7 これが本能ってことですか
「ルシアン。それは良くないと思う」
「!! 殿下!?」
気を失った彼女を抱え、さっきの空き部屋に急いでいた。腕の中の女の子は温かくて柔らかくていい匂いがするのだ。よく分からない衝動が湧き上がる感覚がして、今にも取り落としそうだった。
どうにか件の部屋の前に辿り着いた時、今まで俺が探し回っていて、そして一番この状況を見られたくない人に見つかってしまった。
誰のせいでこんなことになっていると……
「何か勘違いをなさっているところすみませんが、ご覧の通り手が離せないので、扉を開けてください」
「王子に命令するのはお前くらいだよ」
何食わぬ顔を装っているが、口から心臓が飛び出そうだし、腕の中の女性の感触におかしくなりそうだから早く下ろしたい。
はははと笑いながら、素直に扉を開けた殿下は、ソファへ女性を下ろした俺にきらきらした目で詰め寄ってきた。
「ルシアン、何したの?」
「俺は何もしていません」
「あっ、これからするのか!」
「……殿下?」
何か盛大な勘違いをしている。男が皆、自分と同じだと思わないで欲しい。
「草食動物だと思っていたけど、好きな子を目の前にすると肉食ってこと~?」
「だから……」
「ああ、ごめん、ごめん。俺、邪魔だよな? あ、でも眠っているご令嬢に手を出すのは良くないと思うぞ」
ぱちんと綺麗にウインクを決めて、部屋から出ていこうとする殿下を引き留める。
「殿下、シャマール国の男がいました」
「……へぇ」
「彼女の婚約者だというのですが」
「なんと!」
腕を組んでふむふむと頷くが、殿下の目線はソファに横たわる彼女に向いている。
「……真面目に聞く気がありますか」
「あるある。で、その男がどうした」
「彼女に暴行しようとしていたので、止めました。男は去りましたが、彼女が急に気を失ったので、俺が運んだというわけです」
「……つまらんな」
「何か?」
「いーえ。うーん、シャマールの男が婚約者で暴行ねぇ……」
「はい。第四王子とのことです」
「ん……」
「あ、ルロワ伯爵令嬢、目を覚まされましたか?」
うるさくしてしまったのか、殿下との話の途中、眠っていた彼女が僅かに呻き、身動ぎをする。ソファから落ちないように慌てて支えた。
「お? 目を覚ましたか?」
殿下が一緒になって彼女を覗き込んだ。大きな影が掛かる。
「んん、もふもふ……」
「「え?」」
俺と殿下の声が重なった。
彼女の細い腕が、白い指が、あろう事か殿下の金色に輝く鬣、いや、御髪にすっと差し込まれる。何度か感触を確かめるように手を動かして、うっすら開いた目が殿下の金色を捉えると、ふにゃりと破顔した。
「……っ」
まるで愛おしいものを見つけたかのように、可愛らしく微笑んだ。
身体の中で何かが大きく膨らむ。ドキドキして顔が熱くなって……しかし、この笑顔が向けられているのはフィリベール殿下へであって俺にではない。
劇の一幕のような状況にうっかり見惚れて、反応が遅れてしまった。彼女の手が殿下の後頭部を捉え、……そして引き寄せた。
想像していたよりも強い力で引き寄せられたのだろう。殿下がよろめき、彼女の白くて柔らかそうな胸元に顔面から突っ込んだ。
いや、絶対わざとだ。寝ぼけた令嬢のこんな細腕に引かれただけで、この男がよろめくわけがない。
「ははは、これは、困ったな」
「……殿下」
彼女の胸元に顔を埋めたまま、それはそれは楽しそうに笑っている。
一体、何が起きている。なんで俺じゃなくて、殿下が抱きしめられているのか。俺のほうが近くにいたし、俺のほうがサイズ的に抱き心地だって良さそうではないか。それに彼女を助けたのも俺で、ここに連れてきたのも俺。なのになぜ。訳の分からない理屈が暴走しだして、もやもやが爆発寸前。どうにかぐっと堪えて、大きく深呼吸。
「はあ……」
彼女はまだ眠っている。ただ寝ぼけていただけなのだ。確かに殿下の御髪は触り心地が良さそうだから、抱きしめたくなるのもわかる。うんうん。
……そしてこの肉食動物はいつまで彼女の膨らみに顔を埋めているつもりなのか。
「何時までそうしてるんです!」
なかなか起き上がらない殿下を無理やり引っ張りあげる。殿下を取り上げられたメーラはむにゃむにゃと再び睡眠に戻っていった。
「いやあ、ほら、女性にこんな風に求められたら、応えてやるのが男だろう?」
「ちっ」
「こらこら不敬だぞ」
殿下は俺の眉間をぐりぐりと押しながら、にやにや笑っている。殿下とは幼いころからの付き合いで、多少どころか、結構何をしても怒られることはない。この気安い関係をよしとしてくれる殿下の懐の深さがあってこの関係が成り立っているのだが……
