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百日紅の樹の下で

作者: 衞藤萬里

 納屋のそばに植わった百日紅の樹が、鮮やかな紅色の花をつけていた。夏の終わりのこの時期に、花を咲かせる樹は多くない。実際バスケットのコートをとれるぐらいに広いおふくろの庭の樹々は、樹勢もよく、黄緑色の葉を繁らせているが、花弁を持つものは他にはない。盛りをすぎてもまだまだおとろえをみせない陽射しだが、今日はわずかに秋の気配を感じるような気がする。

 納屋に置いてある梅酒を取りに行くから手伝えと云うので、俺は縁側からサンダルをつっかけ、おふくろと庭に出た。

 座敷では理栄子が妹とビールの入ったグラスを手にして、話に夢中になっている。俺と理栄子の遅い盆休みがようやく重なり、おふくろの家に泊りにきた俺たちに合わせて、妹も実家にやってきた。妹のやつは今では俺より理栄子の方とウマが合うらしく、実家で顔を合わせる時以外でもしょっちゅう行き来をしているようだ。この暑い昼の日中に梅酒のつかった重たいガラスの容器を取りに行かされるのは、冷えたビールがなくなって、次は氷を浮かべた梅酒を呑みたいと2人が云い出したからだ。まったく、際限なく呑むなよ。

 納屋の中はかび臭さにまざって、漬物の匂いがする。棚から広口瓶を降ろすと、かすかに酸っぱい梅の芳香が鼻を刺激した。懐かしい匂いだ。そう云えば梅酒なんて、何年ぶりだろうか?

 おふくろがのんびりと納屋にでっかい南京錠をかけるのを、百日紅の樹の下に容器を置いて待つ間、俺は煙草を一服することに決めた。煙を吐き出しつつ、何を考えるともなく樹をぼんやりと撫でさする。

 百日紅の木肌はぬっぺりとしたくすんだ灰黄色で、さらに所々が節くれだち、反り返ってさかむけのようになっており、若々しい感じがない。猿なぞ、とうていすべりそうにない。そのくせ何年たってもなかなか大きくならないから、どこかひねこびた印象を与える。大体真夏に100日も花を咲かせようなんて、これみよがしの根性が気に入らない。花は花らしく、もっとつつましく気候のよい時期に適度に咲くべきだ。

 ぼんやりしていた俺の眼の前に、ぬうっと掌が咲いた。ちょいちょいと指が催促するので、ポケットから煙草の箱を出して差し出すと、指はいっしょに入っているライターとともに1本抜き取った。おふくろは取り上げた煙草に火をつけると、俺なんかよりはるかに年季の入った吸い方で、煙を胸の奥にまで行きわたらせた。何十年たっても、この人は酒も煙草もやめられない。

「あの日もこんな天気だったね」

 不意におふくろがそう云った。無表情のままだった。

「え?」

「やっぱり夏の終わりで、こんなよい天気で、蒸し暑くって」煙を細く吐く。「お前、憶えてないのか?あの日、最後にハナシをしたのはお前だったろ?それもやっぱりこの樹の下で」

 ようやく何のことかわかった。もう20年以上も前のことだ。


* * *


 俺の親父は、大人になった今でも理解のできない男だ。俺が生まれる前から、そして俺や妹が生まれた後ですら腰の定まらない男だった。何年かに一度、消える、失踪する。それは何ヶ月にもおよび、最長では1年半帰ってこなかったこともあったそうだ。帰ってきてから理由を云うのだが、その理由というのがすさまじい――と云うか、わけがわからん。

 曰く――演歌歌手になろうと思った。

 曰く――フランスの傭兵学校に入校して外人部隊に入りたかった。

 曰く――南の島で自給自足の生活をしてみようと思った。

 曰く――マタギになりたかった。

 曰く――シングルハンドのヨットで太平洋を横断してみようと思った。

 などなど……だ。俺が聞かされているだけで、それだけだから、きっと他にもいろいろとやらかしていそうだ。

 実際に、何とかって演歌歌手の弟子入りをして、何ヶ月か付き人みたいな真似もしたりとか、沖縄本島より台湾に近いぐらいの南の海で、壊れかけた漁師小屋みたいなトコロに住んでいたこともあったらしい。フランスへ密航しようとして(外人部隊に入隊するのは犯罪者や逃亡者ばかりだから密航する必要が、親父の中にはあったらしい)港湾警察だか海上保安庁だかに拘束された時は、さすがに厳重に取調べを受けて、思想調査までされた挙句、害なしと判断され、説教されて送り返されたこともあるそうだ。

