ice doll
彼女のまわりの空気だけが、夜の湖面のように静かで。
そろえた右の指先が弧を描きつつ、その空気の薄いカーテンを開いていく。
右足のつま先が、すうっと左のふくらはぎをなぞり、曲げた膝のまま後ろに。
軸足がゆっくりと曲げられ。
とん
頭の先から見えない糸で吊り下げられているかのように。
まっすぐ、しなやかに伸びた両脚。
ダイニングチェアの背においた左の手には何の力もはいっている様子はなく。
今にも浮き上がりそうな体を、軸足のつま先だけがぴったりと床に吸い付いて地にとどめている。
やわらかな首筋に一粒の汗が流れることだけが、その姿勢を維持するためにどれほどの緊張を筋肉に強いているかを示している。
いつのまにか彼女がどんどん綺麗になっていた。
いや、僕だけが知らなかったのか。
彼女が小さな頃からクラシックバレエを習っていたことは確かに聞いたことがある。
「特にプロを目指したこともないし、大きな大会に出たこともないのよ。趣味で続けているだけ」
一緒に暮らし始めた時に、週に一度教室に通い続けていることを知ったくらいだった。
正直、彼女は地味がそのまま女になったような女で、取柄といえば料理くらいのものだと思っていた。何人かが僕の家に集まったとき、わびしい冷蔵庫に残っていたものとコンビニから調達したできあいの惣菜で何品かのつまみを作り出した腕に感心した。彼女はその料理を誰にひけらかすわけでもなく、ほどよくできあがった酔っ払い達が散乱させたテーブルの上に静かに置いていった。
「あら、帰ってたの」
帰りに買ってきた氷を4袋、冷凍庫にいれ、自動製氷機から吐き出された氷をバケットにかきだした。
「オレンジジュースがあるよ。それとも何か違う飲み物でもつくるかい?」
彼女は腰にまいた薄いスカーフを床に投げ捨てて、僕の腰に手をまわす。
暮らし始めたころは白いといえば聞こえがいいけれど、単に血の気がないだけだった頬が、今はほんのりと薄桃色に染まっている。ぱっと見には手をいれていなさそうな、しかし丹念に描かれたアイライン。潤んだ瞳で上目遣いに見上げ、つややかな唇が笑みを作って、僕の耳たぶを甘く噛む。
「石鹸の匂いがするわ。どこかでお風呂でも?」
「いや、汗をかいたからね。サウナによっただけだよ」
首をかしげる彼女に、軽く口づける。
「飲み物は?」
「ううん、今日はね、お友達に誘われてこれから出かけるの」
「またかい?」
ひそめられる眉間。その影すらも上品な形。
「いけなかった?」
「いけなくはないけれど、この頃仕事も遅いみたいだし……ゆっくりしたほうがいいんじゃないの」
「だからじゃない。職場のウサを晴らしにいくのよ」
のどを鳴らすように笑う声。
いつからこんな挑発的な視線をつくることができるようになったのか。
いつだって帰りが遅いのは僕のほうで。
何時に帰っても食卓には僕の分の料理が載っていた。かなり遅い時間になれば、お茶漬けなど腹にもたれないものがドアをあければすぐ用意されている状態だった。結婚という鎖もないまま居心地のいい部屋を用意された僕は、一緒に暮らし始める前以上に帰る時間が遅くなった。帰れば暖かな食事と風呂とベッドが用意されている。朝はアイロンのかかったYシャツに袖を通して挽きたてのコーヒーを飲める。ちょっと不服をみせた休日でも、ひとかじりの嘘と言い訳とたった一つのキスで笑顔をみせる恋人。シャワーさえ我慢したら、それだけで華やかな夜をいくらでも外で楽しめる快適な生活。
部屋で一人の夜を過ごしていたのはいつだって僕ではなかった。
彼女はストレッチ用のショーツとブラを脱ぎながらシャワーに向かった。山となった洗濯籠の上にぽいと放り投げ。
氷と一緒に買ってきたできあいの惣菜を電子レンジに。
じいぃぃぃっと単調な機械音。オレンジ色のほの暗い明かりを見つめる。
踊りにいくといった彼女の後をつけたことがある。
