私はお姉ちゃんみたいになりたかったと妹はくしゃりと顔を歪めて言った
あの日はとても痛かったです。
殺伐とした雰囲気の居間の中の、木製の枠に囲まれた犬小屋の中。犬がガタガタとふるえている。
感情を一番受けやすい動物という種族だからこそ、一番感じる言葉の恐怖、言葉のストレスを一身に受けているのだ。
きっと、この1歳半のまだ小さな子犬は、通常の人生よりもはるかに短い人生を送ることになるのだろう。長生きしてほしいと、私は願うけれど。
犬を飼おう、そう言った私が、この命を、寿命を縮めてちまっているのだと思うと。情けなくて仕方ない。
抱きあげたくても、痛む左腕は私の言う通りに動いてくれないので、母親に頼んで抱きあげてもらう。申し訳ない、そう内心で思いつつも、私は犬の震える姿を見ながら痛む後頭部をさすった。
「みっともないなんて格好悪いじゃないか」
言い争いはもう随分と平行線をたどっている。震える声で、目の前で座り込む少女が言った。
私は答える。自分の声とは思えないほど、起伏のない感情の感じられない言葉が口から零れおちた。
「あんたがやってることね、それこそアニメの中の真似じゃないのかな」
「テレビはテレビ、マンガはマンガだよ。現実は違う」
「じゃあ、聞くけど。それに染まっているのはどこの誰。口調までアニメの中のキャラクターの真似してない?」
彼女はしばらく沈黙して、こう言った――「自分だ」と。
私の言うことは真っ当だ、正論なのだ。彼女もそれを分かっているのだ。でも彼女はその正論をまだ受けとめられない。
「中途半端じゃないか」
この会話は何度繰り返されるのだろうか。私自身も分かっている、こーじゃないか、あーじゃないかと正論を振りかざしていることくらい。自分を棚にあげてだからなおさら受け入れがたいのだろう。
「中途半端で構わないよ。私も中途半端だよ」
「中途半端なら中途半端で終わる。皆に迷惑をかけて。要らん、キチガイだ」
遠回しに私を批判したいようだ。私が正論だけ吐くキチガイだと言いたいのだろう。
あんたの方がキチガイだよ、と思わず口からこぼれそうになった言葉を、喉の奥に押しとどめる。
人格破壊、
まともじゃない、
精神異常者。
この世で存在する全ての言葉を用いても、今の彼女には伝わらない。今の彼女は本当に可笑しいのだと思う。
畳の和室の奥に、ただ右足を立てて座り、溢れかけた雫を零すまいと灰色のジャケットで頬をぬぐう彼女。何度も拭うその頬は摩擦で真っ赤に染まっていた。
これは今日始まった些細な姉妹の口喧嘩ではない。
彼女はどうすれば、本音を出すのだろうか。
これだけ、信頼されたいはずの両親に罵詈雑言の限りを尽くされてもなお、彼女はどうして泣きわめこうとしないのだろうか。
もう数年続く、終わりのない言い合い。数えることもしなくなった、何度目かの大喧嘩。
今日は彼女とのつかみ合い、殴り合いのせいで痛む左腕を押さえながら私は言葉を選んで行く。
彼女を見れば、強く強く左手で服の胸元をつかんで耐える姿。まるで精神を侵されたせいで発作でも起きている患者のよう。
でも彼女は、ほとんどの言い合いで叫んで本音を言うことはない。ヒステリックに泣き叫ぶのはいつも姉の私だけ。
何故わめかない。
何故自分の言葉を聞かない。
何故そんな自分の言葉じゃない偽物の言葉ばかりを吐いて、両親を無理に論破したようなふりをして、毎日逃げ回るんだ。
私には彼女が分からない。
一体彼女が何という境界線を、現実世界と幻想の世界に引いているのだろうか。
矛盾だらけの彼女の世界で。
彼女は一体、何を想って生きているのだろうか。
私はそこまで、この社会の矛盾と混沌に影響された人生を、歩むつもりはないのだ。だから世間を気にしつつも、自分が楽に生きられる道ばかりを探して進む私。
苦しむ道を進む彼女、薄気味悪い能面のような微笑みを浮かべた彼女の言葉をBGMにしながら。私は紡ぐ。
