氷月姫つきりんと遅刻魔の七夕
な、なんとか7月中に投稿出来た……なんかもう、物凄くベッタベタした内容ですが、どうぞお楽しみください。
七月七日……七夕。
天の川を隔てて引き離された織姫と彦星が、年に一度会う事を許された日。
母の実家で七夕を行った時、その話を祖父母から聞き、私は幼心に憧れを抱いた。
けれど、昔は憧れた理由がよく分からなかった。だが、今なら分かる。
それは『一年に一度しか会えない相手を想う強い意志と相手への信頼』
私は狭衣 千鶴に恋をした瞬間、その憧れの理由を一瞬で理解した。そして、それからの七夕の願いは『狭衣千鶴と恋仲になれますように』となった。
そしてそうなる時が来たならば、織姫と彦星のような意志と信頼を持とう……そう誓った。
ジメジメとした日本独特の夏の気候によって、登校してくる生徒達にも不快感が滲み出ている。
休み明けという条件も、その不快感に一役買っているようだ。
私は遅刻取り締まりのために校門に立つ風紀委員達に、熱中症予防として木陰に立つよう指示を出していた。
……最初の頃は戸惑っていた一年も仕事になれ始め、二年は貫禄が付き始めている。この調子なら三年が委員会を辞めても十分活動可能だ。
問題点として上げられるのは一つのみ。それは、ある男子生徒の捕縛についてである。
『遅刻を知らぬ遅刻魔』の異名を持ち、寝癖で所々跳ねた黒髪とやる気を感じさせない半開きの目が特徴の男子生徒……狭衣千鶴。それが風紀委員の宿敵の名であり、私の彼氏の名前である。
――大ッ嫌いだッ!!
「――ッ」
突然襲う胸が締め付けられるような痛み。私はその痛みに歪みそうになる顔を必死に押さえ込む。
いったい……いったいなにが痛いのだ? 私はただ彼に一時の感情で怒鳴っただけ。それだけの事なのに、気を抜けば真っ黒な感情が私を飲み込もうとする。
もしかして……もう……
「委員長、そろそろ例の時間だよ。ボクは何すればいいの?」
「あ、あぁ。私は正門に居る。他はいつものように散開しろ……と、なぜ風紀委員でもない落窪がここにいる?」
「エヘヘェ。なんとなくだよーん♪」
私の思考を遮った声の主は、140にも満たない身長と肩の辺りで切り揃えた黒髪を持つ……一応、小学生に勘違いされても仕方のない容姿を持つ私の友人だった。
落窪 ひより。それが彼女の名前だ。
この幼い容姿に騙されるなかれ。その腹には暗黒物質を宿している。
最近では知り合いの大学生に指輪を渡されていた(落窪曰く『よく分かんないけどくれた』)。その時、告白の言葉もあったが
「え? なに言ってるの?」の一言で切り捨てたらしい。実際、その指輪は質屋に入れられ、現金と化して落窪の財布に収まった。
私はその事に文句は無い。どちらかと言えば、私の名前の『月代 凛』から来た『つきりん』という呼び方を修正してもらいたいが……しかし、修正される事はないだろう。
そんな幼い悪女な私の友は、私の顔を不思議そうな面持ちで見ていた。
「ねぇ、つきりん。なんか顔色悪いよ? もしかして……」
「大丈夫、体調は何時も万全の状態だ。風紀委員の活動に何等支障は……」
「ちーくんとなにかあった?」
「……」
図星……完璧な指摘だった。
『体調は』万全な私が不調に見えるとしたら、精神的に問題があるという事であり、私が外面に出るほど精神的に揺らぐとしたら、ちーくん……つまり狭衣千鶴が問題の中核にある。
その事を認知している私の友はある意味恐ろしく、ある意味頼りになる。
「無言ってことはイエスッてことだよね?」
「あぁ……」
「まったく、つきりんを困らせるなんて罪な男だねぇ〜。ボクでいいなら話し聞くよ?」
「うむ……」
この友は確かに腹黒いが、私は落窪を信用し、落窪も私を信用してくれている。……それに、このような精神状態では風紀委員としての仕事に支障が出る可能性がある。
それに、誰かに話すだけでもこの胸の痛みが楽になるかもしれない。
「落窪は……私が七夕に特別な思い入れがある事を知っているな?」
