9. 東の海は遙か遠けき ✩
闇の眷属たる少女が語るには――。
「あたしは東方より運ばれ、献上された、小さな真珠だったの。粒の大きな同胞たちは、カラ・シーン神皇国の宝石商お抱え職人の手によって、首飾りや耳飾りへと加工されていったけど、あたしは寸法が基準に満たなくて、用にならぬと弾かれてしまった。
けれども艶も照りも同胞たちには引けを取らないどころか、それ以上に希少な品質だったから、宝石商はあたしを絹張りの小さな可愛い箱に収めて、女主人様に特別にと献上したのよ。
ええ、もちろん。遙か遠き東の海ムゥラン海で採れた、七色の光を内に秘めた真珠だもの。知ってる、吟遊詩人? カラ・シーン国ではあたしのような珍稀な珠は、幸運を呼ぶお守りとして大切にされるの。女主人様もあたしをご覧になると大層お喜びになって、愛情を持って大切に扱ってくださった。
たくさん真珠はお持ちでいらしたのに、寸法違いで外されたあたしを可哀想だからと名前まで付けて愛でてくださった」
するとこの少女は、魔女などではなく、真珠の化身なのであろうか。そうと思えば、目蓋の端からこぼれ落ちるしずくが深海の白珠にも見えた。
しゃくり上げながらも、彼女の話は続く。
「女主人様は誰よりもお美しくて、雅やかで、愛らしくていらしたの。いつか見目麗しく、豊かで心延えも素晴らしい殿方とご結婚遊ばして、神の定めた別れの日まで旦那様と楽しくも安らかにお暮らしになり、天に召されるべきお方だったのだわ。
それが、イゾルタンとアズシンハンの軍隊がこの都を取り囲んでひと月もした頃、突然ご自分で命を絶たれてしまわれたの。敵の手に落ちて、辱めを受けるようなことにはなりたくないって。
あたしはお止めしたのに。お止めしたのに!」
その時の有り様を思い出したのか、少女は身体を震わせて吟遊詩人にしがみついてきた。よくよく恐ろしくも悲しかったのだろう、とカナヤは少女の細い肩を抱いた。次に安心させようと背中をさすってやったのだが、少女の涙は止まる気配もない。
「そうか。女主人様の絶望は海よりも深く、貞節は雪をいただく山々よりも穢れなく気高くいらしたのだね」
「小さな真珠の叫びは、お耳には届かなかった。
ああァ、あたしがもっと強い魔力を持っていたならば! 女主人様をお救いすることが出来たやもしれないというのに……」
しかし――。カナヤは考えた。
彼女の話が本当ならば……であるが、テペラウ陥落は150年以上前の話だ。女主人の自害のあと、この少女は都市が滅んだのちも、ひとりで女主人の亡骸を守り続けてきたというのであろうか。
砂塵に埋もれようとする廃墟の中、たったひとりで。
さらに偽りがないのならば、彼の腕の中にいる少女の本性は、外つ国よりこの地にやって来た真珠だとか。見知らぬ地で、持ち主にひとかたならぬ愛情をかけられたがゆえに、持ち主の温情に報いようと、ひとの形態を取りてこの世に現われ出でたのか。
(それほどに女主人が愛しいか。恋しいか)
次第にこの小さな真珠の精が哀れに思えてきたのだろう。酒と音楽と美しい女性をこよなく愛するカナヤが、少女を助けてあげたいと思ったのは道理だとお思いなされ。
「健気な侍女殿よ。君はなぜに僕をここに呼んだのだい?」
「それは吟遊詩人の歌が聞こえたからよ。
もう何年も人間の声など、ひとの歌声など聴いたことがなかったわ。このお屋敷が華やかなりしときは、いつも聞こえていたというのに。いまじゃ風の音と、沙漠オオカミの遠吠えが聞こえるだけ。凍えそうな夜は寂しくて、精神が枯れてしまいそう。
だから吟遊詩人の歌を聴かせたら、女主人様はきっとお喜びになると思ったの。いっそ、吟遊詩人がずっとお側にいてくれたなら、恋人になってくれたなら、女主人様はまた昔のように微笑んでくださるに違いないって思ったわ」
