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29 アミール王子


 どうした、私の記憶。昨日の出来事が曖昧すぎる。


 アミール王子と宴に参加して、色んな人に挨拶をして、食べきれないくらいのご馳走が出てきて……その後どうしたのだろう。まったく記憶がないうえに、頭がズキズキするこの二日酔いのような症状も気にかかる。

 もしかして、私はお酒を飲んだのだろうか。前世で一人寂しく晩酌をするくらいにはお酒を嗜んでいたが、メーラの身体では試してないような気がする。

 この世界でお酒は十六歳から。お披露目が済むと成人として見なされるのだ。

 あの宴の場で、お酒が振る舞われていてもおかしくはない。

 このあやふやな記憶の説明にはそれが一番しっくりきた。それのせいでおかしな夢を見てしまったのか……


 夢なのか現実なのか分からないくらい鮮明な感触を思い出して、身体が熱くなる。それを振り払うように湯船に沈んだ。

 まるで欲求不満じゃないか。しかもその相手はルシアン様だなんて。柔らかな耳としっぽの感触はもちろん、熱い唇の感触だって……


「ッ……」


 ああ、また想像してしまった。この調子では次に会う時、どんな顔をしたらいいのかわからない。

 ぶくぶくと泡を吐き出して、この邪な妄想も消してしまいたい。

 それに、リナの様子も気にかかった。私を見て真っ赤になるし、それに、他の人を近づけないようにしている。お風呂に入る直前、誰かが訪ねてきた気がするのだが、私が対応する前にリナが帰してしまった。


「酒に酔って、とんでもない失態をした……とか?」


 夢のことはハッキリと思い出せるのに、昨日のことは思い出せない。状況整理もそこそこに、うっかりのぼせそうになって、お風呂からあがった。


「リナ、昨日のことなんだけど、……リナ?」

「……やっぱり、表面の匂いは消えているけど近づくとわかるわ」


 着替えを手伝ってくれているリナに私の声は届いていないようだ。難しい顔をしながら、何か考えている。


「リナ〜〜!」

「あっ、はい、お嬢様! どうされました?」

「昨日なんだけど、私どうやって帰ってきたのかな。記憶がなくて……」

「あ、えーとそれはですね……」


 気まずそうに目を逸らしたリナが口を開いた時、部屋にノックの音が響いた。


「あ! 対応してまいります!」

 

 やはり彼女は何か知っていて、それを私に隠したいと思っているようだ。彼女は隠し事に向いていない。動揺するとすぐに耳が動くから。

 リナが来客の対応に行ったまま、なかなか戻ってこないため、自分で部屋着に着替えて、用意されていた水を飲んでいた。


「お嬢様、すみません。ファルマさんに呼ばれてしまって……」


 若干の苛立ちを混ぜながら戻ってきたリナは申し訳なさそうに謝った。手伝いを断ったが断り切れなかった様子。


「大丈夫よ。いってらっしゃい」

「……お嬢様、今日は絶対にお部屋から出ないでください。来客も無視してくださいね! 必ず、必ず! ですよ!!」

「うん。わかった」


 私に強く念押しをして、リナは部屋を出ていく。


 ひとり取り残されてから少し経った頃、私はとんでもない空腹に襲われていた。

 昨日沢山食べたはずなのに……ぐぅと情けない音を響かせたお腹をさすって、どうするべきか考える。リナに頼もうにも、いつ戻ってくるかわからない。彼女には絶対に部屋から出るなと言われたけど……


「食べ物をもらいに行くくらいならいいよね……?」


 この欲求には抗えない。厨房はそんなに遠くなかったはず。

 静かに扉を開けて辺りを見渡した。別に悪いことをしているわけではないのだから、堂々と食べ物を取りに行けばいいと思いつつも、リナとの約束を破った罪悪感に駆られている。リナは訳もなくそんなことを言う子ではないから、何か理由があるに違いない。

 ……でも背に腹はかえられない。

 

 幸い誰ともすれ違うことなく、ここまで来れた。この角を曲がれば厨房のはず。

 こっそり顔だけ出して、人が居ないか確認する。今ならいける。そう思ったのに……


「メーラ」

「わあ!!」


 背後から声を掛けられて飛び上がった。聞き覚えのある声に、ハッとする。


「あ、アミール王子?」

 

 恐る恐る振り返ると、黒髪黒目の美丈夫が気だるそうに私を見下ろしていた。


「お前、何をしている」

「えっと、食べ物を貰いに……」

「ふぅん。何故そんなにこそこそと? やましいことでもあるんじゃないか?」

「い、いえいえ。そんなことはありませんよ」

「では、俺に何か言うことは?」

「? アミール王子に?」

「ああ」


 私がアミール王子に言うこと? 何も思いつかない。しかし、昨日の記憶が無いのもまた事実である。私の憶測では酒を飲んで何かやらかしている。アミール王子がその被害者であっても不思議ではない。

 ……ここは素直に謝っておくべき?


