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第二話 滅びの日

 

 一年前。


「お前はお姉ちゃんと違って本当に愚図だね」


 石造りの厨房で包丁を握るシェラは冷たい声を浴びた。

 まな板の上には三枚におろした(サマク)があり、本来捨てる部位である骨には多くの肉がついていた。

 ふつふつと、鍋の湯が沸騰して噴き出している。


「あーあ。ダメだこりゃ」


 後ろから覗き込む母の目は冷たい。


「こんな骨に身が残ってちゃ魚がもったいないよ。お姉ちゃんは五歳の時には全部出来てたのに……お前はねぇ」

「あ、あの。お母さん。私、頑張るから、だから」


 シェラが震える声でそう言うと、母はため息を吐いて言った。


「もういいよ、あっち行ってな。()()()()()()()()()()()()()()()()

「……っ」

「ほら、邪魔だからさっさとお行き」

「…………はい」


 しっしと手で追い払われ、シェラはとぼとぼと厨房を出た。

 神殿(マバド)の祈祷所では父が祭壇に雄鹿の角を捧げている。

 揺らめく炎の前で祈りを捧げる父を見ていると、彼は薄目を開いていった。


「外に出ていきなさい。気が散る」

「……あの」

「まったく。なぜ言わねば分からんのだ。アリシアの時は……」

「……ごめんなさい」


 シェラはそれ以上お小言が続く前に神殿を出た。

 夕暮れの光に照らされた村では子供たちが大人に手を引かれ、同世代の子供たちは仲間内で遊んでいる。男たちは狩猟の成果を自慢しあい、女はうわさ話に興じ、心を通じ合わせた男女が路地裏で影を重ねていた。シェラの名前を呼ぶ者は誰もいなかった。


「だ~れだ?」


 ただ一人を除いて。

 突然、目の前が真っ暗になった。

 瞼の上に感じる温かい手のひらの主にシェラは言い捨てた。


「いつまで経っても子供っぽい嫁の貰い手をなくした悪戯娘」

「あぁっ、言ったな、このっ! 生意気な妹はこうだ!」

「いた、いたたたた! お姉ちゃん痛いっ!」


 拳で頭をぐりぐりされたシェラは嬉し混じりに悲鳴を上げる。

 シェラと同じ紅い髪を揺らす姉は満足したように離れた。

 紫紺の瞳が弓なりに細められる。


「むふふ~ん。お姉ちゃんをからかうからだよ~」

「……これがこの国一番の姫巫女(ディムト・アラフ)になるって言うんだから、世も末だよね」

「なんだとぅ!?」

「ふん」


 シェラはそっぽ向いた。


 彼女にとって姉は複雑な存在だった。

 食を探求する師であり、背中を追い続ける憧れであり、血を分けた肉親であり……

 誰よりもかけがえのない親友でもあった。


 大好きで、大嫌いな存在だった。


(私もいつかお姉ちゃんみたいに……)


 シェラが生まれたアナトリア王国は『食の宝物庫』と呼ばれている。

 さまざまな食材が世界中から集まり、日々料理や研究に勤しんでいる。

『食』は身体を作るすべての基本であり食こそが神と繋がるという信仰を持っている国だった。


 その中でも神に奉納する料理を作るのがシェラの生まれた巫女(アラフ)一族だ。

 姉──アリシアはその中でも歴代最高と名高い筆頭巫女。

 どんなに調理が難しい食材も彼女の前ではただの食材に等しい。


 姉が包丁を握ると、場の空気が清められる。

 ひとたび刃を振るえば食材が喜び、野菜も魚も肉も輝き始める。

 彼女の料理を食べれば万病が癒やされ、肉体の潜在能力が目覚める。


 厨房に立つアリシアはまるで食の化身のようだと、人々はいった。


 そして続く言葉はこうだ。

 姉のアリシアに比べて──


(妹のシェラ()は、出来損ないの愚図(チビ)……)


 仕事が遅い、物覚えが悪い、背が低すぎるなどなど……。


 先ほども両親に名前すら呼ばれなかった。

 最後に名前を呼ばれたのはもう十年も前のことだ。


「……シェラ。何かあった?」

「……」


 姉は、そんなシェラを目ざとく見て抱きしめてくる。

 その温もりが嬉しくて、でも姉と比べられているから素直になれなくて。


「……なんでもない」

「なんでもないのに泣くんだ」


 シェラの眦に浮かんだ雫を指ですくい、アリシアは笑う。


「目から汗が出ただけ。今日は暑いから」

「そうだね。暑いねぇ」


 優しく頭を撫でてくれる姉が大好きで、大嫌いだ。

 この人が居なかったら自分はこんな惨めな思いはしなかった。


「でも、シェラもそろそろ甘えたを卒業しなきゃね」

「……え?」


 アリシアは寂しそうに言った。


「前々から話はあったんだけどね。行くことになっちゃった」

「どこに」

「王都」

「……え?」

「もう、シェラの側には居られないかも」

「そんな」


 前々から。

 王都。

 姫巫女として?


