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20 ミュレー公爵夫妻の馴れ初め 後半

後半です。


 自分で言っていてなんとも空しくなってきました。私はもうあの輪には入れない、憧れることも許されないと思うと、悔しいのやら悲しいのやら……


 きらきらと色んな光を反射させる金色の髪が眩しくて、結局私は彼らの姿が見えないところまで逃げてきてしまいました。


 ところで、ここは一体どこでしょう。


 明るい廊下には人影は見えませんでした。しかし、どこかから話し声がします。


「なんか、甘い匂いがしないか?」

「ん? 確かにするな」


 向こうの廊下に誰かいます。

 私と同じようにパーティに飽きてしまった人は他にもいたようです。こっそり覗くと、獣人の男性が二人。ひとりは三角のお耳とフサフサのしっぽ、もう一人は三角のお耳と細く長いしっぽです。


「まるで、発情の時のような匂いだな」


 発情の、……匂い? もしかして私?


「誰かその辺で盛ってるんじゃないか?」

「王族のパーティでよくやるよ」

「しかし、こんな匂いをまき散らされたら、このパーティが違うものになってしまいそうだな」

「はは、確かに。なんかちょっとムラムラしてきたし、薬飲んどくか。お前は?」

「……ふっふっふ、俺は会場に戻れば彼女がいるんでな」

「くそ、羨ましい。空き部屋はあっちだぜ」

「相手もいないのにちゃんと空き部屋を確認している辺り、いじらしいな」

「うるさい、からかうな」


 彼らは私には気が付いていないようです。笑いながら発情の匂いと好みの女性の話をしています。途中からあまりに下品な話に耳を塞ぎたくなりました。


 私は『発情』と聞くと反応してしまうようになっていました。でも今日もちゃんと薬を飲んでいるから、匂いが出ていることはないはず……です。


「っ、きゃ」

「おっと、すみませんお嬢さん。……おや、その姿はルロワ伯爵令嬢ですね?」

「はい、そうですけど……貴方は……、っ」


 ぼーっとしていたのがいけなかったのでしょう。すぐ近くに男性がいることに気が付きませんでした。ぶつかって、よろめいたところをがしりと肩を掴まれて、私の身体は強ばりました。

 慌てて見上げた顔は、いつか見たものと同じ、私を求めて発情しているときの顔。

 上気した頬と血走った目。先程向こうでお話していた獣人のひとりのようです。フサフサのしっぽが倍ぐらいの大きさになっています。瞬時に危険を察知しました。逃げなければと。


「は、離してくださいますか……!」

「ご令嬢、お一人のようですね。あちらの部屋で、私と二人きりでお話しませんか?」

「け、結構ですわ。人が待っていますので、私はここで、っきゃ」


 振りほどこうとした腕はあっという間に掴まれて、腰までがっしりと抱かれています。


「こんな匂いをまき散らして、襲ってくれと言っているようなものでは? 誘っているのですよね? ルロワの人間のご令嬢は男性を誘うのがお上手だと聞きましたよ。私とも試してみませんか?」

「っや、やめてください、離してっ」


 ずるずると引き摺られていきます。聞くのも辛い、下品な噂に悔しくて涙が滲みます。直接言われると胸に響くものです。

 そして、やはり力では敵わないのです。獣人である以前に相手は男性です。力の差は歴然でした。

 もう目の前に、先程空き部屋だと言われていた部屋の扉が見えていました。このままでは部屋に入れられてしまう。男性の汗ばむ、熱い手が恐ろしかった……すっかり恐怖で身体が竦んでいました。


 ……そんな時です。


「ヘンメル卿。このようなところで何を?」

「っ、ミュレー、公爵令息……」

「そちらのご令嬢はヘンメル卿の連れですかな」


 先程遠くから眺めていた方がそこにいました。冷ややかな視線で見下ろされます。


「っ、違いますわ! お助けくださいませ、ジルベール様!」

「っ、お前!」


 私は震える声で叫びました。こんな状態で会いたくなかったのですが、仕方ありません。ヘンメル卿と呼ばれた男性が私の腕を掴む手に力を込めます。ズキンと痛みが走り、ギュッと目を瞑りました。


「ヘンメル卿、私はそんなに気が長くない」

「……っ」


 ジルベール様の低く地に響くような声がして、男性が大きく息を飲む音がしました。次の瞬間、手の拘束がなくなり、支えがなくなったため、私は情けなくも、へなへなと床に座り込みます。腰が抜けてしまったのです。でも、どうにか意地で、ジルベール様にお礼だけは伝えました。


