大きな広場の真ん中で
大きな広場の真ん中で、今にも死にそうな人がいる。
顔色も悪く、手首もまるでそこらに落ちている棒切れのようになりながら。
誰に助けを求めることも、誰かを怒りに任せて傷つけるわけでもなく、
その人はそこに寝そべっていた。
最初その人を見たとき、手を差し伸べるべきだと、自分は感じたはずなのだ。
しかし、手を差し伸べようとその人に近づいていくと、
どこからともなくその人に向けられる声が、
自分の耳にただの音ではなく、言葉として聞こえてきたのだ。
「あの人、あんなところに寝そべって汚いわ。」誰かが言う。
「あいつは悪い奴だからああなって当然なんだ。」誰かが言う。
「悪いことをしたのだから裁きを受けろ。」誰かが言う。
「あの人には生きている価値もない。」誰かは言う。
「あいつは死んで当然の人間だ。」誰かが言う。
それらの声はどんどん大きくなっていき、
やがて、空間を覆い尽くすほどの罵声へと姿を変えた。
人々の中にはその人に向かって石を投げる者もいた。
私はついさっきまでその人に手を差し伸べようとしていたのに、
まるで誰にもばれてはいけないことをしているかのように、
すっかりその人を助けようとする気持ちは消え失せてしまっていた。
そして、途中まで来ているにも関わらず手を差し伸べずに立ち止まった私は、
その人に向けた罵声が確実にその人の耳にも届いているのだということも、
そんな中でその人を助けたのなら自分も石を投げられ、罵倒されるのだということも、
理解できてしまったから、
見てみぬフリをして、
自分の感情を消して、
何もしないでその場にただただ佇むことしかできなかった。
そのうち、その人は、
誰に何をするわけでも、
罵声に対して言い返すわけでもなく、
寝そべっていた身体を横に向け右手をついて、起き上がると別の場所へと歩みを進めた。
私は今、罵声を発し、石を投げた人々にとっての善悪とは一体何だろうとふと思った。
私は実際にあの人が悪事を働いているところを見たわけではない。
私にとっては今、この瞬間にたまたま出会っただけの人であったのだ。
私の目に映ったのは、
何もしていないのに
罵声を浴びせられ、
石を投げられ、
それでも何かを傷つけることなく去って行ったあの人と、
何もしていないあの人に罵声を浴びせ、石を投げる人々だった。
しかし、あんなに大勢の人々にさんざんな言われ方をしているのだ。大層な悪事を働いたに違いない、とも思った。
自分はあの人の悪事を目にしたわけではない。
だが、この世には自分の知らないことがたくさんあるということを、
いつか、誰かに、教えてもらったことがあった。
しかし、善悪で人を別けるとするならば、
当然この場に居る人々も、
『悪』だとされたあの人も、
ここに居てそのどちらにも属することの出来なかった、
私すらも善悪で別けられるのだろう。
罵倒され、石を投げつけられたあの人が『悪』であったとするならば、
罵倒し、あの人に石を投げた人々は、確かに『善』であったのだろう。
しかし、そうすると、どちらにも成ることが出来なかった私は、
一体、『善』と『悪』、どちらであるのだろう。
去っていったあの人に助けの手を差し伸べず、自分の都合で立ち止まってしまった私は。
私があの人と同じように、あの時、あの人に手を差し伸べることができなかった私を、
『本当の私』を『悪』だというのなら、
私はこの場の皆にあの人と同じように罵られていなければ、おかしいではないか。
罵られていないということは、私は『善い』人なのかもしれない。
だけど私がもし本当にこの人々と同じ『善い』人であるとするなら、
今、この場で、あの人をみて罵声を浴びせ、
あんな姿になったことを嘲笑し、
石を投げつけていたことに疑問を抱くことは凄くおかしなことなのではないか。
でも『善い』とされる人々は、そうしていたのだから。
『本当の私』を裁くことはしなかったのだから。
自分の考えなど取るに足らないものとして、
周りの意見を尊重することだけが、
今この場で何も知らない私にできる唯一の最『善』なのだと。
だが、それで、本当にいいのか。
自分のこの気持ちも、
あの人のこともわからないし、理解する気もないのだと、
その他大勢の意見をただ鵜呑みにして、
あの人は悪人だから何をしてもいいのだと、
『本当の自分』を隠して、
あの人を、誰も傷つけることのなかったあの人が、
あの場で見せた強さを、踏みにじって。
私に、この世には知らないことがたくさんあると、
教えてくれたあの人は、
本当にこんなことを教えたかったのだろうか。
違う。そうじゃないだろう。
自分の頭の中で、
それまで考えないようにしていた気持ちが、
あの人が立ち去り、人々も散り散りになったその場所で、
ドクドクと自分の鼓動とともに、
全身に広がっていく感じがした。
あの時、汚いと言い放ったあの人は、
考え方も、感じ方もそれぞれ違う人々の中で、
何が美しいと思えるもので、大切なものであるか、
それらはまるで、
数式の解のように万人にあてはまり、
決まりきったものであると、そう確信していたのだろうか。
あの時、悪い奴だからああなって当然と言い放ったあの人の、
当然というその言葉は、
人が何を思い、どう生きることが善であるのか、
少しでも思いをめぐらした上での当然だったのだろうか。
あの時、裁きを受けろと言い放ったあの人は、
『裁き』というものが、
自分にとって都合の悪いものにだけ罰を背負わせることのできる、
善人にとっての魔法の言葉ではないのだと、
いつか気がつくことができるだろうか。
あの時、生きてる価値もない、死んで当然の人間だと言い放ったあの人達は、
人が、人の生きるということを、
その人の人生の良し悪しを、
価値で示すことができると、
死んで当然の人間がこの世に居るのだと、
そう思うしかなかったのだろうか。
石を投げつけたあの人は、
投げつけた石の重みを、痛みを、
自分が味わうことになったとき、どう感じるのかを考えた日があっただろうか。
『善悪』という言葉の間には他の言葉を挟めるほどのすき間はない。
だが、この言葉の間には、計り知れないほどの溝がある。
だから、『本当の私』が、
あの場で『悪』にも『善』にも成りきれなかった自分が、
ひどく、落ちこぼれで醜い生き物のように感じられた。
だがそれと同時に、
誰かを傷つけても、
自身が絶対に傷つくことのない、
『善』を掲げ好しとすることも、
私には、凄く恐ろしく感じた。




