8話:転職と超高温火災の経験
そして東京本社の星野営業部長が午前中に、来て、本社の山縣社長に面会して、入社の挨拶をした。そして、いくつかの書類に判をついて、正式に採用の辞令をもらった。その時、給料に残業代金はなく、年俸制であった。
毎年、業績に応じて昇級交渉をし年収を決めると言われた。社長は、早稲田大学の博士号を取り、多くの特許を持つ学者だった。清水は、帰り、電車で2時間かけて夕方16時、最寄り駅に着き電話して迎えに来てもらった。
17時前には、社宅に帰った。そして、仕事を始めた。まず工場長に新製品の配合の試案を5つ提出し、議論しながら進めた。そこで、材料の重量を下げるには特殊パルプの量を多くすることが必要だった。
そうすると耐火性が落ちるので、その比率が重要だと言われた。そこで、5つの試作品を作り、試験を繰り返し、その配合比率が決まった。比重の軽い耐火材の配合比率を上げることで性能を上げることが出来た。
成形は、特殊プラスチック粉末レジン「硬化樹脂」を使用することにした。それができあがったのは、半年後の1975年3月。その後、燃焼、到達温度とその降下時間が、テーマとなった。
これは、粉末の細かさが、重要な要素となり、この実験も工場長に、試作品を渡し、燃焼試験をお願いした。毎日、金だらいに、多くの材料を混ぜてる作業を見て、工場の人達は、清水を随分変わった人だと思っていたようだ。
その後、10月には、新製品候補が、3つに絞られた。その後、1975年12月までに、社長に、その製品の情報を渡した。1976年1月、社長が、工場に来て、工場長と共に新製品をどれにするかのテストをして、最終的に許可をもらった。
そして3月から、新製品をテストするために、一番仲良くしてる工場で、商品テストを開始した。大きな問題もなく、時間が過ぎたが、工場の担当者から、壊れる率が多すぎるとクレームが付いた。
そこで、もっと商品の強度を上げるように言われた。そこで、成形するための樹脂の含有量や細かさを変えたりして、強度を20%上げることに成功し、納入すると、クレームがなくなった。
そして、従来の主力製品の重量が、1/3で、同じ、必要最低限と耐火性能、発熱と保温時間が20%長くなり、従来の商品から徐々に新製品に代わっていった。しかし特殊合金など溶融温度の高い物には耐熱性が、持たず従来品を使うことになった。
製造原価が20%高くなったが、重量が1/3であり、従来品の製造原価の40%で新商品が作られ、主力品になっていった。その後、新製品の成功の特別報奨金ももらい。
年収も増えたが、年収は、以前300万円足らずで、決して、高くはない。田舎で物価が安く、飲み屋も遠く、社宅でウイスキーを飲むので、それなりに金は貯まった。
1976年10月のある日の深夜、工場の社宅に住んでいた、独身の山内技術部長が、大声で、大変だ、起きろと、大声で、清水をたたき起こした。起きると鼻をつく化学薬品がした。
新製品のレジンの臭いだと、すぐ直感した。工場の商品の乾燥炉へ向かうと超高温で引き上げ式の乾燥炉の扉が、真っ赤になっていた。誰かが、水をかけましょうかと聞くと、馬鹿者、千度以上の物に水をかけると爆発するから駄目だと言った。
そして、すぐに、事務所の2階に上がり、消防署に電話を入れた。10分くらいで消防車が4台、やってきた。その時、山内技術部長が千度を超える超高温なので、砂をかけるくらいしか出来ないと、つぶやいた。
そして、燃え尽きるまで待つしかないでしょうと言った。周りに、水かけて冷やしましょうかと聞くと、あまり意味がないでしょうと冷静に言うと、消防士が、じゃーどうしたよいのですかと聞いた。
万が一、周辺に、燃える移らないように、近くの施設に放水して、燃え広がらないようにして下さいと伝えた。その指示通り、近くの工場のシャッターや建物に放水を始め15分で終了。
後はどうすれば良いと、消防士が聞くので、山内技術部長が、燃え尽きるまで待つしかないと言った。どの位かかるかと聞かれ、多分、数日かかると語った。そんなに、かかるのと驚いた。じゃー2,3時間待って、燃え広がらないと判断したら帰りますと言った。