プロローグ
季節は6月のある晴れた日。最近雨続きであったが、その日は久しぶり雲一つ無い晴天で風も少なく過ごしやすい日だ。
とあるベットタウンの中にある昭和の香りが残るビルの上に、男が一人たたずんでいる。男は暫く俯いていたが、やがて何かを決意したような顔つきでビル屋上の古びたフェンスに手をかけた。そして、
空へ飛び立つようにビルから飛び降りた ──
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「お母さん。今日の夕ご飯は、すき焼きと唐揚げとケーキだから忘れないでね!」
愛美が楽しさを滲ませながらそう言って笑った。
「はいはい。ロウソクは11本でピンク色でしょ? 他にご注文は?」
朝の忙しい時間ではあったが、娘の嬉しそうな顔を見て私は自然と笑顔がこぼれる。
今日は私、平良由美子の娘、愛美の誕生日。いつも平日は仕事を言い訳に手抜き料理なので、懺悔も含めて毎年子供達の誕生日だけはとご馳走を作るのだ。今回も気合いを入れて、確実に有給がとれるよう2カ月も前からこの日の為に調整していた。
玄関前で愛美と今日の誕生日会リクエストの話題で盛り上がっていると、息子の直人がランドセルを背負って階段を降りてきた。
「あら直人、もう準備できたの? 忘れ物が無いか母さん一緒に確認しようか?」
「大丈夫だよ! だって僕もう小学生だよ!」
直人は少し口を尖らせる。息子は今年の春小学生になったことが嬉しいようで、もう6月になるのに何かにつけてこの台詞を繰り返している。大人ぶる直人が微笑ましく、からかいたい気持ちをぐっと抑えた。
「お。今日は二人とも早いな。父さんと一緒に行くか?」
「うん。いいよ! そしたら昨日見つけたとっておきの場所教えてあげるね」
タイミングを見計らったように現れた彼は子供達の父、そして私の夫の誠さん。いつもならすでに出勤している時間だが、今日は娘達と一緒に行きたかったようで、実はさっきの私達の会話を柱の陰からそっと覗いていたのを私は知っている。
「いってきまーす!」
「いってらっしゃい」
「それじゃあ、いってくるよ。今日は定時で帰ってくるから」
「うん。期待してるわね」
いつもは子供達と一緒に出ているが、今日は手を振り見送る。こんな日々も悪くない。
(住宅ローンを完済したら専業主婦になろうかしら?)
そんな事を考えながら、折角なのでそのまま玄関先を掃除することにした。今日は梅雨時には珍しいくらいのいい天気で、日差しが暑いくらいだ。夏っぽい匂いに心が踊る。
暫くそのまま掃除をしていると、お隣の佐藤さん家の息子さんの徹君が玄関から出てくるのに気がついた。
「おはよう!」
明るく放った挨拶だったが、彼はこちらを見ることもなく私の前を通り過ぎた。そして通りの向こう側へ消えていった。
「まあー! 感じ悪いわねぇ」
「え?」
「佐藤さんの息子さん。最近あんまり見かけないと思ってたけど、就職失敗して引きこもっているんですって」
「はあ。そうなんですか……」
「そうそう知ってる? 山崎さんの娘さんは離婚して戻ってきたらしいのよー! 相手の浮気ですって、浮気! 最近の若い子は──」
我が家の向かいに住んでいる初老の女性にいきなり話しかけられ、思わずびっくりして振り向く。私の反応を気にしていないようで、どんどん一人で最近のご近所情報を吐き出している。
噂好きの彼女のことを私はあまり好きになれない。しかも、近所の子供達は小さな頃からよく知っているのだから尚更気分が悪い。
「あ、すいません。ちょっとこれから用事があって……」
「あらそうなの? 今度お宅のお話も聞かせて頂戴ね!」
適当な所で話を切り、曖昧な笑顔で軽く会釈をしつつ歩き出した。少し小走りに歩きつつ、お向かいさんが見えなくなったことを確認しホッと息を吐く。
財布も持ってきていたのでこのまま買い出しにいこう。そう、楽しいことを考えるのだ。
(今日はいつもより少し高級なスーパーへ行こうかしら? ご馳走を作ってびっくりさせなくちゃ!)
そう考えを切り替えて、いつものスーパーマーケットへの道から外れた。そしていつもは通らないビルの多い通りにでた。直後激しい衝撃を受け、訳が解らぬまま目の前が真っ暗になった。
── 遠ざかる意識の中、誰かの叫び声が聞こえた気がした。