「うんうん♪ だってつきりん毎年短冊に願い事書いてたもんね。しかも、中二からはずっと同じ願い事で、ちーグムッ!?」
「分かっているならそれでいい。それ以上言う必要はない」
余計な事まで口走りそうになる落窪の口を、正面から片手を伸ばして掴むように押さえる。登校している生徒と風紀委員達の目線が突き刺さるが、落窪の知っている事実を周囲に知られるより数倍マシだ。
「その事は忘れるか一生口に出すな。でないと……今後一切ノートは貸さない。分かったか?」
「モゴッ!?」
……落窪は実技以外の授業中によく寝ているため、座学授業の内容をノートに模写しておらず、テスト前になると必ずといって私にノートを貸りる。そのため、もし私がノートを貸さなければ彼女のテストは全滅になりかねない。
その事を自身で分かってる落窪が私の脅迫に対しコクコク……いや、ブンブンと頭を激しく縦に振ったため、私は彼女の口を掴んでいた手を離す。
「ぷはッ!! つきりん怖いよぉ〜。いろんな意味で」
「それは落窪が不要な事まで話そうとするのが悪い」
「それは……そんな事よりもぉ、その七夕がどうしたの?」
話を逸らされた気もするが、話題が軌道修正されたため目を瞑っておく。それに……もうまともに話せる時間は少ない。
私は周りの目線がこちらから外れた事を確認してから、落窪に本題を話す。
「昨日、私は狭衣千鶴の自宅に出向き、彼と一緒に七夕の準備をしようとし、私の七夕に対する思いを語り……そして笑われた」
「まぁ、仕方ない所もあるよね。子供っぽいとか、ダサいって思われがちだし」
落窪の言う通り、それは仕方ない事だ。冷静に考えれば私の価値観を彼に押しつけるなど理不尽極まりない行為だ。
けれど、私は一時の憤りに任せて……取り返しのつかない行為をしてしまった。
「そして…………言ってしまった」
「? なにを言ったの?」
「……大嫌い、と」
そう、私は史上最悪な言葉を口にした。彼を否定して、彼を拒絶する言葉を。
「なぁ〜んだ。そんなの普通の事だよ? 惚気話とか痴話ゲンカじゃ…」
最初は軽かった落窪の口調がピタリと止まる。それは私の顔見たからに相違ないだろう。
仕方ない……落窪は、私の頬に涙が流れるのを見たのだから。
私は自分の琴線がプツリと切れるのを聞いた。その瞬間、私は涙を拭うことも出来ず、その場にストンと崩れ落ちる。
「つきりん!?」
「くぁッ……」
いきなり私が倒れた事に驚く落窪。私はそんな彼女を気遣う余裕もなく、自分の胸を押さえる。
痛い……痛い……痛い……
嫌い……嫌い……嫌い……
全身を握り潰されるような感覚に胸が痛み、自然に息が出来なくなる。
そんな状況にも関わらず、私は必死に口を開く。落窪に彼……狭衣千鶴と私にとって、その言葉がどんなものか伝えるために。
「ちょっと待ってて! 今校医さん呼んで来る!」
「……いな……い……」
「え!? かおるんいないの!?」
違う……この学校の校医はすでに出校している。
居ないのは……そう……
「……狭衣千鶴が……居ない」
「え?」
「居ないんだ……家にも……どこにも……」
「連絡は? 携帯にはかけたの?」
「繋がらない……一度も……こんな事、今までなかった」
涙で視界が歪む。その歪みの中に綺麗過ぎる思い出が浮かぶ。
――2月14日、バレンタインの日に狭衣千鶴宛のチョコレートを私が回収しているのが彼の知る所となった時、私は必死になった。
狭衣千鶴の背中が遠ざかる……狭衣千鶴が私から遠ざかる……それが何より恐ろしくて、私は心のダムが決壊したかのように言葉が流れた。
『……せめて私を拒絶しないでくれ…私が貴様を見る事の出来る場所に居てくれ。貴様が居なくなったら…私は……耐えられない』
……彼はこんな我儘な私を受け入れてくれた。
そして、彼はいつも私の傍に居てくれた。声が聞こえ、姿が見え、触れ合う事の出来る距離に狭衣千鶴は必ずいた。実際はいつも隣に居るわけではない。けれど、彼との繋がりがあるだけで、彼は私の隣に在ってくれた。
――大ッ嫌いだッ!!