「人間の女性も実に魅力的だが、ふふふ、ルシアンがこんな風になるの見たことないしな、ふふふ」
「痛いです、殿下。あと、ルロワ伯爵令嬢に関係なく、これ以上ご令嬢に手を出すとレーヌ様に報告しますよ」
「あーそういう脅しはよくないぞ」
「殿下が不誠実だから悪いんです」
「ご令嬢たちから誘ってくるんだ。俺は応えない訳にはいかない」
またきりりといい顔をして……
「はあ、だから、そうところですよ」
「しかし、メーラ嬢のこれは事故だ。報告には値しないと思わない?」
そう、事故。事故なのだ。
「白く柔らかな膨らみと」
「っ……!」
「赤い髪のコントラストが堪らないな」
「殿っ下……!」
わかっている。この人は俺をからかって楽しんでいるのだ。反応した方が負け。
「もー恐い顔をするなよ」
相変わらず、にやにやと憎たらしい笑みを浮かべている。これがこの国の王子じゃなかったらもう何発殴ったかわからない。
「俺はお前の初恋、応援するぞ!」
「……」
また訳の分からない勘違いをして……
「だが、彼女から誘われたら、我慢できるか……うむ。実に良い胸だった、うッ……」
あ、殴ってしまった。
「あ、殿下、申し訳……」
「ルシアン……人間も発情期があるのだろうか?」
「は……? はっ……!?」
「おいおい、いくらお堅いルシアン卿でも知識くらいあるだろう?」
なんで急にそんな話になったのか……万年発情期の殿下の頭の中はよくわからない。
発情期。それは獣人にとって避けて通れないもの。多少は制御できるし、薬もあるようだが、大変厄介なものらしい。
発情の仕方やタイミングはそれぞれ先祖の動物の種類によって異なるが、身体が成熟すると誰にでも起こりえることである。
ちなみにうさぎを先祖にもつ男は相手に合わせて発情する。俺はまだ経験がないからその状態はよくわからない。これは絶対殿下には言わないが。
レーヌ様も今その時期にあり、迂闊に外に出られない、らしい。こちらも詳しくは知らないし、とてもじゃないが聞けない。
「は、発情がどうしたんですか」
「ふふ、お前、ふふふっ」
「……殿下、もう一度殴ってしまいそうなんですが」
「いや、ほらなんかメーラ嬢から甘い匂いがしないか?」
「甘い、……匂い?」
確かにしてる。初対面の時からずっとだ。
「この匂いを嗅いでるとおかしな気分になったりしない?」
「おかしな、ですか」
「ああ、まるで発情を促されるような」
「なっ!」
慌てて眠っている彼女を背に庇う。万年発情期な色欲魔殿下の毒牙にかけるわけにはいかない。
「俺はちゃあんと自制できるし、なによりも反応を楽しむタイプだからさ。眠ってるご令嬢には手を出さないから安心してくれ」
だからきりりとした良い顔で何を言ってるんだ。
「ルシアンは平気なのか?」
「え、……っと」
平気かと言われると、平気じゃない。彼女に会ってからずっとどこか変なのだ。ドキドキしてそわそわして、彼女が、とても、魅力的に見えて……
「……これは本能のようなものだからな」
「っ!」
「もし彼女が発情期であるのならば、こんな獣人だらけの場所にいてはいけない」
「た、確かに」
獣人の女性は発情期には表に出ない。それはどんな危険があるか分からないからだ。うさぎを先祖にもつ自分のように、女性の発情に促される男がほとんどである。意図していないのに誘ってしまい、望んでいないことが起きる、なんてことはあってはならないのだ。
「うーん、人間に関しては情報が少ないからな……発情期に関しては、それとなくレーヌに聞いてみるか」
「っ、はい、そうしていただけますか」
「ところで、お前そんなに初心で今までよく生きてこれたな」
「余計なお世話です」
「俺が色々と教えてやろうか」
「結構です」
また楽しそうな笑顔を浮かべて。殿下でなければ蹴りを入れていたところだ。とにかく、このままこの部屋にいると何か間違いが起きかねない。それはもちろん殿下のことである。
「シャマール国の男のこと、ルロワ伯爵とお話するんですよね……」
「ははは、そうだな。しておいたほうがいいだろうな。さて、彼女のことは近場のメイドに頼もう」
「はい……」
最後はしっかり王子の顔になった。先に部屋を出ていく殿下を見て、ようやく俺は一息ついた。
二人きりになった室内。すやすやと眠る彼女は、顔色も良くなっており、安心する。ただ赤くなった額だけが痛々しい。
真っ赤な髪と白い肌。ぷっくりとした小さな唇に、今閉じられている瞳は蜂蜜色。華奢な身体から繰り出された見事な頭突きと殿下を抱きしめた胸元……
ああ、やっぱり何かおかしい。心臓が今までにないくらいドキドキ言ってる。これが本能ってやつなのか?