「ねぇ妹――私のいなかった一年で、一体何があったの」
発端は全て、人生の分かれ道になろうとしている、15歳の冬だと私は思っている。
私は小さいころの目標をかなえるため、ほどほどの成績を持って目標とした高校に進学することにした。
目標――私は高校2年の夏、留学と夢を叶えることができ、海外に1人――1年間滞在した。
その経験と高校生活で培った力を使い、不可能だと言われていた公立大学にも進学し、20歳の成人式を過ぎた。そんな時期……今度は私の妹が、15歳の冬を迎えようとしていた。
彼女は優等生だと言われていた私とは正反対だと――周りから言われてきた。
人と話すことが好きで、多趣味で、冗談で笑いを取る、成績表は可以上が並ぶ学生の私。
一方で彼女は人付き合いを面倒がる性格で本を黙々と読む、成績表にはかもなく不可もなく、数字が並ぶ学生だ。
数学なんて歴史なんて文学なんて語学なんて。学校での勉強なんてクソクラエと笑う私でも、その数学の世界の中で生きてきた。勉強を家でするのは癪だった。だから私は中学の、カーペットの敷かれた図書館の中で勉強をした。
先生たちはそんな姿を見て、優等生だと評価した。それが私の推薦入試の学内選考会にプラスの影響を与えたに違いなかった。
彼女はそれに反し、家で勉強をしない私を見て育ったゆとり教育の寵児。
勉強はそれなりにできていた小学生のころから、そのままのゆとり意識で中学校に進学した。だからこそ、勉強しない姉の背中を見て、家の中では勉強することはない。そしてゆとり教育の中、中学校で勉強をする場所もなければする気もない。
彼女の成績は、私たち家族が予期せぬ速度で、落ち込んでいった。
と同時に、情報技術の革新的進歩が、彼女に新たな楽しみも与える。
綺麗なグラフィック画像で進むテレビゲーム。良質な音で、簡単に持ち運びの出来るミュージックプレーヤー。ハードディスクが内蔵され、ほぼ無制限に録画のできるデジタルハイビジョンのテレビにレコーダー。
私の5年前とは全てが違う環境で、彼女は暮らしている。その中で、彼女は15歳の冬を迎えた。
私が彼女の年齢を迎えた頃、両親は私に勉強の「べ」の字も言うことはなかった。推薦入試当日だけ、優しい言葉をかけ、そのまま見送られた。
彼女の頃になれば、さすがに必死で危ないと危険信号を発する担任の教師の言葉を聞き、両親は勉強というふた文字を夕飯の食卓の上で上げるようになる。
私も、自分より落ちこぼれた彼女に、勉強、宿題、テストと繰り返し口を酸っぱくして忠告した。
「いい加減毎日課題溜めて、後でやるっていう馬鹿馬鹿しいことやめなさ……」
「うるさーい!」
私はある日、実の妹に殺されかけた。
癇癪を起した妹が、彼女に近づいた私を持っていたオルゴールで殴りつけたのだ。
壁に叩きつけられ痛む頭、朦朧とする意識。
そして、カッターを持ってさらにこちらに近づく姿が見えた。
頭にぶつかった陶器のオルゴールは割れ、近くに落ちているが、その端に、赤黒い塊が付着していた。私の、血液だろう。
かろうじて振り上げられたカッターを避け、彼女の腕を後ろからねじりあげて凶器を落とさせるが、その後連れて行かれた救急病院では、頭部に5針も縫う大怪我を私はしてしまった。
その日から数か月。なんとか高校進学はできたものの、中学時代とあまり変わらない生活を送り、むしろ家にこもる時間が増えている彼女。
既に抜糸を終えて再び今日対峙する私と彼女だったが、私は今日を持って、この長い言い合いを終わりにしようとしている。
これがラストチャンスなのだ。
「一体何があったの」
「何もなかったよ。お父さんが毎日うるさかっただけ」
唇を強く噛み過ぎたのだろう、唇の上に浮かんだ血液を自身の舌でなめとった妹――アヤナはふい、と私から目線を逸らした。
