28 羊のメイド
……夢!?
勢いよく起き上がると、ずきんと鈍い痛みが頭に響いた。辺りはすでに明るく、外から鳥のさえずりが聞こえてくる。
ああ、何かとんでもない夢を見ていた気がする。この国にいるはずもない彼を夢に見るなんて。しかもあんなこと……もちろん、夢、だよね?
色んな感触が鮮明に思い出されて、顔が熱くなった。そしてやっぱり、頭が痛い。
「ううっ」
「お、お嬢様。大丈夫ですか?」
「っ、リナ……?」
近くにいたリナが、水をくれた。白いお耳がぷるぷる動く。受け取った水を一気に飲み干して、ふぅっと一息。まるで二日酔いみたい……宴の途中から記憶がないことも不安である。
「リナ、私って……」
「あああ! お嬢様、体調が大丈夫なようならば……ええと、大変言いにくいんですけど、先にお風呂に入りましょう!」
「え?」
「あ、ええと、その」
リナがしどろもどろになって、だんだん真っ赤に染まっていく。
「あ、私臭い? 昨日の記憶があんまりなくて……お風呂に入らずに寝ちゃったのかな」
「あ、ああ、そうなんです! 臭いなんてことは、ぜ、全然ないんですけど、昨晩は入浴せずにお布団に入られましたので!」
「そっか、そうだね。じゃあ、大浴場行こうかな」
「あああ、お待ちください! ええと、今日は浴場大掃除中らしくて! お風呂はお部屋についているものにしましょう!」
「? 分かった」
****
私、リナは羊を先祖に持つ獣人だ。セリアンテ王国唯一の人間の一族の元で、メイドとして働いている。そんな私が任されたのは、お嬢様のお世話だった。
あまり屋敷の外に出ることがなくて、大切に大切に育てられたお嬢様。可憐で美しく、気さくで優しい。ちょっぴり箱入り娘感が否めないけど、純粋なところがまた愛しくて、歳が近いこともあって、私を慕ってくれるところがまるで妹みたいで……私はお嬢様が大好きだ。
そんなお嬢様がお披露目をする十六歳になり、急に婚約の話が持ち上がった。
まだ早い、そう思っていたけれど、お貴族様にとってはそれが普通である。
私はお嬢様についてどこへでも行くつもりだ。それがたとえ他国であっても、私はお嬢様の元から離れる気はない。私がお嬢様を幸せにしてみせる。それくらいの気持ちである。
長いこと馬車に乗って、到着したのは砂漠に覆われた国。そこに建つ大きな大きな宮殿。案内された内部は金ぴか豪華でルロワ邸なんて比較にならないくらい広い。
お嬢様の婚約者様であるアミール王子は、初めて見たけどかっこよくて優しくて、お嬢様を大切にしてくれそうだった。そしてなによりも、彼は人間。これで安心だと思った。
お嬢様の身体に現れた異変。私たち獣人の発情期のように異性を惑わす匂いがするというもの。同性の私には感じることができなくて、お嬢様を何度も危険に晒してしまった。お嬢様から原因を聞いたときは、驚きを隠せなかったし、お嬢様を守るには私の抑制剤を分けることしかできずとても悔しかった。近寄ってくる男性、全員やっつける、くらいの心持ちで騎士の皆さんに護身術などを学び始めようとした時、朗報が訪れる。
シャマール国への留学である。お嬢様の匂いは人間には効かないらしい。シャマール国は人間の多い国。奥様の配慮に涙が出る思いだ。留学することによって、残っていた他のお見合い話はなしになった。
これでお嬢様は傷付かない。そう思った。お嬢様から、あの話を聞くまでは。
「……リナ、騙されないで。あの人、嫁二十人いるから」
そんなことってある? 私の大切なお嬢様が他国のハレムに入っちゃうなんて。二、三人ならまだしも、二十人ってまさに桁違い。王子が人間なら安心ね、なんて思っていたけど、ハレムなんて聞いてない。
私はやっぱりお嬢様には、お嬢様だけを愛してくれる人と幸せになって欲しい……そう思ってしまうのは一夫一妻が基本のセリアンテで生まれ育ったのだから仕方ない。
それに、お嬢様はどうやら、アミール王子を好きではない様子。兄のミシェル様と話していた『ルシアン様』が好きなんだ。
それならば、ここは私がお嬢様を守らなければ。とりあえず、歓迎のパーティを乗り越えれば、あとは学園の寮に向かうだけ。寮に入ってしまえば、王子と会うこともないだろうし、卒業まで猶予が生まれる。学園にいる間に婚約破棄へ持っていき、あわよくばそのルシアン様と……
一介のメイドにどこまでできるかわからないが、私は頑張る。お嬢様のために。
パーティ当日、私はお嬢様のそばにいられなかった。アミール王子の側仕のファルマさんに呼ばれてしまったから。
王子が用意したシャマール国の正装に着替えたお嬢様を見送って、私は全然終わらない雑用に途方に暮れていた。
迎えに来たアミール王子とお嬢様の衣装がとっても似合っていて、傍から見ればお似合いの二人。それに何だかちょっと嫌な予感がしたのだ。なるべく側にいようと思ったのに。
やっと作業が終わって、お嬢様に与えられた部屋に戻ってきたときには、もう外は真っ暗だった。まだ部屋に戻っていないお嬢様に不安が募る。探しに行ったほうがいいかもしれない。
そう思った時、部屋にノックが響いた。
「っ、お嬢様!」
私は心臓が止まるかと思った。扉を開けると、そこにはこの国の従者の服に身を包む男が、お嬢様を抱えて立っていたのだから。
しかも、お嬢様からその男と……同じ匂いがするのだから。
「っ、貴方、どちら様でしょうか! お嬢様に何をしたんです!!」
「あ、えっと……」
私は頭に血が上っていた。冷静でいられるわけがない。私がおそばを離れたから、知らない男に、しかも一介の従者に……
男は目深に布を巻いていて、顔が良く見えない。私の言葉に黙り込んで、お嬢様を抱き直す。今すぐ、お嬢様をその汚い手から解放しなければ。
「説明は後です! すぐにお嬢様をおろしてください!」
「あっ、はい。そうですね」
男は素直にすんなりとお嬢様をベッドにおろすと、私になんと説明すべきか悩んでいるようにもじもじしている。
「事情によっては、警備に突き出しますし、王子にも伝えます。もしかしたら、国際問題になりますよ」
「彼女は酔って眠っているだけです……」
「本当にそれだけですか?」
「っ、ええ……」
「なぜ、お嬢様からこんなにも貴方の匂いがするんでしょう」
「そ、それは……」
「人を呼びます」
「あ、ああ、待ってください!」
男は狼狽えて、覚悟を決めたようにするすると頭の布を解いた。
そこから現れたのはぴょこんと立ち上がるグレーの立ち耳。ふわふわの同じ色の髪の毛と黒い瞳。大きな瞳には焦りが滲んでいる。
……どこかで見たことがあるような?