「すみません、でした……?」

「……なんだその疑問形の謝罪は。もしかして、記憶がないとでもいうのか?」


 はい、その通りです。情けない言葉を呑み込んだ。

 アミール王子の美しい顔に凄まれて、うっかり怯んでしまう。


「ひぇっ……」

「よくも昨日は逃げてくれたな」

「……逃げた?」

「忘れたとは言わせない」


 アミール王子が後退る私の腕を掴んだ。びくっと肩が揺れる。急な接触は色々なことを思い出してしまうからやめて欲しい。それについて文句を言おうとしたが、冷ややかな視線が怖くてそれどころではない。彼は怒っている。昨晩私がアミール王子に何かしてしまったのは間違いなさそうである。


「あんな発情した匂いで俺を誘っておきながら」


 アミール王子の言葉に身体が強ばった。どくんと心臓が大きく跳ねる。

 もしかして、発情って言った?


 私は、今、あの匂いがしているのかもしれない。だからリナは部屋を出るなと言ったのではないか。いや、しかし、アミール王子は人間だからその匂いはわからないはずなのに、なぜ。ここはシラを切るしかない。


「な、なんのことでしょう……?」


 笑顔を張りつけて、後退る。アミール王子から距離を取りたいのに、掴まれた腕のせいで逃げられない。


「逃げようとするなよ」

「そんな怖い顔で強く掴まれたら、そ、それは逃げるでしょう」

「いいから、答えろ。俺から逃げた理由は?」


 強気に反発してみたものの、力の差は歴然である。あっという間にアミール王子に引き寄せられて、壁際に追い込まれていた。


「昨日、俺から逃げてどこに行っていたんだ」

「っ……!」


 近づいてくる大きな身体と、囲われて逃げ場のない状況に、冷や汗が止まらない。

 ……怖い。


「その発情の匂いのわけもちゃんと説明してもらうぞ」


 アミール王子は私の首元に顔を埋め、すんすんと匂いを嗅いだ。その行為に、今までの記憶が蘇って身体が動かない。今度こそ食べられる。……ぎゅっと目を瞑って次に訪れることに身構えていた。本気で危なかったら頭突きも厭わない。歯を食いしばって、衝撃に備えて……


 しかし私が想像していたものとは違う反応。ぞわりと背筋が凍るような、低い声が耳元で響いた。


「……誰の匂いだ」

「あ、アミール王子?」


 がしりと肩を掴まれ、無遠慮に匂いが嗅がれる。くすぐったさと恐怖に身を捩った。


「……どういうことでしょうか」

「お前から、男の匂いがする」

「なっ!」


 ……男の匂い? 私はここに来て、アミール王子にしか触れていない。昨日だって……いや、でも記憶がないんだった。


「昨日は、発情の匂いをぷんぷんさせていたのに、今日は知らない男の匂いか」

「ま、待ってください……男、ですか? 何かの間違いでは? 心当たりがなくて……」


 ……いや、え? まさかそんなことってある?

 もしかして、ずっと夢だと思っていたあのルシアン様は本物だったり……しないよね?

 ここは異国シャマールで、セリアンテではない。ルシアン様がいるはずない。 


「それで誤魔化せると思うなよ。こんなに知らない男の匂いをさせやがって……俺から逃げてからその男とお楽しみだったというわけか? はっ、俺も舐められたものだな」

「さっきから何をおしゃっているのか……」

「だから誰の匂いだと聞いている。国から連れてきたのはメイドだけだと思ったが、間男も連れてきたのか? それとも、誰彼構わず誘うのか?」

「は……? そんな……!」


 そんな訳ない。リナと二人でここまで来たのだ。不名誉な誤解をされたくない。でも、昨日の記憶が曖昧で、その上『赤い果実(ホズ・エペル)』が発症していたら、彼の言うことをきちんと否定できない。私だって好きで誘っているわけじゃないのだ。

 鼻で笑われて、冷たい視線が突き刺さる。美人が怒ると怖いというのは本当だった。

 掴まれた腕がみしりと音を立てた。痛さも怖さも今までの比ではない。

 


「ッ、痛い……です、離してください……」

「俺が人間のフリをしていたから、この匂いに気が付かないと高を括っていたのか?」

「人間の、ふり……?」

「俺をここまで虚仮(コケ)にして無事でいられると思うなよ」

「……ッ」


 壁に身体が押し当てられて、どんと衝撃が走った。足の間にはアミール王子の膝がある。両の手は頭上に縫い止められていた。頭突きをしてやるなんて言っていられない。ちゃんとリナの言うことを聞いていればよかった。後悔先に立たず。