こっち向きなよ、といえば、能面のような顔に、口の端だけ吊りあげた、奇妙な笑みをこちらに向ける。
「私が……ねーちゃんが留学している間、お父さんがあんたばかりを見てしつこく怒ったからこうなったって言いたいんだ」
「そーゆーことだよ……もういいだろ?」
「でも、怒られた原因が自分にあるのは分かってるんだよね」
「しつこかったんだ」
「質問の答えになってないんだけど」
ほら。いつもそう。背後で母親がため息をついたのがわかった。
母は私のいない1年の間、毎日のように父と妹の言いあいを聞いてきて、今もそれが続くことにノイローゼになりそうだとよくぼやく。
「お母さん。2階に行ってもらえないかな」
「来週から留学だっていうのに、また大けがする気?」
「大丈夫だから」
「この子に本音を聞いたってわかんないよ。あんたに傷が増えるだけだよ、アイカ」
私――アイカは首を横に振って否定した。
「これが最後だから」
私は駄目な姉だと何度となく確信してきた。勉強する背中を見せられなかった。彼女には楽しいことだけを教えてきてしまった。
決して事実は違うけれど、楽して進学したように見えてしまう自分の後ろ姿を見せてきた私が、自信を持って彼女に説教できる権利もない。
それに……
私も、そんな自分のことを棚にあげて、妹ばかりを責めていたんだ。それだけじゃない。私はいつもいつも、自分は比べられることが嫌いだったのに、彼女と自分を比べ、自分の方が優れていることに優越感を覚えていた。その罪を認め、謝罪しなければならない。
それに。私はまた、妹をこの家に置いていく。
年齢を追うごとにますます頑固で、しつこく、そして人の話を聞けなくなる父のいるこの家に、娘1人にするのだ。
大学留学――輝かしい功績?そんなこと私は気にしない。今私が彼女の言わなければならないことは。
「アヤナ……ごめんね」
「は?」
「また一人ぼっちにしてごめん」
「……何言ってんのかいみわかんねーし」
姉としての、最初で最後の――謝罪だ。
「お姉ちゃんだったね、最初にあんたに面白いよってゲームを見せたの」
「お姉ちゃんだったね、一緒にお母さんたちに内緒でゲーム機を買おうって言ったの」
「お姉ちゃんだったの、あのクリスマスプレゼントのゲーム機をねだったの」
「お姉ちゃんが小説を買って、それを読みなよって渡したんだったね」
「お姉ちゃんがミュージックプレーヤーを聞かせてからあんたはそれが欲しいって言ったよね」
「パソコンも、お姉ちゃんがオンラインゲームを暇なときに進めてくれって言ったよね」
「テレビも、録画して見てるお姉ちゃんを見て録画の仕方覚えたよね」
「お姉ちゃんが楽しいことを全て教えた。私もあんたよりもそれを楽しんでた」
「お姉ちゃんが楽して生きることの楽しさを教えてた」
「ヤメロ」
今まで私は、彼女を自分の物差しで決めつけ、妹だけが悪いと、言い続けてきた。
彼女の意思の弱さ。
彼女の忍耐力のなさ。
すぐに諦めるところ。
なんでも武力で解決するところ。
手加減ができないところ。
でも本当は。
「お姉ちゃんが、悪かったんだよ」
「やめてよ」
「結局さ、あんたは私の背中を見てたんだし、私のせいじゃん」
「やめてっていってるじゃん!」
「ごめん」
「謝らないでよ!」
「私が――いなきゃよかっ」
気づけば目の前に妹の、泣き崩れた顔があって。その瞬間、私は畳の上に倒れこむことになった。
先ほどと立場が正反対だ。座り込む私に、それを上から見下ろす妹。
「あの、腕痛いんだけど」
「謝ってなんて欲しくない」
妹の能面のような笑み。ずーっとずーっとたしか留学の行く前から見続けてきたその笑みが、とうとう崩れた瞬間だった。
言い合いの中で珍しく叫んでも、私を殴りつけた時すらも、顔色すら変えずに浮かべてきたその笑みが。
くしゃりとこわれて。
私に飛びついてきた。
「私はお姉ちゃんになりたかったんだ」
それが彼女の本音なのだろうか?