「すみません。私はルシアン・ランヴェールです……」
「!?!?」
思い出した。セリアンテ王国ランヴェール公爵家嫡男ルシアン卿。お嬢様のお披露目パーティの時にも同じようにお嬢様を抱えてきた人だ。それに、お嬢様の想い人(仮)でもある。
その人が、なぜここに? え、お嬢様の匂いはこのランヴェール卿の匂いということ?
いけない、混乱してきた。
「え、ええと、申し訳ございません。かの有名なランヴェール卿とは知らず、失礼な態度を……」
「い、いえ、私が紛らわしいことをしたのが悪いのですから」
彼は申し訳なさそうにぺこりと頭を下げた。目上の方に頭を下げられるのは落ち着かない。
「ところで……なぜそのような格好で、こちらに……?」
彼の格好はどう見てもこの国の従者である。隠れていた耳とお顔が見えてようやく気付くくらいには馴染んでいる。
それも気になるけど……
「いや、それよりも、お嬢様のこの匂いは……」
伏せていた目を少しだけ開けると、目の前のランヴェール卿が真っ赤になっていた。はて、これはどういうこと?
「……私は彼女のためにここまで来ました」
ぽつりとつぶやいた言葉はちゃんと私の耳に届いた。ランヴェール卿がお嬢様のためにわざわざシャマール国まで? お嬢様を追ってきたということなのだろうか。
「少々事情がありまして、こんな格好なのですが、できれば内密にしていただけると……王命であるので、その、メーラ嬢にも秘密にしていただければと思います」
「……わ、わかりました」
王命とまで言われてしまうと、私にはそれを詳しく聞くことはできない。
「それで、メーラ嬢の匂いなんですが……すみません。色々なことが終わり次第、必ず責任を取りますので」
真っ赤な顔で、でもしっかりと彼は言った。
責任を、とる? 頭の中でその言葉がぐるぐる回って……ハッとした。
え!? ランヴェール卿、それってもしかして……
「やっちゃったんですか!?!?」
「……はい!?!? いやいやいやいや、何もして、い、いや、えっと、彼女は清いままです!!」
「ああ、なんだ、よかったぁ」
違った。違ったけど、分かってしまうのだ。悲しき獣人たちの性。こんなに匂いが移るのはそれなりのことをした証拠。
真っ赤になって狼狽えまくるうさぎの男性をジトっとした目で見てしまう。
「……こほん、今私はアミール王子を調べています。メーラのその、は、発情についてはご存じですか?」
「はい。聞いております」
「アミール王子に酒を飲まされたようで……恐らくそのせいだと思うのですが、匂いが強くなったので、それを抑えるために私の匂いを……つけました。それがその、強くつけすぎたと言いますか……二、三日すれば私の匂いは消えると思いますので、それまでは王子に会わないように、いえ、可能であれば部屋を出ないでいただきたい」
なるほど。道理は通っている。お嬢様から聞いた話では、抑制剤の他に、異性の獣人のマーキングで匂いが消えると言っていたから。ということは、この方はアミール王子の魔の手からお嬢様を助けてくれたということなのだ。
しかもお嬢様を追ってこの国にくるほどに……
「……ランヴェール卿はお嬢様のこと好きなのですか?」
「……は、い?」
「お嬢様だけを愛していただけるかと聞いているのです!」
「っ、もちろんです」
「わかりました。それならば、協力します」
「……ありがとう」
カッとした。頭の血が引いていなくて、強く問い詰めてしまったのに、気にする様子もなく、私の言葉にしっかりと頷くランヴェール卿。そして、一介のメイドにも深く頭を下げてくれる。そうそう、こういう人とお嬢様は幸せになるべきなのだ。
あとはよろしく、とお嬢様へ熱の籠った視線を向けて、彼は去っていった。
……それはいいとして、本当にやっちゃってないの!? お嬢様からめちゃくちゃあの人の匂いするんですけど!!
私は朝から、なかなか目覚めないお嬢様の面倒を見て、アミール王子の従者を追い払って、なるべく部屋に人を寄せ付けないようにと目を光らせていた。