「……あっ」
とめどなく流れる涙は、雫となって地面に落ちる。私の綺麗な思い出を映していた涙も、地面に吸い込まれるように落ちて……散った。
その瞬間、私の耳に鐘の音が飛び込んでくる。
時刻は8:45……それはHR開始の予鈴。
学校生活の中では日常的に耳にするその鐘の音が、今の私には純粋な……絶望だった。
「あれ? このチャイムって……」
「……落窪…知っているか………狭衣千鶴は高校に入ってから……一度も欠席をしていない。そしてこのHR以降に入校した事は……一度もない」
落窪はこのチャイムの意味をそれとなく理解しているようだ。私はその落窪に明確な事実を教える。
それは私が事実を受け入れるため……誰かと一緒に認めなければ、私が壊れてしまうような気がした。
「……彼は……狭衣千鶴は……居ない……どこにも…居な……い……」
「つきりん!? ねぇ! しっかりして!! つきりんッ!!」
本当は連絡が取れないだけでも倒れそうになった。しかし、必ず彼が来るこの時間までは、私は希望を捨てなかった。
……しかし、駄目だった。認めたくない事実が脳内を駆け巡り、私の意識はプツリと途切れた。
狭衣……千鶴……貴様はもう戻ってきてはくれないのか? 拒絶した私を許してはくれないのか?
私はまだ貴様を見足りない、貴様の声を聞き足りない、貴様の体温を感じ足りない……そしてなにより、私は貴様になにも返していない。
もう遅いかもしれない……けれど、最後に言わせてほしい。
拒絶さた私を許せとは言わない……それでもどうか……忘れないでくれ……
私は狭衣千鶴と言う人間を本当に……本当に愛している事を……
消毒液独特の臭気が充満する中、目覚めた私の視界に飛び込んできたのは真っ白な壁……いや、私は寝ているようだから天井か。
現在状況を確認するため上半身を起こすと、ここは予想通り保健室であり、私は温もりが馴染んだベットの上で寝ていた……らしい。
「おー、やっと起きたか我が保健室の眠り姫様」
私が周りの確認をしていると、一人の女性が私が寝ているベットを囲う純白のカーテンを開けた。
サイドを短く切り、後ろ髪だけが長い茶髪を纏めている……その異色な髪型をした女性は下枠式眼鏡から覗く切れ目で私と目を合わせる。
「鬼灯先生……」
「名字で呼ぶな、先生言うな。薫さんか薫ちゃんって呼びな。薫ネェさんでもいいぞ」
純白の白衣を羽織っている目の前の女性は、握り拳を作りながら私に笑顔を見せた。
……この方は鬼灯 薫。去年定年を迎えた高齢校医に代わり、今年からこの高校の校医となった人であり、稀に存在する生徒と同じ目線で話をする姉的存在だ。
彼女の話を聞くかぎりでは、高校時代は相当荒れていたらしいが、その頃出会った校医に教えられた数々の言葉に感動と憧れを感じ、必死に勉学して校医の道を進んだらしい。
また、名字や『先生』と呼ばれる事を嫌い、生徒達に『薫さん』や『かおるん』等の下の名前で呼ばせる、見た目同様異色の校医である。因みに私は一般的な前者の選択し、後者は落窪だけが使用する呼び方だ。
私が鬼ず……薫さんに関する情報を整理していた所、彼女は私の寝ていたベットの左端に腰を下ろし、膝の上に置いていた私の左腕を手に取った。……たぶん、触診というものだろう。
「……まぁ、脈拍も安定してきたな。倒れた原因は睡眠不足と極度の精神的過労による貧血ってところかね。まったく、私の仕事を増やすなよ? 氷月姫さん」
「……申し訳ございません」
「謝るんなら幼女に謝りな。あの子がここに涙ながらに駆け込んできた時は、ホント驚かされた」
薫さんは用済みになった私の手を元の位置に戻しながら言う。薫さんが言う幼女とは落窪の事で間違いないだろう。
そうか……意識を失った私は落窪に助けられたのか……感謝しなければいけないな。
「それにしても……あの遅刻魔となにがあったんだい?」
「ッ……」
突然、予想外の話題を振られた私は声も出せず、体が勝手に強張る。ベットのシーツも無意識に握られた手によって、大きな皺を作る。
「図星、か。幼女も、なんであんたが倒れたか教えてくれなかったからね」
「……鎌、掛けたのですか」
「まぁね。でも、寝言で遅刻魔の名前を何度も口にしてれば、誰だって分かるぞ?」
薫さんはまるで悪戯を成功させた子供のように、無邪気に笑う。
そのやけに綺麗な笑顔が今の私には……許せなかった。
「ふざけないでくださいッ!! わた…私はッ!! 本当にッ、取り返し、つかなぃ……」
八つ当たり状態で焼け石のように燃え上がったはずの怒りが、嘘のように冷えていく。
そして、その怒りの後に残るのは意味のない虚しさと……溢れんばかりの悲しみ……
「……わたし…もう……つきはなし…さごろ……もどって…すまない……」
自分で言葉を発する度に全身の力が抜け、胸が締めつけられるような痛みを起こす。
しかし、言葉は止まらない……言葉を止めたら、彼が私の中からも居なくなってしまう気がしたから。
「……ご…めん…」
……行かないで
「…すまな…い……」
……行かないで
「……ゆる…し…て…」
……行かないで
「………ちづ…る」
……行かないでッ!!
