仕入れ業者のこと、料理の時間や配膳係の紹介、予算の管理などなど、リヒムの厨房は一人ですべてを回す形らしく、覚えることがいっぱいで大変だった。
(そりゃ、この人も腰を痛めて引退するわけだ……)
シェラが来る前から高齢だったということもあり退職を考えていたのだという。
元々は宮廷に居た料理官で、最高料理官の地位まで上り詰めたようだ。
厨房の仕事は激務。長年の疲労がたたって腰に来ることは珍しいことではない。
「次はあなたの職場に行きましょう」
日が登って五時間が経つ頃、シェラはルゥルゥと共に宮殿を歩いていた。
シェラがいた火の宮は星形の底辺に位置していたが、月の宮は真逆の頂点に位置する。それぞれの宮は皇帝の寵愛を得ようと敵対しているので、見知った人間に出会わないのは幸いだった。リヒムが火の宮に手を回しているのだろうが、脱走者である自分が彼らと再会して何をされるか分からない。
(ま、月の宮の連中もどうせ同じような奴らだろうけど)
「着きましたよ」
そう言われてシェラは顔を上げた。
ルゥルゥが扉を開けると、厨房の景色が目に飛び込んでくる。
(……意外と綺麗ね)
同じ国の厨房とあって火の宮と同じようなものを想像していたのだが、全然違った。確かに大鍋は五個も並んでいるし、小コンロも二百ほど連なっている。
ただ、火の宮が雑然とした鉄火場であったのに対し、月の宮は驚くほど静かだった。
淡々と、皆が仕事に取り組んでいる。
片付くものは片付き、床には生ごみ一つ落ちていない。
(お姉ちゃんの仕事場みたい……)
思わず感心していると、白髪頭の料理官が出てきた。
職人を思わせる厳つい顔立ちに白いひげを蓄えた男だ。
「よう、ルゥルゥ。来たな」
「ご無沙汰しております。ガルファン・バサム様」
「がっはっは! 堅苦しい挨拶はよせやい!」
「帝国で五人しか居ない食聖官に失礼があってはいけませんので」
「最近じゃ火の宮の連中に負けてるジジイだがな! がっははは!」
シェラは豪快な笑い方をする男をじっと見つめた。
(食聖官……皇帝の料理を作る権限を持つ最高の人……だっけ)
前任に仕事の引継ぎをしてもらいながら帝国の階級制度にも学んだのだ。
神殿が信仰を集めていたアナトリアと違って帝国の料理官は五つの階級に分かれている。
下級料理官、
中級料理官、
最高料理官、
食聖官補助、
食聖官、
シェラは下級にも入っていない。
食聖官とはアナトリアにとっての姉のようなものかと一人で納得する。
(ま、うちのお姉ちゃんのほうが百億倍すごいけどね)
「で、だ。このチビ助が閣下の言ってた新入りか?」
「はい。名はシェラ・ザード。例の国出身です」
「ふぅむ……」
ガルファンは顎髭をなでながらシェラをじろじろと眺めやる。
「なるほど。確かに月の宮で働く資格はあるみてぇだな」
「では、お願いできますか?」
「あぁ」
ルゥルゥは一礼するとシェラの頭を撫でた。
「一人でやれますか」
シェラはその手を振り払う。
「子ども扱いしないで」
「失礼。冗談です」
(だから、あんたの冗談は笑えないんだって!)
頬がひきつるシェラに頷くと、ルゥルゥは去っていく。
途端、食聖官と二人になった気まずさでシェラは目を逸らした。
「さて、と。お前さんの担当だが……」
ガルファンは周りを見回した。
「おぉ、いたいた。おーい! リーネ! こっち来い!」
「あぁー!? なんだよガル爺、あたい忙しいんだけど!」
ガルファンに呼ばれてやってきたのは最高料理官の制服を来た女だった。
黒髪で気の強そうな女で、張りのある胸がたぷんと揺れている。
「あー? もしかして例の新入り?」
「そうだ。お前、今日から教育係になれ」
「は!? あたいが!?」
「パシリが欲しいって言ってただろうが」
「いやいやいやいや、パシリってもうちょい使える奴くれよ! こんな……」
リーネと呼ばれた女はシェラの身体をじろじろと眺めまわし、
「ほっせーな。それにちっさい。今にも折れそうじゃねぇか。しかもその眼、まさか、アナトリア人か?」
「阿呆」
ごつん! とガルファンがリーネの頭を叩いた。
「いってぇー! なにすんだよ!」
「身分、出身、性別! 月の宮ではすべてどうでもいい! 実力がすべてだ!」
「分かってるよんなこたぁ! 何も殴らなくてもいいだろうが!」
「愛の鞭だ」
「弟子の扱いがひどすぎる!」
リーネがぶつくさ言いながらシェラに向き直る。
「リーネ・リッタ。あんたの教育係だとよ」
「……シェラザード」
「んだよ陰気くせぇやつだな! やる気あんのか!?」
「そんなものないに決まってるでしょ」
「はぁ!?」
シェラは望んでイシュタリアにいるわけではないのだ。
姉を殺した将軍の管轄する厨房など居るだけで怖気が走る。
可能なら今すぐにでも辞めたいが、奴がそれを許してくれるとは思えない。
「生意気な後輩だなコイツ……」
「がっはは! ま、しゃあねぇさ。まだ終戦から一年しか経ってねぇんだ」
でもよ、とガルファンは告げる。
「ここじゃあそんなのは関係ねぇ。実力がねぇ奴はどこのお貴族様だろうが弾き飛ばされる戦場ってやつよ。おいシェラ。今からお前の配置場所を決めるために『恐魚』を捌いてもらう。出来るな? あいや出来ねぇとは言わせねぇ。何事も挑戦だ。やってみろ!」
力強く背中を押されて、シェラはまな板台の前に立った。
すぐにガルファンたちが数人がかりで恐魚をもってやってくる。
体長は三パルザングほど、かなり立派なサイズで、表面は蒼白くつやつやとしている。口から伸びた巨大な牙が生きている時の獰猛さを思わせた。
(……しょうがないな)
食材を目の前にして逃げるなど、アナトリア人の名が廃る。
イシュタリア人を前にして弱い姿を見せるなどシェラの誇りが許さない。
何より自分は、アリシアの妹なのだ。
「お姉ちゃん、力を貸して」
呟き、シェラは祈るように包丁を手に取った。