 とにかくトラブルの絶えない男で、そんな風に思い立ったことに我慢ができない性質だったようだが、やるだけやって熱が冷めたら、もしくは頓挫してしまったら、だらしなく、のこのことおふくろの元に戻ってくるのが常だったそうだ。まったく呆れかえる他はない。しかし不思議に金銭トラブルのない男で、そっちでおふくろが特に苦労をしたとことはほとんどなかったらしい。だからよいと云うものでもないが。

 阿呆な親父も親父だが、おふくろもおふくろだと思う。おふくろは自分で仕事を持っていたし、古いが家も持ち家だったから喰うのには特に困らなかったようだが、だからと云って子どもだけでなく、放浪癖、失踪癖のある大の大人の面倒までみてやれるほど余裕があったはずはないと思う。家族なんかかえりみることなく、せっかくついた仕事もやめて何ヶ月もいなくなってしまう男―― かっこよく云いかえれば夢を追い求める親父なんぞに操を立てて家を護ってきたなんて、それこそ演歌の世界だ。

 ある親戚の話では、保育園に預けていた俺を抱えておふくろが仕事から帰ってきたら、どこかに行っていた親父が何ヶ月ぶりかで、居間に寝転がって大イビキをかいているのに、眉ひとつ動かさずに食事の支度をして、できたら起こして夕食にしたらしい。親父も当然の顔をして、3杯飯をかっ食らったらしい。

 正直云って、そんな親父にどんな魅力があったのか謎だ。何にもなれなかったけれど、あれはあれで天性のヒモだったんじゃないかと思わないこともない。

 こうなってくると2人の関係なんて、俺なんかには理解できない。親父のこと、理解できないって云ったが、実はそれ以上におふくろのことも理解できないのだ。

 そんなおふくろだが、割烹着が似合うような楚々としたタイプではない。背も高く、幅もあり、無口でいかつい。酒も煙草ものみ、仕事も家事も何でもこなす。かつての社会主義国家の宣伝ポスターにでも登場する、重量感のある女工か農婦ってタイプだ。本当なら独りで生きていく予定だったのだが、親父とであって何かの手違いで所帯を持ってしまったって筋書きがしっくりくる。

 もしかしたらおふくろにとって、親父は気まぐれで飼い慣らしていたノラ猫みたいなものだったのかもしれない。だから彼女が親父についてどんな風に思っているのか、聞かされた憶えはほとんどない。

 親父が最後にいなくなったのは、俺が8歳、妹が3歳のころだった。もう記憶がはっきりしていた歳だと思うのだが、そのころのことはよく憶えていない。親父の存在は妙に希薄だ。その前にいなくなった時は、詩人になるとか云っていたらしいので、今度は小説家にでもなろうと思ったのかもしれない。やれやれだ。

 ――あの日、最後にハナシをしたのはお前だったろ?

 それもやはりこの樹の下で――とおふくろにそう訊ねられた俺だが、あいにくとまったく記憶にない。無理もないと思う。俺とあの親父ほど希薄な親子関係は、めったにあるもんじゃない。親父の記憶に関してあるのは、めったに見かけなかったことと、たまに家にいたことぐらいで、家にいたって俺や妹の遊び相手なんて、一度もしたことなかった。

 おふくろのハナシでは、その日の日曜日の午後、なぜか庭にいた親父と俺とが、百日紅の樹の下で何やら話しをしていたらしい。おふくろは妹を昼寝のために寝かせつけながら、網戸ごしにその様子をみていたのだ。めずらしく妹といっしょにうたた寝をしていたおふくろが眼をさますと、いつの間にか俺がすぐそばでマンガ本を開いたまま寝ており、親父の姿はどこにもなかった。

 そのまま夜になっても姿を見せず、あぁこれはまた例のあれだなと思ったおふくろが箪笥の中を見てみると、案の定20万円ほどの現金が消えていた。そしてそれっきり、今日まで親父は帰ってこない。