「……まったく、見てらんないねぇ」
額にコツンとなにかが当たる。殆ど力を抜けていた私の体は、いとも簡単に後ろへと倒れる。
唖然とした私は、薫さんに小突かれたのだと気づくのに、何秒もかかった。
「恋は盲目って、よく言ったもんだよ」
私が見上げた先には、呆れ返っている事を隠そうともしない薫さんの顔があった。
「私はなにも聞いてないけど、なにがあったかぐらいはわ分かる。あんたは人間だ。あの遅刻魔だって人間だ。人間なら間違える事だってある。そのくらいどっかのクソ教師からでも聞いてるだろ?」
『教師』と言った時に、さっきと同じ場所を小突かれる。地味に痛い。
「あんたはその間違えに気づいて、既に反省している。それは確かにいいことだ。私の恩師も『反省しないバカ、猫に噛まれて、死ね』って言ってた」
私を小突きながら語る薫さんの目は、私の悲しみを汲み取ってくれる優しさを有していた。
そして、私を諭してくれる厳しさも持ち合わせていた。
「でもね、あんたは反省してるだけで行動に示してない。ただ悲観して、絶望してるだけ。あんたは自分でその悲観を乗り越える努力をしたか? 絶望を打破する勇気を出したか? 大切なものにまだ手が届くかもしれないのに、一歩踏み出せば手が届くかもしれないのに、あんたはなにも見ないでうずくまって泣いてるだけかい?」
薫さんの言葉は……まるで喉元にナイフを突きつけるように、私に反論を許さなかった。そして、その鋭利な切っ先は正確無比に核心を突いていた。
私は狭衣千鶴の気持ちも考えずに勝手に突き放し、彼が近くに居なくなった途端に激しく反省した。傍から見れば自分勝手で嫌な女だ。
さらに、私は勝手に『彼はもう帰ってこない』と決めつけ、勝手に悲観し、勝手に絶望していた。
まだ、一度も手を伸ばしていない……一歩も前へ踏み出してはいないのに。
「離れたら見つけて追いつけばいい。本当に大切なら必死に手を伸ばせ。追いついたら目を離さず捕まえればいい。本当に大切なら必死に掴んどけ。その必死が正真正銘本物なら、大半はなんとかなる」
そうだ……私はすっかり忘れてた。
バレンタインデーの時、彼を失うのが怖くて、私はすれ違いざまに必死になって彼の袖口を掴んだ。一歩を踏み出して私の想いを彼に伝えた。
……最初に出来たことが、いつの間にか出来なくなっていた。
……私は一体なにをやってるんだ。こんな所で寝てる暇などないではないか。
…………行かなければ、彼の元へ。
私は、さっきまでの脱力感が嘘のように軽くなった体を起こし、早々とベットから降りる。
そして薫さんに体を向け、感謝を込めて一礼をする。
「有難うございました」
「よせやい。私は恩師のまね事をしただけさ」
異様で鋭い雰囲気を見せるこの校医は照れ隠しのためか、無邪気な子供のように笑う。
私は、先程この笑顔に怒りを感じた自分を恥じながら、私は決意を口にする。
「私は……行きます。狭衣千鶴をを必ず捕縛して、私の隣に一生幽閉するために」
「ちょっと度が過ぎてる気もするが……いい顔じゃないか。やっぱり風紀を守護する氷月姫は、気高く凛々しくなきゃね」
私は薫さんに再び一礼をしてから、開かれたカーテンの間から出ようとして……腕を掴まれた。私の腕を掴んだのは他でもない薫さんである。
「しかしまぁ、突っ走る前に、ちょっとだけ知っといた方がいいこともある。……今何時だ?」
「……」
私はそんなに寝ていたのだろうか?
私は自分の左腕に着いている、デジタル表記や電波式時間補正システム等の機能が全くない、シンプルな腕時計を見る。
時刻は……十時二十七分。約二時間ほど倒れていた事になる。
「おっと。勘違いしてるようだね……ちょっと待ちな」
薫さんは私の手を掴んだまま、ベットとは違う黒いカーテンの引かれた窓際まで歩いて行く。無論、手を引かれた私も窓際に近づく。
なんだ、微妙な違和感は。この昼間にしても日差しが少な過ぎる気が……
「あんたが寝てたのは二時間じゃない……」
私の手を離した後、まるでなにかのショーのように両手で一気に黒いカーテンを開ける。
その開け放たれたカーテンの先には…………漆黒の空とその空に鏤められた光の点。
これは…………………夜空!?
