39. ミネット
今から八年前、この村がまだ飢餓の村と言われる前の時の頃。
村の外れで倒れている一人の少女がいた。
服は全身ずたずたに引きさけ、網のようになっていた。この少女が、ミネットである。
彼女の周りにはハエがたかり、それを見た村の人達は、死体だと思い誰も近づくことはしなかった。
ミネットは空腹と疲労で意識が薄れていくのを感じていた。
(ああ…………このまま…………死ぬのかな…………?)
視界の周りが黒くなっていくのを感じていたその時、誰かが近寄ってくる足音が聞こえた。
「…………かい?…………しっかり…………」
少し歳をとった男性の声が聞こえてくる。しかし、声を出す気力もなく、声もこもって聞こえる。
そして、何もできないまま、その声と共に、意識が遠くへ、遠くへと引き延ばされていく感覚と共に、視界は暗闇に包まれた――
暗闇に、微かに音が聞こえてくる。木に何かを打ち付けているような、そんな音が規則的になっている。
目を開けると、そこはどこかの家のようだった。
体は相変わらず動かない。目だけを横に向けると、目の前には至近距離に自分よりも幼い少女の顔があった。
驚いたミネットは声を上げたくても上げられず、目を大きく見開いた。
「うわあああああああ!生き返ったああああああ!」
ミネットの代わりに大きな声を上げた少女。すると、規則的になっていた音が止んだ。
「こらこら、彼女は死んでなんかいないよ」
少女の頭に手を乗せるのは、少し白髪の混じった三十代後半の男の人だった。
「大丈夫かい?ご飯は食べれるかい?」
男の人の優しい声は、意識を失う前に聞いた人の声だった。
男の人が差し出したのは、野菜と肉の優しい香りがするスープだった。
「先ずはこれを飲むといいよ。空腹に食べ物を一気に入れたら、体を壊してしまうからね」
ミネットはスープを受け取ると、一口含んだ。
口の中に広がる優しい味、それが食堂を通り、胃に到達すると、暖かさが体全体に染みわたっていくのを感じた。
久々に口にした料理に、一口、また一口と次々口に運んでいく。
「おいしい…………おいしい…………」
何度も繰り返すミネットの瞳からは、大粒の涙があふれ出していた。
こんなに暖かいものを食べたのは二年ぶりになるミネットにとって、いっそう美味しく感じた。
涙を流しスープを飲むミネットを、おじさんは我が子を見るように微笑んで見ていた。
スープを飲み終えたミネットは手を合わせる。
「ご馳走様でした」
まるで神に祈るかのような雰囲気で言うミネット。そして、自分を救ってくれたおじさんの方をむく。
「ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」
深々と頭を下げるミネットの頭を優しく撫でながら、
「気にしなくていいんだよ」
まるで父親のように優しく言ってくれた。
それだけで、ミネットの胸は熱くなり、再び目がうるうるとし始める。
しかし、涙をこらえて、恩人の名を聞く。
「おじさんの名前は?」
「私はモント。この子はココ。私の娘だ」
モントの後ろに隠れ、恥ずかしそうに、小さくお辞儀をするココにミネットは笑顔で返す。
すると、モントはミネットと同じ目線までしゃがむと、神妙な面持ちで尋ねた。
「無理にとは言わないが、なぜ君があそこに倒れていたのか、教えてくれないかな?」
ミネットは、今までこんなにも親切にされたことがなかったからなのか、自分がここに来た経緯を素直に話し始めた。
「私、両親に捨てられたの。それで、わけもわからず、どこに向かっているのかもわからなくて。
誰かに頼っても、みんな私を避けていく。酷い人は闇ギルドに連れていこうとしてた。
そして、色んなところをさまよっていたら、いい匂いがしてきて、そっちに向かったらこうなってた」
こんな話をしたところで、きっといつものようにけいべつされるだけだと、恐る恐るモント野顔をみる。
しかし、ミネットの予想は大きく外れていた。
目の前のモントは、まるで自分が当事者であるかのように、悲しそうで、辛そうな顔をしていた。
「さぞ辛かっただろうね……でも、もう大丈夫」
モントは優しくミネットの手を握る。
少し硬くて、ゴツゴツとした手は、全く嫌な気持ちにならず、むしろ、優しくて暖かくて、ずっと握っていたいような、心がポカポカするようだった。
向けられたことの無い愛情。それがなんなのかミネットは知らなかったが、それがとても心地よく、嬉しいものなのだと、初めて知った。
そして、モントはミネットにある提案をする。
「行くところがないのならここにしばらく泊まるといい」
「そんなこと、できないよ。おじさんに迷惑かけちゃう」
気を使っていることに気がついたモントは微笑んで言う。
「迷惑なんかじゃないよ。むしろ、歓迎したいくらいさ」
すると、少し曇った表情でココの頭を撫でる。
「一年前、妻と娘を亡くしてね。今はこうして、ココも元気になってくれたが、やはり、姉のことを時より思い出し、寂しそうなんだ」
「その、なんて言っていいのか……」
「ごめんごめん。気を悪くさせるつもりはなかったんだ。もしよければ、この子の遊び相手になってほしいんだ。無理にとは言わないけどね」
ココは少し驚いた顔でモントの顔を見ている。
ミネットは優しく微笑むモントを見て、少し考える。