 ちっとも動けなくて、逃げられない。助けは来ないし、目の前の人は本気で怒っている。


「その不愉快な匂いを、俺の匂いに替えてやる。だが、優しくはしてやらんぞ。思いっきり痛くしてやる」

「ひ、ぁ、や、やめてください、ッ」


 痛いのは嫌だ。かぶりと噛まれたのは鎖骨の少し下。柔らかい部分に歯が食い込む。鋭い痛みが走った。私の腕を捕らえていない方の手が胸元のリボンを乱暴に解き、噛まれたところに、ぬるりと舌が這う。不快感に襲われて、涙が滲んできた。されるがままに、抵抗するのも忘れて、他人事のようにアミール王子の乱暴なそれを眺めることしかできない。



「っ、そこまでです! アミール第四王子」


 アミール王子の向こう側、私からは見えないところから声がした。それに怯んだのか、手の力が少し緩む。

 王子越しに見えたのはこの国の従者服。頭には布を巻いていて、顔は良く見えなかった。


「……誰だ」

「名乗るほどのものではありませんが、王子様がこんなところで、他国のご令嬢に無理矢理だなんて、おいたがすぎませんかね?」


 その声は、どこかで聞いたことがある気がして……でも、その人はこんなところにいるはずはなくて。

 あまりにも怖くて、彼に会いたくて、幻でも見ているのだろうか。


「……はっ、なるほどな。メーラについているのはお前の匂いというわけか。まさか、俺の宮殿の使用人が他国の、しかも俺の婚約者の令嬢に手を出したのか?」


 アミール王子は愉快そうに笑っている。しかし、従者を睨む目は鋭く、怒りは継続しているようだ。


 ところで、私の匂いがこの人と同じ……? こんな状況なのに、モニカ様の話を思い出して『マーキング』という言葉がすぐに頭に浮かんだ。

 夢じゃなかったの? そう思ったら、体中へ一気に血が巡りだした。


「おやおや、何故、人間の王子様なのに獣人の匂いがわかるんでしょう?」

「白々しいな。誤魔化せると思ったのか? 俺は獣の血が混ざっているんだ。だからお前たちの不貞の匂いは分かるんだ」


 アミール王子は頭に血が上っているようだ。聞き捨てならないことを口にしたが、彼は気が付いていないようだ。


「あ、証言ありがとうございます。なかなかしっぽを出さなかったので、困っていたんですよ」

「は?」


 アミール王子が間抜けな声を上げた。私を掴む手には、もう力が入っておらず、それを勢いよく振りほどく。


「っ、くそ、メーラ! 逃げるなっ!」


 王子の声を無視し、するりと腕から抜け出して、もつれる足で床を蹴った。異国の衣装のその人が、手を伸ばす。私は必死にその手に飛びついた。

 ああ、やっぱりそうだ。獣人でなくても感じることのできる、この安心する匂い。いつだって困っている私を助けてくれるのは彼なんだ。


「……っ、ルシアン様!」

「なんだって?」


 私の声にアミール王子が固まった。冷静さを取り戻しつつあるようだ。抱き合う私たちを見て狼狽えた。


 私がルシアン様と呼んだ異国の従者風の男性は、頭の布を取り去る。そこから現れたグレーのうさ耳と同じ色のふわふわの髪の毛に、私の心臓は大きく飛び跳ねた。胸の奥に熱い何かが込み上げて、目の前が歪んでいく。


「メーラ、大丈夫ですか。遅くなってすみません……」

「いえ、助けてくれて嬉しいです。でも、ルシアン様はなんで、ここに……?」


 うさ耳の彼の視線が、私の胸元へ下りる。ハッとしてはだけた部屋着の 前を合わせると、その上から抱きしめられた。


「もう少し早く助けに入れたら……」

「ルシアン、さま……」


 きゅっと力が籠る。温かな腕の中で、堪えきれなかった涙が流れた。怖かったし、痛かった。今度ばかりは食べられてしまうかと思った。


「まさか、ルシアン、ランヴェール?」

「ええ、そうですよ。やっとですか。まったく全然気がつかないんですもん。俺ってそんなに存在感ないのかな。まあおかげで随分と動きやすかったですよ」

「なっ……」


 私をきゅっと腕に抱きながら、ルシアン様は冷たい口調で言葉を続けた。


「先ほどの証言もしっかりとこの耳で聞きましたよ。やはり、あなた人間ではないんですね」

「い、いや……その……」

「メーラは我が国の大切なご令嬢です。お前みたいなやつには渡さない。ルロワ家、ひいては我が国への虚偽の申告と詐欺行為、許しませんよ」

「くっ……」

「この婚約は当然無効です。メーラは連れて帰ります」

「ま、待て。お前になんの権限があるって言うんだ」

「これは我が国の王の勅命です。それにルロワ家も承知しています」

「……」


 ルシアン様の言葉に何の反論もないまま、アミール王子は立ち尽くしている。

 

 私の涙はいつの間にか引っ込んで、今は猛烈な恥ずかしさに襲われていた。

 




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