「眠り姫様は十四時間……つまり約半日寝てたわけだ」
「なッ!! なんで起こしてくれなかったんですか!?」
「脈拍が不安定なうえに顔面蒼白なおまえを無理矢理起こすのは、校医として選択すべきではない判断だ。文句言うんじゃないよ」
薫さんは『親には連絡して許可取っといたから心配すんな』と言っていた。半日も目覚めなかったのは……事実、昨日は狭衣千鶴の事で一睡もできず、その睡眠不足が祟ったのだろう。
それにしても……今年は七夕を捨てなければならないな。七夕が私の中で大切な事に変わりない。しかし、それより彼を見つけだす事の方が今の私にとって大切なのだ。後回しになどしない、することは許されない。
その強い決意を胸に抱いて動きだそうとする私を、薫さんは再び止めた。
「今度はなんですか?」
「まぁまぁ、一応公務員の私が無賃残業してやったんだ。ちょいと付き合え」
そう笑顔で言った薫さんは、片手を白衣のポケットに入れながら、もう片方の手で天井を指差す。
その笑顔は先程とは少し違い、悪戯をしようとしてる子供のような笑みを浮かべていた。
「知ってるかい? 『灯台もと暗し』ってよく言うけどね、灯台は真上も暗いんだよ」
薫さんに言いくるめられるがまま私が連れてこられたのは、立ち入り禁止とされている学校の屋上だった。
風紀委員長として取り締まるべきか迷ったが、どう見ても厚かましいため自粛した……いや、私は遥か彼方の星空に圧倒された。
「……綺麗」
「そうだろそうだろ♪ ここで夜桜見物を一杯やった時は最高だったぞ」
「桜……新任の教師が赴任早々屋上への不法侵入、及び校内での飲酒ですか?」
「あと、喫煙もな」
夜空の星々から目線をずらすと、悪怯れもなく喫煙を行った事を話す薫さん。その口には平然と煙草がくわえられていた。星光のおかげで、その悪戯好きな笑顔が暗闇の中でもくっきりと見える。
「彼の氷月姫の前で、煙草吸うなんて無礼なまねはしないさ。それに、成人なんだから持ってるだけなら問題ないだろ?」
「教師としては失格だと思いますがね」
「私を教師と一緒にすんな。私は校医だから関係ないんだよ」
校医も一応は教職の一環の筈なのだが、そんな事を言っても薫さんが態度を変化させない事は目に見えてたので敢えて言わない。
「今日はそんな細かいこと言うべきじゃないね。幼女だってそう思ってるはずだよ」
「かおるん、幼女はヒドいよぉ〜」
「落窪……?」
薫さんの声に反応するように、どこからか落窪の声が聞こえた。私は周辺を見回すが、まったくそれらしい姿は見つからない……空耳か?
「月代先輩。上です、上」
今度は男性の声が聞こえたので、その声の言う通りに上を見回すと、先程私達が屋上の出入口となっているペントハウスの上に、大小二つの人影があった。
「落窪と……誰?」
小さな影は背格好と先程の声からして落窪のものだと分かった。しかし、もう片方の影は見たところ男子生徒のようだが、全く見当がつかなかった。
「落窪って、二人ともそうなんだけど……分かってないのは多分俺のことだろうな」
「多分じゃなくて絶対だよ。このチャラチャラしてるのはボクの弟の豪。ちーくんのクラスメイトで友達だってさぁ」
落窪に弟がいてこの学校に在校している事は前々から聞いていた。しかし、狭衣千鶴の友人だったとは予想外だった。
私の記憶には存在しないが、狭衣千鶴の友人なら一度は会った事があるだろう。
「落窪と……落窪弟はなんでこんな所に居る?」
「落窪弟って……」
「なんでって七夕だよ〜た・な・ば・た♪」
落窪は実弟の発言に自分の発言を被せながら、梯子を使用してペントハウスの上から降りてくる。言葉を被せられた落窪弟も、何故か気落ちした顔で飛び降りてきた。よく見れば二人とも制服姿である。
そして、落窪は私をペントハウスの梯子へと押しやり、上へと登る事を勧めてきた。
「な、なんだ落窪?」
「まぁまぁ〜、上に竹があるから、つきりんも見定めてきて♪」
「分かった、分かったから押すなッ」
私は落窪に押されるがまま梯子の下まで行き、仕方なく梯子の手摺りを掴む。
「!?」
……梯子に触れた瞬間、突然私の心身が熱くなる。
この心が焦げつくような熱さは、この体がとろけるような熱さは……
私は衝動に駆られるがまま、急いで梯子を登る。途中で足を踏み外しそうになるが、今の私にそのような些細な事を気にする余裕はない。
