君の眺望
まだ春先だというのに、やたらと眩しい日差しは道路を照り付け、足元にキラキラとした煌めきを与えている。ズルリズルリと煌めく坂を上る丸い背中は足を止め、乱れてきた息遣いを隠すように大きく息を吸い、背筋を伸ばした。上がった視線は、足元のチャコール色の煌めきとは違う、柔らかな眩しさを湛えた水色とグリーンのコントラストを捉えた。所々に見える萌木色が春を主張していて、寂寥感を呼んだ。
上り始めに見えた灰色はシャッターを閉め、少し新しそうな黒っぽい建物のガラス戸の奥に僅かな土産物が見える。ぼんやりと見える商品棚の隙間は一層の寂しさを引き立たせた。
「ここも昔と変わったのか」
立派な狼の剥製に目を奪われた思い出の中には、大勢の人が行きかっていて、愛しい人の柔らかな声を受け取る為に身を寄せた温もりがあった。季節外れに肌を焼く日差しとは違う温度と華やいだ声を思い出すと、高橋善弘は再びトボトボとその坂を上る。
足元から伝わる無機質な感触が、ささくれだった心を跳ね返す様に感じて、受け止めきれない無念を巻き付けた体を重たくさせる。一層傾斜のきつくなった坂に再び立ち止まり顔を上げると、国定公園と書かれた看板が存在を主張していた。案内表示に従い歩みを進めれば、車いすマークが表示された駐車場があり、ここまで車で来れば良かったと小さな後悔が浮かんだ。白髪の頭は、普段自分が「年寄り扱いするな」と言っている事を思い出して、そんな考えを振り払った。
薄らいでいる記憶の景色にはない、バリアフリートイレを左手に見ながら足を進めると、木々の茂る固い土の遊歩道になった。
『お兄さん、この岩はね、徳島でしか見れないんだよ。吉野川が綺麗なエメラルドグリーンに見えるのもこの岩のお陰なの』
黄色い帽子を被った幼い女の子が、楽しそうに胸を張って話す姿が目に浮かぶ。遊歩道の左側法面の一部に青鈍色を見つけてそっと手を伸ばすと、ザラリと冷たい。その冷たさにまた違う光景を思い出させられて、そっと息を吐いた。
「なぁ、答えを教えてくれんか」
誰ともなしに呟いた言葉は、当然誰の耳にも拾われることなく、空気に溶けていく。土を踏む靴の音はしっかりと高橋老人の耳に響いて、ザシュッ、ズシュッと不規則な音を立てながら少し歩けば、視界が開けた。
自分の足元は木々に日差しを遮られ、ヒンヤリとした砥の粉色が広がっているが、右に顔を向ければ明るい日差しを受けた丁字色が屹立している。視線を上げれば濃淡様々の緑が混ざる森と、薄い雲が浮かんだ白群の鮮やかさが目に染み、そのコントラストが悠久の時を象徴する景色を異質な物として際立たせている。
五十年ぶりに見る土柱は、記憶よりも色褪せ、小さくなりそして何かを失った様に見える。記憶よりもガラリとした印象の空間は、高橋老人の心を映している様だ。何万年も姿が変わらないと聞いた自然の造形物も、やはり歳月には抗えず風化し姿を変えていくのだろうか。
「随分と違う景色に見えるなぁ」
薄れている記憶に自信が持てず、再び誰ともなしに呟いてしまったが、今度は空気に溶ける前にその言葉を拾う耳が有った。
「えぇ、すっかり小さくなりましたね」
フワリと吹いた風と共に、隣に居るはずのない愛しい人の声が耳を擽った。自分より記憶力の良い彼女が小さくなったと言うのなら、自分の記憶にも自信を持って良いだろう。記憶を保証してくれる言葉を捉まえたくて振り向くと、ベンチで若い見知らぬ女性が微笑んでいる。耳を擽った声は、愛しい人の物ではなく、見知らぬ女性だったらしい。目が合うと、ふっと目を逸らされたが、決して嫌な感じはしなかった。
愛しい人の面影は全くないが、何故か懐かしさを感じる女性は、じっと屹立の向こうの崖の上を見つめている。ふとその表情に黄色い帽子の少女を重ねてしまい、思わずあの日の答え合わせをする様に、言葉がスルスルと出ていく。
「もっと、目の前に迫る迫力のある景色だったと思うのだけれど」
「山下清画伯の描かれたのと同じ景色を見られたのですね。ちょうどその、少しだけ土が盛られたような、白っぽい切り株の様な所。そこに昔は名の有る柱が立っていました。」
言われてみれば、左手前に切り株の様な低い土の塊があり、大きな柱の痕跡が見てとれる。その存在の大きさは、心にポッカリ空いた穴と重なる。
