4 それは赤い実のようで
なんだこれ。ばくばくと心臓が全身に血を巡らせて、身体が熱い。
今、見たのは、鮮烈な赤と……艶めかしい白。
甘い匂いがまだ……鼻に残っている。
「おっと、ルシアン?」
「っ!!」
急いで部屋を飛び出して、廊下を曲がってすぐ。でかい何かにぶつかった。
壁かと思うくらい固くて、うさぎがぶつかったくらいではびくともしない。ああ、痛い。鼻を強打した。それのおかげで、鼻に残っていた匂いは消えた。消えたけど……
「そんなに急いでどうした?」
「っ、殿下! どうした? じゃありませんよ! どこに行ってたんですか。探したんですよ!」
「あー……ポーラと……」
「ポーラ?」
ああ、あのすらりとした体型が殿下好みの草食動物のご令嬢ですか。あの人とはもう会わないんじゃなかったんですか。
「いや、イヴェットが……」
「イヴェット?」
ああ、はいはい、小柄で庇護欲をそそられるタイプの草食動物のご令嬢ですね……って……またこの男は……
「……レーヌ様が悲しみますよ」
「いや、お前が今日のことを何も話さなければ、レーヌが悲しむことは無い」
きりりと良い顔をして最低なことを言い放つ目の前の男は、この国の王子である。
金色の豊かな髪と深い緑の瞳、美しい顔立ちに、男でも見惚れるほどに強く逞しい大きな体躯を持っている。
この人を世の中のご令嬢が放っておかないのは当たり前、しかもそれを分かった上で最大限に楽しんでいるのが、このフィリベール殿下である。
そして、レーヌ様とは、この草食動物にばかり手を出すフィリベール殿下の婚約者様。
そんな彼女は殿下と同じ獅子を先祖にもつ肉食動物中の肉食動物。血統を重んじる王家は代々同じ種族と結婚している。皇后陛下もそうだが、女性が強い種族のようで、すでに力関係が現れてきているというのに、この人はまったく懲りない。
二人はとてもお似合いで仲も良いのだが、この無類の草食動物好き王子のせいで稀にとんでもない喧嘩が勃発したりする。女遊びがバレないように配慮するこちらの身にもなって欲しい。
かく言う自分も先祖はうさぎなわけで、殿下の好きな草食動物である。
俺ルシアン・ランヴェールは、草食動物を先祖にもつ一族で唯一公爵の位をもっているランヴェール家に生まれた。それだけでも恵まれているのに、幼い頃、殿下が俺のことを気に入ったことがきっかけで、今も側近として仕えている。業務は雑用と殿下のお守りが中心。
草食動物だからお気に入りなんだという、殿下とお近付きになりたい肉食動物からのやっかみはもう慣れっこである。
俺がうさぎだから気に入っているなら、それで構わない。最大限にそれを活かすのみ。
「ルシアン……ポーラとも本当に今日限り。イヴェットとはもう会わないから……」
「はぁ……わかりました。レーヌ様には黙っておきます。これきりにしてくださいね……」
俺が無言でいることを、怒っていると勘違いしたらしい殿下がうるうるとした瞳でこちらに擦り寄ってくる。でかいし重いから近寄らないで欲しい。
ああ、レーヌ様、ごめんなさい。俺がしっかり殿下を見張っていなかったばっかりに、またやってしまいました。
「ああ、そうだ、ルシアンは今日の主役、人間のご令嬢に挨拶はした?」
俺が許したと判断したらしい殿下はいつもの顔に戻り、キラキラした笑顔を向けてくる。
「ここに来てからずっと、殿下を探し回っておりまして。でも、まあ、した、と言えば、しました……ね」
人間のご令嬢。今日はルロワ伯爵のご令嬢、メーラ嬢のお披露目パーティだ。
ルロワ家は、この国唯一の生粋の人間の一族で、その珍しさからこの誕生パーティも王家主催のものに匹敵するくらいの規模と来客がある。
彼女の兄のミシェルの時も出席したが、その時よりも、もっとすごい。あわよくば自分の一族に人間の血を迎えようと、上級貴族から下級貴族までがご令嬢とその家族へアピール合戦を繰り広げている。
人間は、自分たち獣人よりも能力など様々なことで劣るとされているが、その代わりに繁栄の証となっている。濃い人間の血が混ざることによって、その家はより強く長く生き残ることができる。
そうなると何も混ざっていないルロワ家の血は、獣人たちにとって喉から手が出るほど欲しい存在というわけだ。
俺はというと、別に人間のご令嬢を捕まえてこいと言われているわけではなく、殿下のお供。正確に言えば、レーヌ様の願いを聞いてここに来た。殿下が羽目を外しすぎないよう、目を光らせるつもりでだったのだが、なんとも情けないことに会場についてすぐ、あっという間に殿下に撒かれてしまったのだ。
そしてその人を探し回っていたおかげで、今の今までこのパーティの主役とは挨拶を交わせていなかった……のだが、なんの因果か人間のご令嬢とはついさっき対面している。
殿下を探して入った空き部屋、そのあとすぐに入ってきたご令嬢から反射的に身を隠した。そしてあろうことかそのご令嬢は靴を脱ぎ捨て、ドレスを捲り上げる始末。
出ていくタイミングを完全に逸していた。何か独り言が聞こえ、ばたばたと動かされる白い足を見てしまったとき、慌てて目を逸らそうとしたら、テーブルの角に肘をぶつけて……
振り返った彼女の赤い美しい髪と、とろけるような金色の瞳。頭に耳や角はなく、もちろんしっぽもない。惜しげもなく晒される足は白くて細い。そして漂う……甘い匂い。
すぐに彼女が人間のご令嬢、メーラ・ルロワだと気が付いた。しかし、色んなものが限界に達し、挨拶はそこそこに部屋を飛び出して今に至る。
というかそこそこどころか、名乗ってすらいない。
「なんだその煮え切らない言い方」
「元はといえば殿下のせいですからね……」
「ん? 何が俺のせい?」
でかい男が首を傾げても可愛くないからやめて欲しい。
まったく悪びれる様子もない殿下に苛立ちを覚えた。あなたがふらふらとどこかに行かなければ、しっかりご令嬢と挨拶ができて、あんな姿を目撃することもなかったんですけどね。
「もういいです……今からは大人しくしていてくださいね。もうすぐ会も終わりなんですから」
「んーでもほら、女性に呼ばれるとさ……ね?」
「ね、じゃありませんから。今度こそレーヌ様に……」
「いやいやいや、冗談だ。もうどこにもいかないぞ!」
この人の言葉は何も信用できない。今度こそ目を離さないようにしないと。
「で、どうだった?」
「……何の話ですか」
「そんなのもちろん人間の話さ」
「……どうと言われましても……いや、なんというか色んなものを掻き立てられると言いますか……」
頭に浮かんだ赤と白。ぶわっと湧き上がる、感じたことのない衝動。それを素直に口にしていた。
「って、そうじゃなくて!」
「ははは。お前は人間がタイプだったかあ。お堅いルシアン卿のお眼鏡にかなうとは、人間やるな」
「そ、そういう意味では!」
「いや確かに、歳近い生粋の人間の異性を見たのは初めてだが、あれはいろいろとそそられるな」
「……いや、殿下はこれ以上交友関係を広げないでください……」
メーラ・ルロワの姿を思い出して熱くなった頬を扇ぎながら、楽しそうに笑う殿下のこれからの行動に目を光らせる必要があるなと深いため息を吐いた。