と、真面目な顔で話す。少女の目には、つい今し方まで、女主人は生前そのままの姿で写っていたようなのだから、そのひとを喜ばせようという甲斐甲斐しい気持ちも分からないではない。だが、いくらもの好きなカナヤでも、さすがに木乃伊の恋人は勘弁願いたいと思う。
やはりこれは早急に死者を弔い、この少女を長い呪縛から解放してあげねばならない、と合点したのだった。
そこで、
「なあ。可愛らしくて健気な真珠の精さん。君はもう充分務めを果たしたと思うんだ。不幸な女主人様も、きっとそうお思いに違いない」
努めて明るい声でそう言ったのだが、少女は泣き濡れた顔を持ち上げて、そうなのだろうかと首をかしげるのみ。けれどもその仕草がらしからぬ艶を秘めていて、カナヤの鼓動は高鳴った。
「だったら、女主人様が無事に楽園に旅立てるように、亡骸を弔ってあげるのが一番だろうさ。荒れ果てたこのテペラウの都に留まるよりも、楽園でお美しい姿を取り戻し、心安らかにお過ごしになる方がどれほどいいことか。それくらいのこと、君にだって分かるだろう。
心優しい女主人様ならば、慈しみ愛しんだ君が、いつまでも寂しい思いをしているのをお望みになるはずがないよ」
彼女は小さく頷いた。それがまた大層愛らしくあったので、カナヤの心には少女に対するいとおしさがいや増し、もうなんとしても手放したくない気持ちになったのだった。
「そうそう。楽園にお見送りすることこそが、君に出来る最後のおつとめだよ。僕も手伝うから。静かに眠れる場所に墓を作ろう。弔いの歌は、心を込めて僕が歌おう。冥府の地で穏やかにお過ごしになれるよう、ふたりで神様にお願いしよう」
「けれど、その後は? 女主人様が天の楽園に旅立ってしまったら、あたしはどうすればいいの?」
途方に暮れる精霊に、カナヤは悪戯っぽく口の端を歪め、ひとつの提案をしたのだった。
「そうだなぁ。当てが無いのなら、いっそ僕と一緒に旅をするのはいかがなものかな」
「……まあぁ、吟遊詩人と!?」
少女は目を丸くし眉をつり上げたのだが、まんざらでもない様子。彼の胴衣をきつく掴んだ。
「僕と一緒にアルイーンの大地を三弦琵琶と歌を共に、今日はこちら、明日はあちらへ。気ままに旅をして廻るのも楽しいものだよ」
「あらあら。でもあなたと一緒で大丈夫なのかしら。見たところ、腕っぷしは強くなさそうだし、人の良さそうなところはいいけれど、そういうひとって騙されやすいっていうでしょう」
「おお。なんと口の悪い精霊殿だ。君を助けようという親切な男を間抜け扱いするのかい」
「じぶんで親切なんていう男は、不親切で気が利かなくて横暴だというわ。吟遊詩人もそのひとりなんでしょ」
口ぶりは憎らしいが、小さな真珠の精の瞳は楽しそうに微笑んでいた。
「それはないよ! 僕の真珠」
そう言ってカナヤが腕の中の少女に笑いかけたときだった。部屋の入り口の方から乱暴な音が聞こえて来た。
***
回廊と部屋を仕切る扉の向こうから、ドシンドシンとなにかがぶつかるような重たい音が聞こえてくる。ぶつかるというより、誰かが厚い扉に体当たりをして、無理矢理室内へ押し入ろうとしている様子だ。
「あれは、なに? なんの音!?」
吟遊詩人には、侵入者の正体なぞ見当も付かなかった。彼が屋敷の入り口からこの部屋に案内されるまで、邸内では誰にも会うことはなかったし、むしろなんの気配も感じられないことに不安を抱いていたくらいだったから。
――いや。それ以前に、市街地を案内されている頃から人影に出会った記憶も無い。