「山崩れの痕に見えるが、実際は崩れる様な物ではないと思ってたけど違うのかな?」
「そうですね、何万年も前に崩れ残った地層なので、崩れ落ちないと、だからこそ国の天然記念物なのだと言われていました。でも実際には少しずつ浸蝕されないのではなくて、浸蝕が緩慢なのです。大きな柱が小さくなり、後ろの断崖から新しい土柱が生まれる、そんな変化を繰り返して何万年もここに有るんです。時には大地震や、大雨には耐えれず、大きな変化をきたす事もあったのでしょうね」
突然の質問に驚く様子もなく、崖の上を見たままゆったりと説明をした。地震という言葉に、愛しい人を失った時の記憶が呼び起こされ、老人は身を固くした。
「県外の方ですよね? どうして夏じゃなくて春に? 」
細身のジーンズと赤いカーディガンがよく似合う、小柄な女性は、説明を語り終えると高橋のほうを向いて軽く微笑み問いかけた。その言葉に記憶が重なる。
『お兄さん達、どこから来たの? ねぇどうして夏でもないのに徳島に来たの? 』
黄色い帽子の少女が足を弾ませ手を舞わせながら、ニコニコと自分の周りを回る。足の動きと共に弾む背中のリュックの赤色が、目の前の女性のカーディガンの赤と再び重なって現実に引き戻される。
「記念日なんだ。所で、土柱は色も少し変わったように見えるのだが、僕の記憶違いかな? 」
日に焼けた逞しい風貌とは不釣り合いな、柔らかな口調で高橋は再び問いかけた。切り株になってしまった土柱の説明を語る音色が、五十年前にここで出会った少女が紡いだように聞こえ、まるで少女と愛しい人に出された宿題の答え合わせをする様な気分になっていた。少々馴れ馴れしく感じるような言い草に気を悪くする様子もなく、女性は小さく首を傾げ、土柱を見回した。
「私も久しぶりに来たのですけど、色が変わったとは感じませんでした。でも、母から幼い頃に聞かされていた景色は、違う色の印象だった気がします。母が語っていたのは母が子供の頃に見た景色なので、随分と古い話ですから、その頃はご記憶の色と同じだったかもしれませんね」
「そうか、前に来たのは五十年前なんだけれど、ここで小学生の女の子に出会ったんだ」
困ったような、気落ちしたようなそんな声音で呟く老人の背中は急激に小さくなった様に感じられた。サワサワという風の囁きに合わせて木漏れ日が揺れ、時がゆっくりと流れる。時の流れを戻したのは、遠慮がちな女性の声だった。
「五十年前もお一人で?」
「いや、新婚旅行だった。妻がどうしても土柱に行きたいと言って決めたが、ここに来たかった理由を教えて貰えなくてね、たまたま出会った女の子と意気投合した妻から、宿題にされたんだ」
話しながら静かに目を閉じた高橋には、五十年前の景色が見え、風の囁きに愛しい妻の声を見つけていた。
『金婚式の年にまたここに来ましょう。ここがどれほどロマンに溢れてて、新婚旅行に相応しい場所なのか、その時までの宿題にしましょう』
揶揄いの表情を湛えたクリクリとした瞳と、楽しそうにほほ笑んだ口元のえくぼ、山歩きに不向きなスカートが風に揺れている姿は、霞の向こう側に滲んでいく。
「奥様は? 答え合わせは奥様とされないのですか? 」
不意に掛けられた声に現実に引き戻される。本当は一緒に来るはずだった愛しい人の事を思うと、心臓を鷲掴みにされたような苦しさに襲われた。
チャームポイントはえくぼから笑い皺に変わり、艶やかな長い黒髪は綺麗な白髪のショートヘアになっても尚変わらない愛らしさを持っていた愛しい人。海辺の町に生まれたのに、何故か魚料理よりも山菜料理の方が得意だった、近所の奥様方に頼られる料理上手な人。最期に愛しい人の土筆の佃煮を食べたのはいつだったか。
「もう、帰ってこない」
震えた声に 妻に対するしい気持ちが表れていた。五十年経っても、死んでもなお深く愛し、忘れられない妻への思いで胸を詰まらせ、老人はきつく目を閉じた。 愛しい人が亡くなった時への後悔が滲み、自然と全身に力の入った姿は辛そうに震えている。後悔にまみれた意識から、 現実へと引き戻すように、再びと遠慮がちな言葉が投げかけられた。