そして、私はペントハウスの上へと辿り着く。そこには7メートルはあろう一本の立派な真竹と、大の字になって倒れている一つの人影があった。
その人影は私の存在に気づいたらしく、上半身を立たせてこちらを向く。
そして……笑った。
私の心と体が求めていた笑顔で……
「こんにち……いや、こんばんは、先輩。お久しぶりです」
居た。
私が突き放した彼が。
居なくなってしまった筈の彼が。
私が本当に……本当に愛している彼が。
居た。
「倒れたっていうから心配してましたよ。なんか、薫さんに止められたから会えませんでしたけど……その様子なら大丈夫そうですね。安心しました」
彼の言葉を……正確には彼の声を自身に取り込むように聞きながら、一歩一歩彼に近づいていく。
「それにしても夜空ってこんな綺麗なんですね。こんなゆっくり夜空を見上げたのは初めてですよ」
彼は元々半開きの目を更に細くして、無垢な笑顔を私に向ける。私はその笑顔に力を貰っていた事に今更気づく。無意識に彼の力に引き寄せられる。
そして私は彼……狭衣千鶴の前に立つ。
「じゃ、先輩。この通りちゃんと竹も持ってきましたし、七夕しましょうよ。一緒、に…!?」
私は地面に膝をついて屈み、彼の体に腕を伸ばす。その腕はしっかりと彼の首と腰に回される。
そして、私は狭衣千鶴を捕まえた。
腕を自分に引き寄せて彼の体を密着させる。彼の体温……心音も感じられるぐらい、腕に出せる力をすべて込めて彼を抱き寄せ続ける。
「ス、ストップストップ! 先輩、ちょッ、痛いッスよ!」
「黙れ!! 貴様の異議は却下だッ!!」
「なッ、なぜに!? 俺なんか悪い事した!? ある意味嬉しいけど痛いぃぃ!!」
「少しは静かにしろ!!」
狭衣千鶴を黙らせるために、私は更に抱き締める力を強くする。触れ合っている部分の体温が彼と同じになり、密着を通り越し一体化しているような感覚になる。
狭衣千鶴は体を硬直させながらも、私の言葉通りに沈黙を保っている。そんな彼の事を考え、私は一度溜息を吐いてから力を少し緩める。
「まったく……前から言っているが貴様は阿呆だな。なんで貴様は無理をしたがるのだ? 一種の自己虐待趣味でもあるのか?」
「先輩、それはヒドいでしょ……」
「酷くなどない。こんな三十キロ近くはある竹を一人で担ぎながら何十キロも走る所業は、自虐としか言いようがない」
「えッ……?」
私の言葉を聞いた狭衣千鶴は間の抜けた驚きの声を上げる。きっと、『なんで俺がした事が分かった?』とでも思ったのだろう。
まったく……私も甘く見られたものだ。
「私を誰だと思っている。貴様の疲労状態、靴底の異常な消耗。それと、この周辺の竹林は孟宗竹が殆どで、そのような立派な真竹が存在しているのは最短でも姫月山だ。このような運搬を協力する者はまず居ない。行きはタクシー等の移動手段を使用しただろうが、帰りは徒歩か走行してきた……それくらい推測可能だ」
「アハハ……さすが先輩、恐ろしい観察眼&冴えた名推理」
乾いた笑いで私の推測を公定する狭衣千鶴。こうして触れ合っているだけでも、彼の体が疲労困憊、満身創痍だということが伝わってくる。
……私は無理などしてほしくないというのに。
「何故そこまで行く必要がある? 竹林なら他に幾らでもあるだろう」
こんな立派な竹を形を崩さず運んできたという事は、車や電線の少ない道を選ぶ必要がある。人目につく羞恥もあったはずだ。それでも狭衣千鶴が姫月山から竹を取ってきた理由が、私には分からなかった。
そんな私の問いに、狭衣千鶴は少しの沈黙の後、ゆっくりと口を開く。
「……教えてもらったんです」
「なに?」
「教えてもらったんですよ。先輩の母さんに、いつも竹を取るっていう実家の方を。先輩に秘密でね」
母は以前、狭衣千鶴を私の家に招き入れた時に面識があり、それ以来彼に肩入れしている事実は知っていた。通常は有り難い事なのだが……今回ばかりはそれを恨む。
その事実さえ知っていれば、私が精神不安で倒れる事もなかっ……
「その時携帯の充電が切れて、先輩と連絡取れなくなっちゃったけど、他にも色々いいこと教えてもらいました。先輩の婆ちゃんの家とか……毎年先輩が短冊に書いてた願い事とかも」
「!?」
私は決めたッ!! 絶対に母を恨む!! 何故狭衣千鶴にそんな事を教えたのだッ!?