扉を揺るがす音は彼の心臓を縮み上がらせ、同時にビリビリと空気を震わせた。奥津城の頑丈な扉とはいえ、長の年月を沙塵にさらされ劣化が進んでいる。何時破られるか分からぬ状態に、顔色を青くしたふたりは躰を寄せ合った。
「どうしましょう。食人鬼がやって来たのよ。さっき吟遊詩人が悲鳴を上げたでしょう。人間の声を聴きつけて、沙漠から浅ましい食人鬼がやって来たんだわ。あいつらはいつも腹を空かせているから、人間を食べたくて仕方ないの。逃げて!」
そうしている間も扉は繰り返される衝撃でミシミシと軋み、蝶番の留め具は頼りなく外れかかっている。漂ってくる鼻を摘まみたくなる悪臭と、耳障りな低いうなり声は、間違いなく食人鬼のもの。
「そんな。廃都に食人鬼が住み着いて、迷い込んだ人間を喰らうという話を聞いたことはあるけれど、ああ、まさかテペラウにも悪鬼が住み着いていたとは知らなんだ」
「住み着いているんじゃないわ。入り込んできたんだってば! 食人鬼たちは、人間の恐怖に怯える声を敏感に聞き取るのよ。何百ディシル先の音だって聞き分けるというじゃない。知らないの!?」
「知っているよ! だけど……」
そんな知識より、なぜ食人鬼やって来たのかと問おうとして、ハタと気がついた。女主人はすでに故人であり、少女とて人間ではない。精霊なのだ。ふたりは食人鬼の獲物にはなり得ない。
彼女の云うとおり、腹を空かせ沙漠を彷徨っていた食人鬼が、無人のはずの廃都から聞こえてくる人間の声に惹かれたのだとしたら。奴の狙いは、彼となるではないか。
「に……逃げなきゃ……喰われちまう」
「だから、さっきからそう言っているわ」
「君も。君も一緒に、さあ」
カナヤが少女の手を握り引いたのだが、動こうとはしない。再度強く手を引き、促すのだが、少女は頑として動こうとはしなかった。
「ダメよ。あたしはまだここを離れるわけには行かない。吟遊詩人だけ逃げて!」
「どうして!? 一緒に旅をしようって言っただろう」
「でも、まだ女主人様を弔っていないのだもの。あたしはここを離れられないわ」
律儀で忠実な侍女は、女主人の亡骸を置いて逃げ出すことなど、絶対に出来るものでは無いとゴネ始めた。無理矢理動かそうとしても、尻込みするばかり。
どうにか少女を説得しこの場を切れ抜けねばなるまいと、必死で思案を巡らすのだが、恐怖で鈍った頭は良き案を思いついてはくれない。ならば、せめて食人鬼の動きを鈍らせることでも出来たなら……と思いつき、
「おお、そうだ。僕の三弦はどこにある。あれは我が師カルよりいただいた大切なもの。手放したことなどなかったのに」
大慌てで見渡すと三弦琵琶は下段の間の床に転がっていた。少女の焚いた媚薬の作用に酔って楽器を取り落としていたのだが、その辺りのカナヤの記憶は曖昧になっている。
吟遊詩人にとって商売道具であり、なにより大切な楽器だったから失うわけにはいかない。食人鬼よりも、三弦琵琶を失う方が彼にとっては恐ろしいことであったし、たったひとつ思いついた手立てを成すには三弦はどうしても必要なのであった。
カナヤは少女を奥の間に待たせ、最初に通され歌を披露した下段の部屋へと、三弦琵琶を取りに走った。彼が三弦を拾い上げるのと、扉が歪な音を立てて粉々に壊れるのは同時だった。
沙塵と埃が舞い上がり、カナヤの視界を奪った。眼の中に沙が入り込まぬようにと、咄嗟に手で庇ったのだが、次に視線を上げたときには目の前に黒い影が立っていた。
ギラギラと赤い目を光らせた食人鬼。
カナヤを捕らえようと腕を伸ばす。
少女の口から絹を裂くような声が上がった。
次回、最終回!
カナヤと少女は食人鬼から逃げることは出来るのでしょうか!?