「正確ではないかもしれませんけど、答え合わせしますか? 遊歩道散策して、あそこまで行こうと思っていたのですけれど、ご一緒にどうです? 私、土柱や徳島の事には結構詳しい方だと思うんです。母の口癖が『伝統と歴史を大切に守りなさい』なので。」
五十年前に出会った少女とそっくりな事を言っているが、あの少女だってもう還暦辺りの筈で、別人だろう。それでも時を超えたような心地を感じて、女性の申し出を受け入れた。
鬱蒼と茂る木々で薄暗く見えにくく、湿った土の香りがする足元に、落ち葉が積み重なり滑りやすくなっていて、非常に歩きにくい。日々仕事で足腰を鍛えているつもりでいたが、船の上と地上では勝手が違うようだ。
「この辺りに土筆や山菜が生えていてね、美味しそうだと彼女がはしゃいでいたよ」
所々が階段の様になっている坂道上りながら、五十年前の思い出を語り、時々女性が植生や地質の解説を語る。高橋老人の軽く跳ねた息を、言葉の中に感じれば態と立ち止まり、彼女の母親の話や、夏に行われるという阿波踊りの話を聞かせた。
足元が安定したチャコール色になり視界が開け、灰色の侘しい建物を通りすぎれば、右手には砥の粉色の断崖が広がる。砥の粉色に足を踏み込めば記憶よりも柔らかな反発を足の裏に感じた。崩れることはないと安心して歩いていた断崖は、 時と共に崩れやすい脆いものになり、実際に一番肝心なところが崩れている。妻という大切な支えを失った高橋老人の崩れそうな心はこの足元と重なった。おそるおそる断崖を覗き込めば、丁字色に見えていた屹立は赤茶色に変わり、こちらを見上げていたベンチの広場は生壁色に見える。屹立の中に、見上げている時には見えなかった青々とした植物を見つけた。崩れ形を変えたからこそ、柔らかくなった土に植物が芽生えたのだろう。崩れる事は失うことではなく、変化し生み出す力を持つ自然の姿。
『善弘さん見て、あの花、可愛らしい。やっぱりロマンが有るでしょう』
不意に五十年前の記憶とは違う愛しい人の声が聞こえた気がした。柔らかなスカートのシルエットが微笑んだ気がする。
『愛って言うのはね、関係の積み木で、時間の折り紙なのよ』
言葉遊びが好きな愛しい人が語り書けてくる。崩れた土柱とそこに咲く花が、開いてしまった時間の折り紙を折り直してくれる。なんだ、そんな事だったのか。五十年前に愛しい人が意味を付けたロマンという言葉は、少女漫画の様なロマンチックな、時を超える様な愛のことだと心に響き渡る。帰らぬ人となって尚、高橋善弘という人を支える言葉を残してくれていたのだ。
「奥さんの事、本当に一生大切になさってるんですね。」
後ろから聞こえた寂しげな声に振り向けば、女性は高橋の視線の先に有った紫色の花を見つめていた。ベンチに腰掛け断崖の上を見上げていた時と同じ表情に見えるのに、どこか寂しげで不安そうに見える。そんな表情の理由は見当もつかないが、投げ掛けられた言葉は、自分でさえ気付いていなかった事を捉えている。
「そうだね。僕も大切に思ってるけど、彼女にも大切にされているよ。喧嘩もしたけれど、五十年間、帰ってこないこの二年間も間違いなく、妻に愛されて支えられている。」
断崖の下の草花を揺らす、遊歩道とは違う香りの乾いた風が高橋老人に吹いて、愛しい人が悠久の造形物に見出だした夫婦の形を伝えてと語りかける。
「答え合わせをしてくれて、ありがとう。僕の大事な奥さんはね、一緒に過ごした時間の中で、僕を作ってくれたんだ。彼女を無くした僕は、名のある柱をを無くした土柱のようなものだけれど、だからと言って全てが失われた訳じゃない。夫婦っていうのは、家族を作るって言うのは、この土柱みたいなものだ。彼女も僕も老いて朽ちる、だけど、彼女が居なくなってもその間に育まれた物は僕の中に残り、息子や孫の中には僕も彼女も残る。そうやって生きた証を残して、受け取った人の生きる糧になる。貴女のお母様もそう伝えているんじゃないかな?」
高橋老人は下の展望台に現れた時は別人の様な、スッキリとした表情でこの脆くなった断崖を踏みしめている。吹き上がった柔らかな風が、高橋老人から女性へとフワリと通り抜けた。まるで、良くできましたと言うような優しい香りの風だった。