7. 揺れる帳は波となり ✩
「今宵はここまでといたしましょう。そろそろ夜も明けますれば。下手糞な唄うたい、流浪の吟遊詩人は、御前から退散致さねばなりますまい。
家人が起き出してきましたら、女主人様とてお困りのこともございましょう」
なにも思わぬふりをして、カナヤはこの場を辞そうと腰を浮かしかけた。すると、
「待って。駄目よ、吟遊詩人。
あなたは、まだまだあたしの女主人様のために、歌わなければいけないわ。楽しい冒険の物語や、美しい恋のお話も語ってくれるって言ったじゃない。ひどいわ、さっき言ったことは、全部ウソなのね。
続きを聞かせて。でなければ、女主人様はお淋しさに心を閉ざしてしまわれる。
お願いよ、お願い。帰るなんて言わないで。つれないことを言わないで。
あたしの大切な女主人様、あんなに喜んでおいでのお姿を拝見するのは久しぶりのこと。
だから、だから、どうかお願いよ。帰ってしまわないで!」
血相を変えた少女がカナヤの側へと駆け寄り、涙ながらに懇願するのだった。
「しかし、それは美しく高貴な女主人様の為にはなりますまい。夜が明けぬうち、まだ闇が秘密を隠すことが可能なうちに。夜陰に乗じて邸内に招かれた者は、朝陽が目覚めぬうちに姿を消さねばなりません。
それが習いということなど、立派で格式高いお屋敷にお勤めする者ならば承知のはず」
――と、ここからは少女の耳に届くだけの小声で、
「おいおい、君。なにを言い出すんだよ。僕のようなやましい旅芸人が、夜通し女君の部屋にいたなんて、噂にでもなったらどうするんだい?
よく言うだろう、他人の眼や口に戸はたてられないって。思いもよらない悪意から無遠慮な噂が立とうものなら、女主人様の名誉に傷がついてしまう。それは君が最も懸念するところだろうに。
ご自慢の、テペラウ一番の女主人さまだ」
貴人に対するかしこまった物言いではなく、街を護る外壁の上で最初に出会ったときのように、肩ひじ張らぬ砕けた調子で諭すように囁く。何を血迷ったか知らぬが、大切な女主人の名誉を問えば、少女も自分の間違いに気づくだろうと思いきや――、
「でも、まだ夜は明けないわ。まだ太陽が顔を出すには間があるもの。もう少しだけ。いま少しだけ、楽しい歌を聞かせてちょうだい。
ねぇ、ねえ。あと一曲でもいいわ。女主人さまのために唄を歌って」
顔を上げた少女は、涙をいっぱい溜めた瞳でさらに懇願する。
しかし、当の主人がそれを望んでいるのかどうか、カナヤは疑問に思っていた。帳の向こう側からは、なんの反応も無いのだから。
そんな彼の心持ちが表情にも表れていたのだろうか、なお一層に少女は取りすがり、気を引こうとしてきた。
「――ならば、吟遊詩人。
あなたは特別な人。あの帳の向こう側、女主人様のすぐそばで唄を歌ってみないこと?
ああ、そうね。女主人様もその方がお喜びになる。だって、吟遊詩人の唄を、もっとそば近くで聴けるのだもの。
そうだ、そうに違いない。絶対お喜びになるわ!」
そう言うが早いか少女はカナヤの腕を取り、女主人のいる奥の間へと引っ張って行こうとする。
「待って……待っておくれ。いきなり何を言い出すんだ!
僕が奥の間に入れる訳はないだろう。それじゃあ、まるで逢い引きの手引きをしているようなものだ!」
「でも――吟遊詩人だって、女主人様のお顔を見てみたいのでしょう」
そこで「否」と言えないのが、好奇心旺盛の若い男の悲しさだ。
「吟遊詩人さえいいのなら、ずっとおそばにいて差し上げて。女主人さまの傍らで、お慰めして差し上げて。あなたならどうして差し上げればいいのか、よく御存じでしょう?」
涙に濡れた少女の瞳が、妖しい光を放ちだす。それに気づいてもカナヤは目を逸らすことが出来ずにいた。
「 手練手管の魔術師さえ 開けることは叶わぬと
嘆き 身を捩らせたのは
かたくなに閉ざされた 乙女の心
恋人の微笑みひとつで 錠は開く
――のでしょう?」
内心を見透かされた様でカナヤは答えに窮してしまった。確かに内気で奥手な奥津城の秘宝にお目にかかりたい、なんとか慰めてみたいものという心持ちではあったが、彼の頭の片隅に残る不信感が逸る心に疑問を投げかける。
なぜに少女は引き止めんとするのか?
少女が強引になれば、小心なカナヤは腰が引ける。
「そうとも言うけど、僕は君の女主人様の恋人ではないし、それにその……女君がお許しには……――」
「いいえ、吟遊詩人。あなたは、あたしの大切な女主人様の恋人なのよ!」
少女の言葉にたじろぎ、身を引こうとしても、掴まれた腕は離されない。鼻先に近づいた少女の瞳の中では深淵たる闇が渦巻く。
「そうでしょ。あなたは女主人様の、恋人……」
「ようやく愛しいひとを探し当てた、運命の恋人……」
「大切な恋人…………」
小鳥のさえずりに似た甘い呪文。
滴る水蜜桃の果汁より心誘う。
否定する前に、カナヤの身体の奥から熱いものが込み上げてきた。どくり、どくり、とその熱は音を立てて湧き上がり彼を喰い尽くそうとする。
額に冷たい汗がにじむ。身体が震え、息が苦しい……。
目の前に薄紅色の滑らかな闇が静かに拡がり、ふわりと優しく彼を包み込む。途端に溢れ返る切ない欲望。香炉から立ち昇る香りに包まれて、警戒心もとろけていく。
これも媚薬の効能なのか。
不安に駆られるカナヤの目の前で、部屋を隔てていた帳が、ゆらりと波のように揺れ動き、一枚また一枚と潮のように引いていく。
最後の一枚が消え去れば、そこには長椅子にもたれる女主人の姿――。面紗を冠った美々しい衣装に埋もれそうな小さな姿が現れる。
カナヤの榛色の瞳は、大きく見開かれた。佳人の姿を見た途端、自分の意志とは反対に首は縦に振られていた。強い衝動は欲情に加担する。
抗う術は、もはや失われてしまったか。
少女に促されるまま立ち上がれば、操られるように足は勝手に前へと進み……。
吟遊詩人の手から、三弦琵琶が滑り落ちる。
カイザリ女神が眉をひそめても、今の彼には響かない。
「さあ。女主人様の元へ……」
無言で肯いたカナヤは、奥の間へとふらつく足を進めて行った。