冷蔵庫の中の食材より、彼女のドレッサーの前に並ぶきらきらとした壜が多くなり始めた頃。
どんどんと腹にひびく低音。
コマ落としのように闇にうかびあがる人間たち。
もくもくとこなしていくストイックささえ感じさせるレッスンとは程遠い肢体を見せる彼女がそこにいた。
細い糸一本で地にゆわえつけられる浮遊感は何もなく。
力強く床をたたきつけるように踏み出されるステップ。
肉感的に空を切る二の腕。
ライトをはじく指先の爪が自らの腹をなぞり、ヒップハングのパンツの腰元に差し入れられる。
僕の知らない男と視線を絡ませて。
今にも触れそうに一枚の空気を間にはさんだまま。
扇情的にうねる腰。
シャワーからあがり寝室に向かった彼女の後を追う。
「なあに?」
鏡の中から見上げる彼女。その肩を引き寄せて。
「だめよ。時間だもの」
胸元のタオルと肌の際を舌先でなぞり、組み合わされた端を歯でつかんで引き出す。
「困った人ね」
甘い吐息を額に感じながら。
その体のやわらかさで僕の動きを受け入れるだけだった彼女。
今はそのしなやかな鞭の筋肉をもって僕の腰をしめつける。
僕の上で、あの夜ライトに浮かび上がっていた彼女が踊る。
がらがらがらと、氷を吐き出す製氷機の音。できたての氷と、買ってきた氷を一袋。
甘ったるい香りがただよってくる。
シルクのキャミソールに首を通しながら寝室から出てくる彼女。
「行くのか」
「約束だもの」
「行かなくていい」
「おかしなことを言うのね。行かなきゃならないとか行かなくてもいいとか、それは私が決めることだわ」
「家にいろよ。僕がいるんだから」
「私が家にいたとき、あなたはどこに?」
「今はいるだろう」
「わがままね」
腰を抱き寄せ、その首元に跡をつけた。
拒むわけでもなく、怒りを見せるわけでもなく、彼女はただ艶然と微笑む。
「だまされてあげるのはもうやめたの」
「だましたことなんてない」
「私があなたのそばにいないのはいや?」
「だから一緒に暮らしたんだろう?」
「質問に質問で答えるのはやめて」
ぴたりと密着させた腰。背をそらせて、僕の眼を覗き込む彼女。鎖骨から伸びる首筋のそのライン。その細さ、そのしなやかさ、僕の片手でつつんでもまだ余るほどの。
「行くなよ」
「何故?」
「君は僕のものなんだから」
「違うわ」
僕の胸を、爪の先でついっと撫ぜ、首筋へ。そして、軽く引っかきながらそのまま腹の方まで。
「それは私の台詞ね」
臍のあたりからまた爪は折り返し、胸の真ん中あたりで、ちり、と甘い痛み。
くるりと体をひねって僕の手から逃れた彼女は悠々とした足取りでダイニングテーブルへ向かう。黒ずみかけたバナナとしなびかけたみかんと、買って来たばかりの艶やかに光る真っ赤な林檎。果物ナイフをその林檎に突き立て、皮のままの林檎を齧る。しゃく、と瑞々しい芳香が広がった。
艶やかな深紅のキャミソール。
林檎は溶け始めた氷の上。
氷が、その紅さを映しあげる。
「じゃあ、行くわね」
薔薇を細かに形どったレースのショールを手に、彼女はふわりと床をすべるように一歩踏み出す。ワンテンポ遅れてついていくショールがひるがえった。
その端をつかんで、林檎に突きたてられたナイフを手に。
何度でも彼女は微笑む。
繰り返されるその微笑。
のけぞる細く長い首。
それは自分の中だけに流れる音楽を聞きながらレッスンを続けている時の姿によく似ていて。
そして、その表情は、つい先ほど僕の上で踊ったときのまま。
僕の肩に立てられる爪。
こぽこぽと唇からあふれる暗く紅い血。
「やっと、私だけを見てくれた」
毎晩、毎晩、繰り返し、彼女はそうつぶやいて微笑み、消えていく。
がらがらがらと、また氷を一袋。
自動製氷機だけでは追いつかない。
洗面器いっぱいの氷を、バスタブの中に注ぎこむ。
青白い頬に薄い影を落とす睫毛。
唇のかわりに、胸元に暗い紅。
そうだね、君が僕のものなのではなく、僕が君のものだったんだ。