* * *


 そんなことがあったのかなと、正直なところそう思う。しかしだからと云って、親父と何を話したのかなんて憶い出せない。俺がそう云うと、おふくろは鼻を鳴らしてまた煙草の煙を細く吐いた。

「せめて最期に何をしたかったのだけでも,知りたかったんだけどねぇ……」

 別に無念そうでもなく、淡々とそう云った。

「ちょっと意外だな」

「ん?何が?」

「おふくろが親父のコトをそんな風に思ってたなんて」

「あ――?」不意におかしそうにおふくろは笑った。「意外?変かねぇ?」

「ああ、おかしいよ」

 俺は笑ったおふくろが、自分の中に持っているおふくろ像とほんのちょっとだけ違って、意外に若いのに驚いた。おふくろは昔っから岩盤みたいな女で、笑わないしムダなことを云わないし、ずっと老成しているように感じていたのに。

「おかしいかねぇ?」煙草の灰を落としつつ「あんなのでも、お互いが納得づくでいっしょになったんだから、そりゃ心配っちゃ心配だよ」

 好きあってとか、惚れあってとかじゃなくって、納得づくってのが、おふくろらしい言い草だ。

「毎回そんな風に思ってたんだ?」

「まあね。イロイロ云うヒトはいたけど、アタシがうろたえた顔見せてたら周りが騒いでもっと面倒なことになってたよ、きっと。それにあのヒトだってアタシが平気な顔してたから、ちゃんと帰ってきたんだよ」

「調子にのるんじゃ?」

「あ?アンタはわかっちゃいないね。意固地で臆病モンはね、放っておかれると心配になるんだよ。優しくされたらそれこそ図にのってしまうし、責められたらもう顔を出せなくなる。あのヒトはもう病気みたいなもんだから、適度に野放しにしとくのが一番。誰にも迷惑をかけずにすむんだから。あぁいったバカな男は、そんな風に操縦するの」

「はぁ……」

 苦笑した。そんな風に考えていたとはね。こんなヒトだったから、親父もまがりなりにきちんと帰ってきたのかねぇ?

「おいおい、どうしたんだ?らしくないな。大丈夫かよ、しゃべりすぎだぜ。ポックリいっちゃう前兆じゃないのか」

「縁起でもないこと云わない。孫もできて、仕事もやっと定年むかえてこれからはノンビリと楽しもうと思ってんだからね」

「いや、親父のことをそんな風に話すなんて珍しいなと思って」

 俺の言葉に、今度はおふくろは苦笑いをした。そして夏の終わりの青空に、ひときわ高く煙を吐き出すと、いつにないしんみりとした調子でこう云った。

「20年もたつしね、こりゃもうさすがにどこかでのたれ死んでるのかねぇ……?」

 俺は何となく言葉を失って、そんなおふくろの横顔を見つめていた。おふくろの方はと云えば、こっちの気持ちもおかまいなしに、平然と煙草を脚で踏み消した。

「あんたももう30すぎたんだから、あのバカ親父みたいにどっか行くなんてことせずに、しっかり家族のために仕事せんといかんよ」

 そして最期にいつものようにそんな説教じみた一言を放って、さっさと家の中に入ってしまった。

 俺は指の間の煙草を落とすと、無意識のうちにもう1本くわえていた。意外な場所で突きつけられた、親父に対するおふくろの想いは、自分の中でどことなく居心地が悪く、落ち着かなかった。ぼんやりとライターの火を近づけた時、騒々しく縁側が開いた。

「お父さーんッ!お父さーんッ!」

 昼寝から眼を覚ました長男の隆文が、仮面ライダーの本を振り回しながら大声で叫んでいる。5歳になって、騒々しさは比例して増していく。

「コレ描いてー!仮面ライダー!描いて、描いてー!」

 長男はどうも俺が絵がうまいと勘ちがいしている節があり、何かあるとすぐにお気に入りの仮面ライダーやらウルトラマンやらアニメのキャラクターやらの絵を強要する。ちなみに理栄子には要求しない。彼女は壊滅的に絵がヘタクソなのだ。地図を描いたら抽象画になる。おまけに彼女の頭の中では、猫や犬は2本脚で歩いてるらしい。

