くろとしろ
「――おい」
真っ白な部屋。
そこではすべてが『白』で塗られている。テーブル、カーテン、ドア、そしてベッド。果てには床や壁、天井までもが『白』かった。
例外としてベッドの横に備え付けられた機械とそれに映る線はどこまでも、どこまでも冷たい色を放っていた。
「――おい」
ただ、今この時だけは、この真っ白な部屋に機械とは別の『白』ではない色が在った。
「――おいって言ってんだろ」
その色はこの部屋に入ってきてからというものの、普段の色からは想像もつかないほど褪せていた。
「――なんか言えよ」
その色がこの部屋に入ってきてから一体どれだけの時が過ぎただろうか。少なくとも壁に備え付けられた時計の長針が一周はしたことだろう。しかしその色にとっては、秒針が半周すらしていない感覚だったかもしれない。
「またいつものドッキリだろ? もうバレてんだよ」
よくある比喩表現の一種に『時間が止まったような』とあるだろう。成程言い得て妙だ。その色がそれを見た瞬間、確かにその色は時間が止まったように感じたことだろう。
「時間の無駄だ。俺だって何時までもここに居られる訳じゃない。言いたいことがあるんだ」
しかし――
「……だからほらさ、さっさと起きてさ。お前の顔を見ながら、お前の手を握りながら、お前の声で――」
――真に時間が止まったのはどちらか。
「――いつもの、『ネタ晴らし』……聞かして、くれよ」
――――――――――――――――――――
「おい白子ぉ! てめーこれは一体どういうことだごらぁ!!」
「あはは!! 黒助あなたなにその顔! 笑わせないでよねー……ぶふっ」
ある夏の日の事、とある施設が建っている土地の一角。草木生い茂る原っぱの片隅にポツン、と置いてあるベンチの傍らで二人の男女がお互い異なる経緯で息を切らすことになっていた。
「おぉん!? てめーがやったんだろ! この修正ペン野郎!!」
「ぶふっ……なにその呼び方センスなーい。やっぱり、まっくろくろすけは脳みそもまっくろなのお?」
黒助と呼ばれた少年は、その顔をトマトの様な色に染め怒鳴り散らす。方や白子と呼ばれた少女はその頬を桜の様な色に染めて笑っている。
「はぁ? どーゆー意味だよ」
「あなたがおバカってことよ。そんなんじゃこれから大人になってもお先まっくろよ? ……いま結構うまいこと言ったんじゃない?」
「お前も何言ってんのかわかんねーよ……って、今俺の事馬鹿って言ったな!? ぶっとばす!!」
「だって事実じゃない、お勉強や普段の行いを考えたらそう呼ばれても仕方ないでしょっ」
余程自信があったのか、胸を張ってふんす、とドヤ顔をさらす白子。しかし悲しいかな、目の前の人物は座布団を賭けるような戦いに用いられる言葉の意味を理解できるような者ではなかったらしい。更に白子が続けた言葉からどうやら黒助は、場所が場所なら問題児認定を受けてもおかしくない人物の様だ。
そも、二人が何故言い争いをしているかというと――
「うぐっ……。あーもーいいっ。それより、なんなんだよこれは?」
「じゃあ行くわよネタ晴らしっ! 黒助がそこのベンチで気持ちよさそうな寝顔さらしてお昼寝しているときに、私がこのマジックペンで落書きしたのですっ!」
「やっぱりお前は一回ぶっとばす!!」
――……とまぁなんとも可愛らしいイタズラが発端だったようだ。
「おい白子……ちなみに聞くけど……それって」
「油性ですっ!」
「ふざけんな!」
まったく可愛くなかった。水性ならまだしも油性だった。こういうのを何と呼んだか――
「いいじゃない黒助。服も靴も、髪の毛までまっくろなあなたが顔も黒くなることでまた一歩、まっくろくろすけに近づけるんだから」
――あぁそうか、悪魔の所業か。
「るっせー。そういうお前は服と靴と髪の毛も、ついでに肌も真っ白だから白子なんて呼ばれるんだよ」
「そう呼んでるのはあなただけでしょ。それに全身まっくろだから、黒助って呼ばれるあなたに言われたくないわよ」
「それこそ、そんな変なあだ名で呼んでんのはお前だけだろ」
そう。実はこの二人の本名は黒助や白子ではなく、もっと別の名前がある、のだが。どちらが先に始めたか、いつしか二人の間ではこの呼び方が定着していた。
本人たちも言ったように黒助は黒いシャツに黒いパーカー、黒のズボンと黒の靴。そして肩にかからない程度に無造作に切られた黒い髪という全身まっくろ状態。だから黒助。そして白子もまた腰に届く長さに切り揃えられた白い髪に白い靴と白い肌。そして白の服。あとなんか食べ物の白子に似ているから、故に白子、らしい。