今まで、優しく接してくれた人には騙されてきた。だからこそ、モントを信用してよいのか迷ってしまう。
心の底では彼を信じたいと願っていた。しかし、今までの経験が、体に刻み込まれた恐怖がそれを許さない。
とはいっても、実際行く当てもない。となると、心は痛むが、利用するだけ利用して、売り払われる前にここを出よう。
「ありがとう、おじさん。お言葉に甘えて、ゆっくりさせてもらうことにする」
心にもやもやとした違和感を残しつつ、偽りの笑顔でミネットはいった。
モントは静かにうなずいた。
ミネットがモントの家に拾われてから三年が経った。
あれからというもの、ミネットはいつか売られると、モントの様子を観察しながら生活してきた。しかし、一か月たっても、一年経っても、まったくそんな気配はなかった。むしろ、我が子のように接してくれたのだ。
村の人も今では受け入れてくれて、皆顔なじみになっていた。
そして、いつの間にか居心地がよくなってしまったミネットは、すっかりモント家の家族として生活している。
ココとの仲も深まり、自分を姉のように慕ってくれる彼女は、かわいくて仕方がなかった。
そんな平穏な生活が続くと思われていた、そんなある日のこと。
ココとミネットはいつものように、モントからのお使いのため、城下町を訪れていた。
そして、日が西に傾き始めたころ、買い物を終えた二人。
「よし、これで終わり!日が暮れる前にさっさと帰えろっか!」
「それじゃあ、いつもの近道通って帰ろうよ!」
ココのいうように、大通りから迂回して帰るより、少し気味が悪いが、人気が少ない街はずれの方から帰った方が近い。
「それもそうね。荷物も多いし、近道しちゃおっか!」
「いえ~い!」
ココは手を上に掲げて楽しんでいる。その様子を、ミネットは微笑ましく見ていた。
街はずれの近道を、歌を歌いながら通っていた二人。すると、壁の陰から何かが飛び出しているのに気が付いたココ。
「ミネットお姉ちゃん。あれなに?」
ミネットはそれを見ると、さっきまでと打って変わって、真剣な表情になっていた。
「ココ。お姉ちゃんの荷物みてて」
いつもより低く、少し緊迫感のある声に、ココは少し不安そうな顔をしている。
ミネットは恐る恐る影を覗く。そして、息を呑んだ。
――転がっていたのは血まみれの死体だった。
なぜこんなところに死体があるのかわからないが、これはきっと誰かに殺されたものだ。確信したミネットは背後でなる物音を聞いた。
慌てて振り返ると、黒い影が見えた。しかし、はっきりとは見えなかった。
「ミネットお姉ちゃん?」
黙っているミネットを心配したココが、近づいてくるのを感じたミネットは、慌てて笑顔を作る。
「ごめんごめん!なんか酔っ払いが寝てたみたい!ほら、こんな人ほっといて、さっさと帰ろ!」
「うん……?ほっといていいの?」
「いいのいいの!ココはこんな人になったらだめだからね!」
強引にココの背中を押して、足早にその場を去った。
無事に家に着き、日が暮れてモントと共に食卓を囲んでいた。
ミネットは帰りの出来事を思い出し、なかなか手が進まない。それに気が付いたモントは心配そうに声を掛ける。
「何かあったのかい?ミネット」
「あ、うんん!何でもない!」
ミネットは慌てたように目の前の皿を、丸ごと食べてしまいそうな勢いで一気に掻きこむ。
食事を終え、風呂につかっていると再び昼の死体のことを思い出す。
死体を見るのは別に初めてではない。むしろ、数年前までは日常茶飯事だった。
あの死体を見たことで、再び昔のようなことになってしまうのではないか。モント達も巻き込まれてしまうのではないか。
そう思うと不安で仕方がない。
「なんか、嫌な予感がするな……」
消えるように呟き、口を湯船に沈め、ぶくぶくと泡立てていると、換気用の小窓が静かに開く。
ミネットは誰かがのぞきに来たのかと思い、立ち上がって、近くにあるタオルで身を隠す。
しかし、誰かがのぞいてくる様子はなかった。その代わりに、窓の外から小石のようなものが投げ込まれた。
ミネットが転がる石に気を取られていると、いつの間にか窓は閉まって、誰かがいる気配はなくなっていた。
投げ込まれた石を恐る恐る拾い上げる。すると、石に何か傷のようなものがあり、それが文字だと気が付いた。
『外で待つ』
その文字を見た瞬間、ミネットは、不思議と死体を見た時に、背後に感じた影のことを思いだした。
嫌な予感がしたミネットは、早々に風呂を上がると、急いで着替えをする。
妙に慌ただしいミネットにモントは聞く。
「どうしたんだい?そんなに急いで」
しかし、ミネットは黙って答えようとはしない。
何かいつもとは様子が違うミネットに、気が付いたココは、何故だか、ミネットが遠くに行ってしまうような感じがした。
ココは慌ててミネットの袖を掴む。
「ミネットお姉ちゃん…………」
寂しそうに呟くココの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
その顔を見たミネットは、いつものように笑ってココの頭を優しくなでた。
「大丈夫。必ず帰ってくるから」
家を出ようとするミネットの背中は、とても遠く、手の届かない距離まで離れているような気がした。姉と母が事故で無くなった時のように――
その夜を境に、ミネットは姿を消した――




