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空練の川 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 この川で事故があってから、もう10年近く経つんだねえ。

 覚えてるかい? 小さい子供が川で流されてさ、下流で見つかった時には心肺停止状態だったって、あの事故だよ。最終的に亡くなられちゃったとか。

 今でこそ、当人たちの不注意と取られがちな水難事故。それも昔は神様のご機嫌を損ねていると考えられることが多かった。そこに人柱などの様々な方法がとられたのは、君も知っての通りだろう。

 実はこの川にも、かつてはちょっと変わった風習があったらしいんだよ。こーらくんは知っているかい? 知らないようだったら、この機会に聞いてみないか?

 

 むかしむかし。まだこの川に架かる橋が少なかったころ。対岸と行き来する方法は、主に渡し船だった。なかなかの数が使われていたらしく、その様子を描いた絵が郷土資料館に残っているくらいだよ。

 で、ある晩のこと。仲間との飲みで、したたかに酔ったおさむらいが川のほとりまでやってきた。

 彼の家は対岸にある。行きもこの川で船をつかまえて、わざわざ渡ってきたんだ。

 この川べりは小石が多い。酔いで足元がおぼつかないのもあるが、一歩踏み出すたびにじゃりが巻き上がり、足袋たびとぞうりの間に滑り込んでくる。もろに体重がかかるとさすがに痛く、彼は何歩か歩いては立ち止まり、くっついた石を放り投げていった。

 今夜はほぼ新月。閉じかけのまぶたのようにか細い顔しか出さない光では、まともに周りを拝めない。

「ちょうちんでも、持っとくべきだったかなあ」と、ふらふらしているうちに、ようやく彼はこちらの岸に停まる一艘の船を見かけた。


 長い竿を持ち、頭に手拭いを巻いた船頭は、確かに渡し守の姿だろう。こちらに背を向けており、顔の端から煙が出てこないところを見ると、一服しているわけでもない。

 さらに何を思ったか。渡し守は客を乗せないまま竿を川底にさし、船を出す気配を見せる。


「あいや、しばらく。しばらく」


 そう声に出すも、どうにもろれつが回らなかった。一度目は無視され、危うく船が離れそうになったところで、二度目の呼びかけ。

 船頭はこちらを向き、ついっと岸に船をつけなおす。顔はよく見えないが、その四肢は行きに送ってくれた船頭に比べると、いやに細かった。

 

 ――おなごの渡し守か? 珍しい。いや、そもそも許されているのか?

 

 そう思いつつ、懐から巾着を取り出しかける武士に、渡し守が奇妙なことを口にした。


「行くだけなら8文。でも冷えていいならタダでいい」


 何に冷えるのかは分からない。話してくれなかった。


「ふうむ? なら8文で」


 そう頼みかけた時、不意にびゅっと横風にあおられた。反射的に袋の底は握ったものの、口の近くまで出かけた銭たちは、次々に転げ出る。なおも風に運ばれて、流れの速い川の中へと飛び込んでいってしまったんだ。

 底に残っているのは5文だけ。


「……冷えありで頼む。無事に送ってくれ」


 おさむらいがどかりと腰を下ろすと、船はゆっくりと岸を離れていく。

 座り込んだ拍子に、おさむらいの腹がぐるぐるとうなった。

 立っている時にはまだ楽だったが、あぐらをかいたとたんに、喉の奥から食べたものと飲んだものがせり上がってくる。胃液が身体の内側を灼き、たまらず彼は船のへりにしがみつく。

 出そうで出ない。これが一番つらいのは、上の口も下の口も変わらない。一向に楽になれないまま、おさむらいはかろうじて見える水の流れに、目を泳がせていた。

「もう川半ばを過ぎたかなあ」と顔をあげかけたところで、船頭はぴたりと船を止める。今度は逆に前方に竿をさし、突き放すように川底をけった。


 向きを変えないまま、舟は流れを切って、どんどん元いた岸へと戻っていく。「なにすんでえ!」と文句をいいかけたが、頭がぐらぐらする。先ほどまでの酔いにくわえ、急な揺さぶりをくらって、考えがまとまらない。

 船は行きよりも、強い勢いで戻っている。じゃばん、じゃばんと力強く何度も差し入れられる竿の動きは、もはやかいのように忙しい。

 

 背中を冷たい風が突く。

 すでに時期は冬半ばを通り越し、春めいた日もちらほら見られるようになっていた。なのに、今晩は寒さが舞い戻ってきている。

 薄着のおさむらいは軽く身震いするも、船頭はその様子などどこ吹く風。唐突に船を止めると、またも逆走していく。

 川半ばで、舟は何度も何度も行き来した。回数を重ねるたび動きはどんどん早くなる。おさむらいの酔いは酒から乗り物によるものへ変わり、それでもなお吐いて楽になれなかった。

 

 じゃぼっ、じゃぼっ、じゃぼっ、じゃぼっ。


 船頭のさす竿の音は、もはや駆け足で川の中を走っているようにも聞こえる。身を刺す風も強くなるばかりで、たまらずにおさむらいが大きいくしゃみをしたところで、ぱっと船の動きが止まる。

 竿を川底に深く突っ込んで、無理やり止めたらしい。前に進んでいた時だったから、そのままつんのめりかけた。船頭は先ほどまで忙しそうに動かしていた手で、すっと空を指さした。


「ごらん。空に『流れ』を作った」


 おさむらいが見上げると、そこには川を見ている時と同じように、うるんだ空の顏があった。音がないことをのぞけば、せせらいでいたと表すよりなかった。

 その中を水のあぶくたちが泳いでいる。おそらく、これまでの往来で巻き上げられた者たちだ。

 弱弱しい月の光の元だというのに、彼らは自ら光を放っているように、はっきりと円い輪郭を浮かばせている。落ちまいと踏ん張っているのか、大小問わずにぷるぷると身体を震わせ、川が流れるのと同じ方向へ泳いでいく。


「あたしらも息ができんのに、よく水練をするだろ? 遊びのためか、鍛錬のためかは人によって違うけどな。

 水もおんなじだ。苦しくても、時に空へ浮きたがる。あたしはそれを手伝ってあげてんだ。

 ここんところ、この川でどざえもんが出ることないだろ? あいつらの機嫌がよくなって、助けてくれるからなのさ」


 実際、この前もこの後も、川でおぼれ死ぬ人は現れなかった。

 深く、流れも速いこの川は、かつては入水心中を望むものもいるくらいだったとか。それがここ数十年ではいずれも命を拾い、失敗に終わり続けていた。他にも遊びで流される大人や子供も、最終的には生き延びている。

 けれど、橋がたくさん架けられてより、渡し守の姿はほとんど見られなくなった。おそらくは「空練」を整える術も一緒に。

 もしも空練ができていたならば、あの子の命も助かったんじゃないかと、僕は考えてしまうんだ。

 


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