「あの時はビックリしたわよ。まさか初対面で年下の子にいきなり、おまえなんか白子に似てるからいまからおまえ、白子な! なんて言われて」
「あの時は若さ特有の思いっきりがあったんだよ。それに四日後には同い年だし。ていうかお前だって、じゃぁあなたはまっくろくろすけに似てるから黒助ねー、ってよ」
「今も若いでしょうにっ。ふふっ、案外私たちって似た者同士なのかな」
「はぁっ? 見た目も中身も正反対だろ、馬鹿じゃねーのっ」
「あれあれ、もしかして照れてる? 私と一緒なのが嬉しいのかーこいつめー」
「触んじゃねぇ馬鹿ッ! 来るな阿呆!」
「……ぶふっ。とりあえずそれ、頑張って落としてきなさいよ」
「……いつか絶対ぶっとばすからな!!」
ある夏の日の事、とある施設が建っている土地の一角。草木生い茂る原っぱの片隅にポツン、と置いてあるベンチの傍らで二人の男女がお互い異なる経緯で息を切らしていた。
――――――――――――――――――――
「――ねえ、黒助?」
「……え、な、なんだよ?」
その日は、随分と空の機嫌が悪い日だった。つい昨日、地平線に沈むまでは眩いものを放ち続けていた太陽と呼ばれる光も、いつもはゆったりと風に身を任して流れゆくままのくせに、今は群れを成して涙を流し続ける雲と呼ばれる影に、すっかり出番を奪われてしまっている。
「……いや、やっぱり、何でもない」
「はぁ? 気になるだろ。言いたいことあるなら言えよ。……俺か? 俺はないぜ、うん。こんなのちっとも怖くねぇからな!」
時折、太陽が放つ暖かい光とは別の光が影から落ちる。それは影から落ち行くたびに、見聞きした者を不安の虜にした。口では大層なことを告げる黒助も、生まれたての小鹿の様な足腰のせいで締まりがない。
「……うん、そうだね。だからやっぱり何でもない」
「なんだよそれ。――分かった、お前怖いんだろ、雷が!」
真っ先にその考えが出てくるということは、黒助もそうなのだろう。締まらないものだ、やっぱり。
「――だとしたら、どうする?」
「……え?」
この涙は、実はそんな綺麗なものなのではなく、自分たちに襲い掛かるナニカなのではないだろうか。そう錯覚させられてしまう程に激しいものだった。
仮にこの涙や光が自分たちを襲うナニカだとしたら自分を閉じ込めている、いまもすべての水滴をその薄い身で防ぎとめているこの窓が、結果的に自分たちを守ってくれる『盾』だったりするのだろうか。
「私がこの光に怖がっていたとしたら、黒助はどうしてくれる?」
「……。まぁ、誰かに守ってもらうよう頼む、とか?」
黒助も守ってほしいのだろう。俺が守ると言えないあたり素直なのか、それとも。
「あなたが――」
「おん?」
まあ、どちらだろうと構わない。ただ、それでも、やっぱり――
「――やっぱりなんでもない」
――あなたが、私を、守ってほしい。
「――そうかよ」
もう既に黒助には感謝してもしきれないほど救われている。だから言わない。だから告げない。だからあなたの言葉を無視してその気持ちに蓋をしたんだ、私は。
その日は、随分と空の機嫌が悪い日だった。つい昨日、地平線に沈むまでは眩いものを放ち続けていた太陽と呼ばれる光も、いつもはゆったりと風に身を任して流れゆくままのくせに、今は群れを成して涙を流し続ける雲と呼ばれる影に、すっかり出番を奪われてしまっていた。
――――――――――――――――――――
――夢を見た。
鮮やかな色彩で溢れていたはずの世界が突如としてその荘厳な光を失い、見ていても何も感想が沸かないようなつまらないものに変貌した後の世界だ。
――いつから、わかっている。
――なぜ、わかっている。
――どうして、……わからない。
白だ。抜け落ちた色は白。ただそれだけ。なのにどうして、たった一色、それも大して目立ちもしないありふれた色がこの世界から弾かれただけで、ここまで世界は変わってしまうのか。
ほかの色、それこそ赤や青、緑に黄、紫に茶。世界を彩るのは一色だけではない。それだけではないはず、なのに。
昔、絵本で呼んだことがある。自分の好む色は、ほかの色からは畏怖されていると。みんなで楽しんでいるところに土足で踏み込み、あまつさえほかの色を踏み潰すように己の色で空間を埋めてしまう、その色で。