「いやぁ、まさか先輩の願いが『狭衣千鶴と恋仲になる』なんて……予想してませんでした。しかも三年間も」
「黙れ黙れ黙れ!! 口に出すな!! すぐに忘れろ!!」
「忘れません。てか、こんな嬉しいこと忘れてたまるか」
「えっ……」
さっきまで垂れ下がっていた彼の手が、突然私の背中に回される。けれど、疲労のためか抱き締める力が頼りない。
それでも……私の心は完全に彼の手に捕まっていた。
文句のために口を開く気が失せた私は、心地好い沈黙の中、全身の力を抜き彼に包まれる感覚を体と心に染み込ませる。
「……先輩」
落ち着いた狭衣千鶴の声。
「ん」
彼の声を聞きたい……私は余計な事はせず、最低限の返事のみを返す。
「俺は七夕に思い入れもなければ、逸話に感動する事もありません」
「……」
彼は昨日と変化なく私の憧れに対して否定的な事を言う……しかし、もう一時の感情に流されたりはしない。
「でも、それはしょうがないじゃないですか。俺は先輩じゃないし先輩も俺じゃない」
「……確かにそうだ」
「俺と先輩は違う。でも、だからこそ俺達は相手を好きにも……嫌いにもなる」
「ッ!?」
……私は心の底から後悔する。やはり、私の言葉は狭衣千鶴を傷つけてしまった。その事実に、心地好い熱さに焦がれていた胸が冷たく絞めつけられる。
そんな愚かに苦しむ私を……彼の手が撫でてくれる。
「千…鶴……?」
「先輩に嫌いって言われた時は……正直ショックでした。そん時無意識に暴れたから、今も部屋はグチャクチャになってます」
片付けるのめんどくさいよなぁ。と、ぼやきながらも、狭衣千鶴はその手で私の髪を流れるように撫でてくれる。まるで……私の黒い感情を洗い流すように。
「でも……いくら先輩に嫌いって言われても、やっぱり俺は先輩が好きなんです。凛々しい先輩が好き。厳しい先輩も以外と好き。ときたま優しくされると幸せ過ぎて悶絶しそうになる。そんな先輩を俺は……もっと知りたい」
狭衣千鶴の腕は私の肩に移り、少し体を押され密着していた二人の間に隙間ができる。そして目の前には、狭衣千鶴がいざという時に見せる真剣な顔で……
「だから……まだ先輩が俺に愛想尽かしてなかったら、一緒に七夕してくれませんか? そうすれば先輩の七夕への思い入れとか考えが少しは分かるかも……って思ったんだけど」
……やっぱり、ズルい。
私は突き放したのに……狭衣千鶴は私が尻込みしてる間に、一歩一歩着実に私に近づいていた。今も、こうして自分とは意見の違う私を理解してくれようとしている。
一度離れた私と彼の心の距離はあと一歩。今までその距離を縮めていたのは、私の目の前に居る狭衣千鶴。
まったく……本当に……
「……やっぱり貴様は阿呆だ」
「へっ?」
私は手を伸ばして再び彼を抱き締める。先程のように力任せではなく、愛しいもの包み込むように……
「私は……愛する人以外を抱き締める事などしない」
言葉を発するだけで急激に全身が熱くなる。……けれど、もう止まりなどしない。
……最後の最後ぐらい、私が一歩を踏み出そう。私から踏み出して、彼に近づこう。
「……知ってくれないか? もっと私の事を。そして教えてくれ、貴様……狭衣千鶴の事を」
「………」
狭衣千鶴は私の問いに沈黙したまま……小刻みに震えている。ここで『なぜ震えているのか?』など、不粋な事は言わない。
「一時の感情に……いや、言い訳などしない。……本当にすまなかったな」
「…い、いんです……よかっ、た……本当に、よかった」
私の胸の中で涙する彼は、見た事のない弱々しさを溢れさせていた。きっと、私と同じよう不安に襲われながら、必死に耐えて歩んできたのだろう。
そして私は確信した……
私達に織姫や彦星のような信頼は持てない。
それは今日はっきりと証明された。私達は離ればなれになってはならない。毎日のように触れ合い、話さなければお互いが壊れてしまう。
狭衣千鶴とでは私の憧れは叶わない……でも、私はそれで構わない。
「愛しているぞ……狭衣千鶴」
「……俺も、です」
私は憧れや誓いよりも大切な彼を、出来る限りの優しさを込めて抱き締める。二人だけの繋がりをしっかりと確認するように……
