5話:就職後、すぐ退職と再就職
そのため、叔父の残した家で、男の子2人と共に、やって行くしかなく、叔父の会社も解散するしかないだろうと、悲しげに述べていた。しばらくして、叔父の家に泊まり、翌日の葬儀に参列して、清水親子は、帰ってきた。
葬儀から1週間後、自宅からバスで30分程の場所にある工場の従業員募集の新聞記事を見つけた。そこは、大手印刷会社用の特殊インクを製造している会社の工場で、大学生5人と高専生5人の募集で、それに応募した。
不景気な時期だったので募集は、あまりなく飛びついた。予想通り、高専生の募集5人に対して23人もの応募があり採用試験を受験し、清水は、何とか、合格した。仕事は、インクの検査事業の仕事だと知らせた。
自宅からバスで30分以上の場所にある工場で、当初、自宅から通うと話していたが、残業が増えるから寮に入って欲しいと会社側から言われ、入寮した。そして、数日、仕事の内容の勉強会を受けた。
その後、研修と称して、毎日、特殊インクの製造をさせられた。朝8時からフォークリフトを運転し、製造工程通り、化学薬品、顔料、特殊油を大型ローラー式混合装置に入れて8時間かけ特殊インクを作り上げていく。
つまり製造をさせられた。それも1日2回の製造が基本で、製造に16時間、実際には、運搬、食事、休憩を入れると、朝8時から、0時、もしくは、それ以上の勤務時間だった。
16時間労働、8時間の残業で、25日、月平均200時間の残業となる。そのために、入社、早々、工場近くの社宅の1室に入らされた。給料は、予定の金額の2倍以上で、お金を使う時間がない程、働かされた。
そのため、お金は貯まったが、すぐに、条件が違うと退社するもの2名、体力のある3名は、4ヶ月後、6ヶ月後、最後に、清水が、血尿が出て、定期検診で、異常が見つかり、1ヶ月の入院後、退社した。
後で、わかった事だが、この会社では、予定していた大阪の工場設立が、オイルショックの影響で、ご破算になったようだった。その後、清水は、半年間、医者に自宅療養を命じられた。
もちろん、その間、給料もボーナスをもらい、自宅待機した。その後、毎日、新聞の従業員募集の欄を見る日々が続いた。約半年後、千葉県の製鉄用の化学薬品メーカーで1名の募集が出ていた。
その会社は、千葉県にあり、最寄り駅から車で25分というとんでもない田舎に工場を持っていた。そのため、社宅完備で、住み込みという条件だった。それに応募すると、後日、受験日と時間を知らせてきた。
その会社に電話入れると、住まいを聞かれ、夕方15時以降で結構ですので、直接工場へ来て欲しいと手紙が届き、電車を数回乗り継ぎ、千葉県の駅に着き、工場に電話すると迎えに来てくれた。
清水の自宅から3時間かかる風光明媚な田舎だった。迎えに来た人は、茨城弁の逆井さんで、運送の仕事をしていると話していた。駅から車を飛ばして20分かけて、その会社の工場に到着した。
工場長が出て来て、開口一番、遠路はるばる、ご苦労さんと言われた。清水が、他に、受験者は、他に、いないのですかと思わず聞くと、2人いたが、辞退され、君一人だと、聞かされ驚いた。
まずは、温かい飲み物でもと言われ何が良いか聞かれ珈琲をお願いした。その後、試験を受ける部屋はと聞くと、工場長室に案内され、ここだと言った。その後、高専時代の成績表のコピーを渡すと良い成績ですねと言われた。
なんで、ここへと聞かれ、今までの話をすると、確かに、今の日本は、不景気ですからねと言った。その後、仕事内容だが、と言い工場長が、話をし始めた。我が社は、鋳造品に使う特殊化学商品の製造メーカー。
ライバル会社は、日本に1社、ヨーロッパの企業1社の世界で2社だと言った。そこで、新商品を最低1つ、出来たら2つ、開発してもらいたい。その研究開発をする技術者が欲しいと語った。
吉富工場長も日本大学工業化学出身だと明かした。工場長とは、名ばかりで、製造商品の品質管理のため燃焼試験と温度降下時間を商品ロット毎、データをとっていると話した。何度位になるのですかと聞くと1200度前後だと言った。