自分はそんなことはしない。何も悪くはない。そう思っても結果は変えられず、残ったのは「そうであった」という事実のみ。
なにをふざけたことを。おまえらだって踏み潰しているではないか。お前らが塗ったその場所は、元は別の色が独占していた場所だぞ。それを知りながらも「そうであるべき」とでも言うように自分たちの遊び場にしていたのではないか。彼女がどれだけ泣いても、どれだけ拒んでも。「そういう運命」とでも言いたげに侵していったのはそっちではないか。
自分は守りたかった。彼女の居場所を、少女の嘆きを。見て見ぬふりなど出来ず、彼女を侵した奴らと同じやり方で、奴らを侵した。
悔いはない。おかげで彼女にも笑顔が戻った。可憐で、綺麗で、美しくも愛らしい彼女の微笑みを目の当たりにしたとき悟った。「何も間違ってなどいなかった」と。
――だが間違っていた。
彼女が連れ去られたとき初めて気づいた。奴らは彼女を潰すのではなく混ぜることにしたらしい。
何が起きているのかわからなかった、というよりも分かりたくなかったという方が適切かもしれない。彼女の綺麗な身体に異色が注ぎ足されていくのを何をとち狂ったか自分は「なるほど」と感心していた。「そうきたか」と。思いのまま潰して廃棄にするのではなく、むしろ新しいことを発見するために利用するとは。
乾いた笑い声が聞こえた。どこからかなどどうでもいい、今すぐ笑ったやつを殴りたい気持ちでいっぱいだった。拳を握りしめいざ振りかぶらんと辺りを見回し、そして気付かされる。
――自分が笑っていたのか。
誰もいない、周りには。自分だけだ。乾いた笑い声がまた聞こえた。同じ声だ。あぁ、今のは自分の笑い声か。自分の口から漏れ出た音か。笑えない。早くないか。もう諦めたのか。仕方ない。彼女を見れば希望などないということに気付かされる。
濁っていた。可憐で、綺麗で、美しくも愛らしい彼女が。それはもう見る影もなく、同じものだったのか自信も持てなくなるほど別物となり果てていた。
笑えてきた。いや、笑えない。いい加減夢にしろ限度がある。こんな胸糞悪いもの見せられちゃ堪ったもんじゃない。さて、あとどれくらいでこの悪夢が覚めるのか考え始めたところで。
――本当に夢なのか。
おかしい。おかしい。おかしい。記憶に弊害が生じているのか。自分は何をしていた。彼女と煩わしくも楽しく光り輝いている世界を謳歌していたはずだ。そのはずだ。まつがっていない。これはゆめだ。じゃあこれはなんあ。なぜ彼女は今にも怪我されて行っているのだ。違う。穢されて行っているのだ。なんだこれは。本当に笑えて来ら。夢じゃないのならなんだ。あぁそうかドッキリか。ならいつものネタ晴らしが待っている。これ以上狼狽えても彼女を笑わせるだけだ。それもいいか。笑ってくれるなら。笑顔でいてくれるのなら。いつも素直になれないが。いつも考えているのは彼女の事だけだ。その彼女が楽しいなら。あの花の様な光を自分に向けてくれるなら。俺はいつだって馬鹿になろう。
そして君が幸せになることを願っている。
「――おい」
真っ白な部屋。
そこではすべてが『白』で塗られている。テーブル、カーテン、ドア、そしてベッド。果てには床や壁、天井までもが『白』かった。
例外としてベッドの横に備え付けられた機械とそれに映る線はどこまでも、どこまでも冷たい色を放っていた。
「――おい」
ただ、今この時だけは、この真っ白な部屋に機械とは別の『白』ではない色が在った。
「――おいって言ってんだろ」
それはこの部屋に入ってきてからというものの、普段の色からは想像もつかないほど褪せていた。
「――なんか言えよ」
それがこの部屋に入ってきてから一体どれだけの時が過ぎただろうか。少なくとも壁に備え付けられた時計の長針が一周はしたことだろう。しかしそれにとっては、秒針が1ミリも動いていない感覚だったかもしれない。
「またいつものドッキリだろ? もうバレてんだよ」
よくある比喩表現の一種に『時間が止まったような』とあるだろう。成程言い得て妙だ。その色がそれを見た瞬間、確かにその色は時間が止まったように感じたことだろう。
「時間の無駄だ。俺だって何時までもここに居られる訳じゃない。言いたいことがあるんだ」
しかし――
「……だからほらさ、さっさと起きてさ。お前の顔を見ながら、お前の手を握りながら、お前の声で――」
――真に時間が止まったのはどちらか。
「――いつもの、『ネタ晴らし』……聞かして、くれよ」