「……かおるん。こんなのをバカップルって言うんだよね」
「バカで結構じゃないかい。あんた等が頭使って恋しようなんて十年早い」
「クソッ! チーズの野郎羨まし過ぎるだろ!!」
私達の斜め下から聞こえる、この場に合わない声が三つ……私とした事が盲点だった。
屋上には私達以外にも薫さんや落窪姉弟も居る……しかし、先程までの私は狭衣千鶴しか眼中になく、三人の事を忘れていた。
それは狭衣千鶴も一緒のようで、涙とはまた違う強い感情で体を震わせていた。
「先輩……」
「分かっている。薫さんの煙草没と落窪の説教は私がする。落窪弟は……貴様の自由にしていい」
「おっしゃぁぁぁあああ!! ボツ死ねェッ!!」
「何で俺だけぇぇえええ!?」
私が解き放った瞬間、弱々しく泣いていたはずの狭衣千鶴は消え去り、怒り狂う戦鬼の如く、下に居る落窪弟へと飛び降りていった。
私はその後ろ姿を見送った後、梯子を降りて薫さんと落窪のもとに向かう。
「いいのか? 遅刻魔にボコられてるのって幼女の弟なんだろ?」
「いいよぉ。だって、本気になったちーくん怖いんだもん」
「確かに、今のあいつは遅刻魔というよりマジの魔物だな」
狭衣千鶴に襲われる落窪弟を見ている二人は、完全傍観者に回っていた。今回の件で二人には色々世話になったが、私は容赦はしない。
「つ、つきりん? 顔は珍しく笑ってるけど……目が全然笑ってないよぉ」
「ハハハ……どうやらあたし等は姫様と魔物の逆鱗に触れたらしいな」
私は二人が逃げ出す前に、両手を伸ばしてしっかりと二人の肩を掴む。今の私は狭衣千鶴と抱き締め合った事で完全復活を遂げている。全力の私から逃げ切れる可能性があるのは、狭衣千鶴ただ一人。
「さて……二人とも」
私は風紀委員長としてではなく、私刑として二人に有効な断罪を宣言する。
「一ヶ月禁酒禁煙と赤点三昧の覚悟……出来てますよね?」
真夜中の学校で二人の甲高い悲鳴と、鈍い殴打音がこだました。
――光り輝く天の川の下、夜風に吹かれて竹が揺れる。その青々とした竹には計四つの短冊がつけられ、笹の葉と共に風に揺られ泳いでいる。
一つは乱雑な字で『煙草の税金が上がりませんように』。
一つは丸みをおびた字で『どうか赤点以上取れますように』。
一つは生々しい血文字で『タスケテ……』。
そして、俗説で一番願いが叶うと言われる竹の天辺に飾られた最後の短冊には、表裏に同じ願いが書かれていた。
片方は誰が見ても文句のつけようがないほど綺麗かつ正確な字で。
片方は手を抜いているのか真面目に書いてるのか分からない字で。
『ずっと一緒に居られますように』
一陣の夜風は吟味するように四つの短冊を踊らせた後、天辺の短冊だけを竹から取る。
取れた短冊は夜風に乗せられ夜空へと舞い上がり、天壌へと飛んで行った。
……二人の願いは届くのだろうか。
天の川に掛けられた橋の上で、一年に一度の再会を喜び合っている、一組の愛し合う者達のもとへ……
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後日談(次の日・月代家)
「母さん……何故狭衣千鶴と連絡した事を私に伝えなかったのですか?」
「だって、千鶴くんに頼まれたんだもん、仕方ないじゃない。それにしてもいい彼氏じゃないの……私があと二十歳若かったら、千鶴くん手込めに……」
「母さん!! そんな事私が許さない!!」
「あらあら、そんなに怒らなくてもいいじゃない。……そういえば、昨日お祖母ちゃんから電話があって凛ちゃんに伝言があったわね」
「お祖母さんから……? なんですか?」
「『いい子捕まえたじゃないかい。一生放すんじゃないよ』だって」
「お祖母さん……」
「あと『ワシがあと四十歳若かったら、手込めにしてやりたかったわ』だって♪」
「お祖母さんッ!!!」
今回の件で、月代家の女三代に好かれた遅刻魔でした。
‐END‐
今まで書いてきた話の中で、一話としては最長になりました(苦笑 焦って書いたので誤字脱字が大量生産されているでしょうが、後々修正させて頂くので、今はご勘弁を……