「なんで」


 思ったことは、すぐに口に出た。


「なんで、言ってくれなかったの……?」

「……シェラ、わたし。あなたに言わなきゃ──」


 伸ばされた手を、シェラは振り払った。

 もっと前から言って欲しかった。

 心の準備くらいさせてほしかった。


 アリシアがいなきゃ、シェラは一人で。

 この広い世界のなかで、誰にも必要とされていなくて──


「……い」


 涙のヴェールの向こうで、姉が戸惑ったように見えた。


「シェラ」

「お姉ちゃんなんて大嫌い! 死んじゃえ!」

「シェラ!」


 姉はいつもそうだった。

 村の筆頭巫女に決まった時も、国王から食姫の称号を賜った時も。

 先代姫巫女から『ゴルディアスの秘宝』を伝授された時も。


 ──走る。


「……っ、お姉ちゃんの、馬鹿やろーーーーーー!」


 絶対に、自分には何も言おうとしなかった。

 大事なことは胸に秘めるだけで、何も。


「ハァ、ハァ、絶対に仲直りしないんだから。今度という今度は許さないから!」


 走るだけ走って息を切らし、シェラは立ち止まって膝をつく。

 すぐに胸の中に寂しさが吹き荒れて、さきほどの温もりが欲しくなった。


「……おめでとうくらい、素直に言えればよかったな」


 今度会ったら言ってみよう。

 出発がいつかは知らないけど、見送りくらいしてやろう。

 その時に、ちゃんと──




 翌日、姉が死んだ。



 姉だけではない。

 アナトリアという国そのものが、一夜にして滅んだのだ。



 ◆



 黒い雲が立ち込めていたことを、覚えている。

 朝起きて、水瓶で顔を洗って、山菜が切れていることに気付いたのはシェラだった。

 ちょうど居合わせた母は「あんたが行きなさい」と言った。


「お姉ちゃんは巫女としての仕事が忙しいの。さっさと行きなさい」

「……はい」


 まだ陽も登っていない時間だが、姉の姿はベッドにない。

 姉はいつだって誰よりも早く起きて、神殿の厨房で包丁を握っているのだ。

 シェラは一人で山に出かけた。

 狂暴な熊や山鹿も、朝の時間は巣に帰っている。

 雲行きこそ怪しいものの、山菜採りにはうってつけの時間だった。


 アスパラガス、ネトル、タンポポ、クマネギ、などなど……。

 山菜採りに徹している間は何も考えずに済むから、シェラは好きだった。


(お姉ちゃんに早く謝らなきゃな……)


 姉の出発は一週間後なのに、まだ仲直りできていない。

 姉のほうは喋りかけようとしてくれているのに、シェラが突っぱねてしまうのだ。


(今日だけは素直になろう。そうしよう)


 そう思いながら、シェラは帰途に着いた。



 ──すべてが燃え上がっていた。


「え?」


 慣れ親しんだ門番は惨殺されていた。

 軍靴の音が轟き、残酷な剣戟の音が響きわたっている。

 シェラは山菜を取り落とした。

 悲鳴が聞こえたのはその時だった。


「────────!」

(この声、お姉ちゃん!?)


 本当は怖くて怖くてどうしようもなかった。

 身体中が震えて吐き気がこみ上げて蹲ってしまいたかった。

 でも、そうしたら二度と姉に会えない気がして──


「お姉ちゃんっ!」


 シェラは燃えさかる村のただなかを走り抜けた。

 シェラの家は村の一番奥にある神殿だ。

 そんなに大きな村でもないため、すぐに神殿に辿り着いた。


 そして──


「お姉ちゃん!」


 騎士鎧を着た男に(かか)えられている姉の姿があった。

 彼我の距離は三百パラザング(約三百メートル)ほど離れているが、見間違えるわけがない。

 シェラの姿を見ると、姉は薄っすらと笑う。


「その人をはな」


 上から押さえつけられた。

 何者かに地面に組み伏せられたシェラは激しい痛みに悶える。


(この人たち、イシュタリア帝国の……!)


 ちらりと見えた騎士(ファリス)の近くに隣国の旗が翻っていた。

 アナトリアと敵対する騎馬民族、火の神を心棒するイシュタリア帝国だ。

 元は遊牧民族である彼らが版図を広げようとしていることは周知のことだったが。


(まさか、宣戦布告もなしに攻め込んでくるなんて……!)


「シェラ……大好きだよ」


 姉が、名を呼んだ気がした。

 シェラは顔を上げる。

 見れば、騎士に抱えられた姉は薄っすらと微笑んでいる。

「おねえちゃ」

 ザクリ、と。

 姉の胸に刃が突き込まれ、死神が命を奪っていく。


「いやぁあああああああああああああああああああああああ!!」


 悲鳴を上げるシェラは無理やり抑え込まれ、縄で縛られた。

 涙で濡れた視界の向こうに、冷たく光る蒼色の目。

 燃えさかる焔の中で身を翻す、その騎士の姿を忘れたことはない。




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