「……ありがとうございました。助かりました」

「貴方はルロワ伯爵令嬢……ですね」


 私のことを覚えていてくれた。嬉しい……


 しかし、喜んでいる場合ではありません。 

 彼が私に近寄ってくる気配がします。でも、いけません。

 もしかしたら、『赤い果実(ホズ・エペル)』が悪さをするかもしれないのですから。


「あ、あの、あまり近付かないほうが良いかもしれません。私、その、あまり体調がよくありませんの……」

「……それはいけない。あの者が何をしようとしていたのかは想像に難くないが……ここは空き部屋になっている。そこで休んでいくといい」

「……はい、ありがとうございます……」

「顔が、赤いな。熱でもあるのではないか。医者を呼ぼう」


 いけないと言ったのに、結局ジルベール様は私の顔を覗き込みました。近いです。いけません。


 早く離れて欲しい、貴方が私に何かする前に。貴方に何かされたら、私は拒絶できないから。


「い、いえ、大丈夫です。でも一つお願いがあります。薬が、薬が飲みたいので水をいただけないでしょうか」

「……私にそのようなことを頼むとは。いいだろう。すぐに持ってくる」


 何とかジルベール様を遠ざけることができました。

 這うように空き部屋に入ります。薄暗い室内に、大きなソファが一つ。どうにかそこにたどり着き、一息つきました。


「ふぅ、おかしいわ。……今朝、薬を飲んだのだからこんなことになるはずないのに」


 薬が効いていないのでしょうか。あの男性はどう見ても発情していました。匂いの話もされました。

 しかし、ジルベール様は私に近付いてもなんともなさそうだった気がします。彼にはこの匂いが効かないのでしょうか?

 先程、ジルベール様のお顔があんなに近くにあって、彼のふわふわのしっぽが手に触れたのです。

 思い出して、ぼわっと顔が熱を持ちます。呼吸が早い気がします。心臓がドキドキ、ドキドキと音を立てています。身体が、熱く、切ないのです。


 今まで感じたことのない衝動を逃がすように身体を丸めていると、コンコン、とノックの音が部屋に響きました。


「ご令嬢、私です。入ります」

「っ、はい」

「おや、この部屋は明かりがついていませんでしたか」

「え、ええ。でも少し休憩したら戻りますので」

「そうですが、さて、水をお持ちしました」


 ジルベール様がまるで執事のように、グラスを片手に部屋の中へ入ってきました。私の方へ近付いてこようとします。


「……っあ、そ、それ以上近寄らないで、いただけますか」


 せっかく持ってきていただいたのに、こんな言い方はよくないと分かっています。私も失礼だと思います。でも、密室で二人きりだと思ったら平常心ではいられません。しかも、今『赤い果実(ホズ・エペル)』が現れてるかもしれないのですから。


「……わかりました、水はここに置きます」

「ありがとうございます。助けていただいたことも、お水も……」


 ジルベール様がローテーブルに置いたグラスを持ち、ドレスに忍ばせていた抑制剤を取り出して、口に含みます。こくんと飲み込んで、これで安心だと思いました。でも……


「……抑制剤?」

「え? ええ、そうですが……っ、あ、あれ……っ」

「? ご令嬢、どうされましたか」


 何故か力が抜けるのです。もう横になりたいと思いました。我慢が出来ないとでも言うのでしょうか。欲望に忠実になっていく気分です。どうしようもない疼きが全身を支配しています。


「あ、い、いえ、なんでもありませんわ。その、少し一人にして……っ」

「危ない!」


 私の身体がぐらりと横に傾きます。もう仕方ありません。このまま、横にならせてもらう事にしましょう。そう思ったのに……


「っ、な、なんで、近付かないでと、言ったのに……っ」


 ジルベール様が長い足でローテーブルを飛び越えて、私の身体を支えています。彼に触れられて、私の身体に痺れが走りました。

 そしてその時初めて気が付いたのです。私を覗き込むジルベール様の深緑の瞳が熱を帯びている、と。なんともないと思っていた彼はちゃんと私に欲情していたのです。

 その瞳と目が合った時、私の中の何かが溢れだしました。ずっと触れたかったのです。触れられたかったのです。

 彼の頬を撫で、形の良い唇に指を這わせます。熱い唇から漏れる吐息を拭うように。



「何を……、っ」

「ごめんなさい、私、身体がおかしいの……」


 もう片方の手で、ジルベール様を引き寄せます。彼は体勢を崩し、私に覆いかぶさりました。我ながら大胆なことをしているなと、どこか冷静な自分もいます。


「すまない。私も限界だ……必ず、責任はとる」

「んっ、ふ……ぁ」

 熱く柔らかな、先程触れた形の良い唇が、私のそれに重なりました。私の心は一気に満たされて、お互いに我を忘れて口付けを繰り返したのです。




 ****




「そう、それが、私と旦那さまとの出会いですわ」

「……モニカ様、私は今、何を聞かされていたのでしょう」

「あら、抑制剤飲みすぎ注意の話よ」


 モニカ様は可愛らしいく、ふふふ、と笑った。



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