「お姉ちゃんになりたかった」
「私なんかになってどうすんの」
「お姉ちゃんみたいに器用ならどれだけよかったかってずっと思ってた」
「趣味だって描き始めた絵も、真剣に私が描いても、比べ物にならないくらい上手に描いてた」
「美術部に入って先生から教わって切り絵を作っても、切り絵なんて習ったことないお姉ちゃんは趣味でその数倍も綺麗な作品を作ってしまった」
「習字だって、先生にいつも、姉ちゃんは集中して綺麗に書いてたって比べられて」
「お金も、お姉ちゃんはお年玉なんてほとんど使わないから貯まってて。親に負担をかけまいと奨学金まで取って留学したじゃん」
「友達だって、おねえちゃんたくさんいる」
「私もお姉ちゃんと同じ高校に行きたかった、留学に行きたい」
「でもなんでも私は2番目だから、評価されないんだきっと」
「本を読むのだって、結局お姉ちゃんは私の倍以上読んでる。好きな本ばかり読んでるわけじゃないって知ってた」
「アニメだって倍以上見てるけど、その分ニュースやいろんな番組を見て、勉強してたのも分かってた」
「どうしてお姉ちゃんはいつも「5」がたくさんで、なんで私の通知表は「2」があるのか」
「お姉ちゃんのノートは、図書館で居残りしてた分だけたくさんあって」
「私は授業中に落書きと一緒に書いてたノート数冊しかなかったから分かってた」
「どうして3日前からしか家で教科書読んでないのに85点のテストで悔しがるのかも」
「先生に何度も職員室近くで教わっていた公式を、思い出せなかったからだって知ってた」
「どうして提出物が終わるのかも……どうして作文を上手に書けるのかも知ってた」
「お姉ちゃんはいつも楽したいからってその分努力もしてた」
「だからいつも笑ってられたんだ。自信満々に生きてきたんだって」
「分かってた」
妹の話は、傍で聞いていても支離滅裂だほう。
ただ。
比べることが、彼女をここまで追い詰めたこと。私こそが、本音を明かすべきだったことに気がついた。
私は私の肩にすがりついている妹の、背中をぽんぽん、と叩いた。
「やっと、か」
「ようやく本音をしゃべったあんたに、私も本音をしゃべらないとね」
「え?」
「私はそんなに良い人じゃないよ」
誤魔化すのが得意だっただけだ。
世渡りが得意だっただけだ。
大人受けのする言動を心がけただけだ。
世間を気にしないといいつつ、一番世間を気にし続けてきたんだ。
「こんな姉ちゃんでごめんね。情けないだろうけど、まぁあんたの言う通り、頑張っては来てたから。あんたも私も妹なんだからできるわよ」
「……なにそれ」
ボロボロと涙を零しながら妹は笑った。
能面のような笑い方はもうしなかった。
「お姉ちゃん」
「なに」
「………ううん。なんにもない」
母は私たちの背後でほっと息をついていた。
「早く寝るよ、ほらあんたたちまだ学校明日もあるんだから。腕大丈夫ならだけど」
「そんなもう、痛くない。痣になるかもだけど」
「お姉ちゃんごめん」
「……ごめんはいらない。欲しいのは行動」
頷く妹。
これで私たちの大喧嘩に、ひとつ、区切りがついたのだろうか。
「ほら」
今日はここまで、と解散の声をあげた母の視線の先で、時計の針が真夜中を指した。母の胸の中に抱かれた犬は、緊張か眠気か、大きくあくびした。
お読みいただきありがとうございます。
あの日から2年と数ヶ月経ち、この中の妹はなにをしているのか。結局、親に口答えをし、思春期と厨二病をこじらせたままではありますが、頑張ってます。
姉は相変わらず大学卒業してもふらふるしているものの、姉と違う、堅実な道を歩もうと妹は画策しているようです。
姉妹喧嘩って結構えげつないんです。
手も足も、口も出る。最近は私から避けるので、ありません。
どの家族にも様々ないざこざや喧嘩や面倒なことがあるわけですよね。
最後に、改めまして。
お読みいただき、ありがとうございました!