「お父さーん早くー!描いてよコレー!」

「おう」

 応えて苦笑いしながら煙草をしまう。その瞬間、不意に夏の日差しがふたつの時間をひとつに重ね、俺の視界を大きな人影がしめていた――親父だとなぜか直感した。


* * *


「お父さん、コレ描いて、コレ」

 俺の言葉には、変声期にはまだはるかに遠い響きがあった。

「あ~?何だよこりゃ、くだんねぇな。一体何がおもしろいんだ?」

 親父はめんどくさそうに、俺が差し出したマンガ本をぱらぱらとめくる。親父の背は、俺が見上げるほどだった。くわえ煙草で流し読みする親父の背後に、くすんだ灰黄色の木肌と鮮紅色の花があった。そしてその向こう側には果てのない青空。ダメだなんて云わないだろうかと心配しつつ、俺は親父の仕草から眼を離さない。

 やがてマンガ本を閉じた親父は、俺にぽんと返すと

「お前、こんなマンガが好きなんか?」

「う、うん」

「はぁ~そうか。でもな、全然たいしたことないぞ。こんなマンガだったら、俺だって簡単に描ける」

「だったら描いてよ」

 子ども向けのマンガなのだから、大人はおもしろくないのは当然だ。自分の好きなマンガをバカにされて、俺は少し腹をたててムチャなことを云った。

「俺がマンガ?」

「そうだよ、描けるんだろ?」

「……あぁそうだな。マンガかぁ……おい、俺がマンガ描いたら、お前読むか?」

「うん、読むよ」

「そうか……」

 親父はそう云うと、俺の頭をぽんぽんとした。妙に楽しそうな仕草だった。それから親父が家に入れと云うので、俺はおふくろのそばでマンガを読みつつ、そのまま眠ってしまった。そして俺が眠っているその間に、親父は消えた。


* * *


 憶い出した。そして呆れた。

 ……俺にマンガを描いてやるためだったのか?そんな理由でいなくなったのか、あの親父は……子どもの云ったことを真に受けて、まさかマンガ家になるためにいなくなったのか?

 バカだ。自分の人生を好き勝手に生きてきた親父が、その時だけ子どもの希望をかなえようとした?そして二度ともどらなかった?

 なんてバカバカしい。呆れかえったハナシだ。

 もちろんそんな理由とは限らない。俺のことなんて関係なかったのかもしれない。もっと別のやむを得ない理由があったのかもしれない。親父はただ自分の好き放題に消えて、そしてもうただ本当に、おふくろや俺たちを捨てただけなのかもしれない。それを確かめることなんてできやしないけれど、あの親父のことだ。ありえるような気もするし、ありえないような気もする。

 20年以上もマンガ家を目指してがんばっているわけはないだろうから、もうとっくに、それこそおふくろの云うとおり死んでいるか、もしくはどこかで平穏に暮らしているかだろう。もし帰ってきたらぜひ訊いてみたいが、おそらくもう二度と会うことはないだろう。それは覚悟と云うより、もう既成の事実みたいなものだった。それに俺たちにとって、親父なんてもう最初からいなかったも同然だし、今さらひょっこり現れても困る。逢いたいとか逢いたくないとかじゃなくって、どんな顔をしてよいのかまるでわからないからだ。

 だけど……想う。

 なんてバカなんだ、あんたは……と。バカらしくて間のぬけた話で、何て云うか……実にあのヒトらしいと、俺はつくづくそう想った。


 隆文がまた呼ぶ声が聞こえる。俺は「すぐに行く」と応える。この場所で隆文が叫ばなければ、おそらくあの日、百日紅の樹の下でのできごとを、自分は憶い出すことはなかったろう。これは遠い遠い記憶だ。

 一瞬俺は、自分は泣くかな……と思った。しかしかすかに胸の一部を刺激したその想いとは別に、俺の瞳は乾いたままだったし、不思議なほどに心は平穏だった。

 あと何年かで、俺は俺が最期に会ったころの親父と同じ年齢となる。その時隆文が何歳になっているだろうかとちょっと考えかけて、面倒くさくなってやめた。多分きっと、俺はそのころ隆文といっしょにいるだろうから、その時に想えばよい。

 さほど太くはない百日紅の樹に背中をもたれて、あの日そうであったように、俺は小さな子どもが父親を見上げるように、自分よりもずっと高い場所を見つめた。視界に入るのは鮮やかな百日紅の花と、どこまでも青い、あの日のような夏の終わりの空だけだった。


(了)


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