第二十二章 そんな現実、認めたくないから
「信じられないな……やっぱり話に聞いていた以上ですよ」
モスクワの地に構えられた要塞ガーディアン。そのすぐそばに設営された野営用のテントが並ぶ陣営の中で、ロイドは煎れたてのコーヒーを片手に吹雪く空を見つめた。
「彼……鏡さんがですか?」
「ええ、さすがの僕も、一万人も総動員させればすぐに捕まえられると思っていましたから」
モスクワの空から降り注ぐ雪を眺めながら、ロイドは嬉しそうに言葉を漏らす。
その笑顔の意図がわからず、隣で武器のメンテナンスを行っていた油機が首を傾げた。
「人一人を仕留めるのがこんなにも難しいなんて、どっちがハンティングしているのかわからなくなりますね。こっちは一万人、それぞれが特殊なスキルをもって挑んでいるというのに、いつも惜しいところで逃げられてしまう。彼の持つスキル……制限解除はやはり恐ろしいですね」
「鏡さんが本当に恐ろしいと思える部分は、制限解除じゃないと思います」
「ええわかっていますよ。本来のスキル通り以上の……アースクリアが与えたスキルの性能を捻じ曲げ、今も強くなり続けている彼は……化け物です。現に制限解除は本来丸一日、その反動で動けなくなるはずなのに、今ではほんの数時間の休憩を挟んだだけで動きだしている」
「それも違います」
「なるほど? じゃあ何なんだい?」
「あの人が本当に恐ろしいのは、他人の心を大きく揺さぶってくる点だと考えています」
黙々と戦地へと赴いたガーディアンの人間から預かった武器のメンテナンスを行いながら、油機はそう語る。ハッキリと告げられたその言葉は称賛といったようなものではなく、ただの事実を口にしたような雰囲気を漂わせており、ロイドは「ほお」と、興味を示した。
あれから、四日間が経過した。現在ガーディアンの外には、到達者たちがこの陣営を拠点として、鏡一人の捜索を行っている。
何故、一万人もいながら未だ鏡を仕留めきれずにいたのか、理由は明白だった。仮にここが逃げ場のない密室空間であれば、一万人の数を前に鏡も成すすべなく殺されていただろう。
しかし、街の中では逃げ道が多く、一万人の数全てが鏡と戦えるわけでもなく、どれだけスキルや魔法を駆使して鏡が戦いにくい状況を作っても、寸でのところで逃げられてしまっていたからだ。
制限解除を使った鏡とは、どれだけの人数が居ても逃げられてしまうほどの実力差があった。
「確かに、僕も一人で立ち向かっていれば……どうなっていたかわかりませんね」
鏡が逃げなければいけない状況を作りだせるのは、身体能力の低下、身動き封じる罠、張り巡らされた呪術を駆使した到達者たちの連携の。
いくらダメージを与えられても回復、もしくは控えている者たちと交代を繰り返し、鏡をじわじわとだが追い詰められる。
「君は揺さぶられなかったのですか?」
「……揺さぶられました。とても、強く……大きく、でも」
油機は言葉途中で押し黙り、それ以上の恐怖を見てしまったことを思い出して肩を震わせた。
「思い出さない方がいい……あれは、人がどうにかできるものじゃありません。あれと等しい怪物か、それに近しい何かではないときっとどうしようもありません。来栖さんも言ってましたが、やはり……鏡さんはまだ届いていない」
「メリーちゃんは、あれを知らないから鏡さんを信じられるんです。あの人ならなんとかできるって信じ込んじゃってるんです。その絶望を知らないから」
「メリーちゃん……君の友人でしたか? 彼女も凄いですよね、ただの一般人でしかないのにこんなところにまで足を踏み入れて。でも、彼女に罪はない。知らないのであれば、抗いたいと思うのは極自然なことですよ。僕だって、知らないのであれば今の鏡さんと同じように抗っていたでしょう」
「メリーちゃんは……その、無事なんですか?」
「気になるならご自分の目で確認しにいけばいいのではないですか? それとも……彼女を裏切ってしまったのを気負って会いにいけないのですか?」
図星なのか、油機は表情を歪ませる。
「本当に彼に揺さぶられたようですね。君が友人を裏切ったことに罪悪感を抱いているということは、つまりそういうことですよ。……割り切れないのは、辛いでしょうね」
希望を生半可に抱いてしまったが故に、自分の行動が正しいのか迷っている状況。ほんの数日前であれば、例えどんな非道であったとしても、それが未来に繋がるのだと言い聞かせて冷静かつ冷酷に踏ん切りをつけられていただろう。
だが、今掴めるかもしれない希望を前にして、それでも駄目だと自分に言い聞かせる辛さはすさまじかった。他人事とはいえ、ロイドが油機に同情してしまうほどに。
「鏡さんが……ここから奇跡を起こす可能性はあるのでしょうか? もう四日間も経っているのに、未だ殺されても捕まえられてもいないくらいですし……」
「可能性は極端に低いです。彼がまだ殺されていないのは、彼が闇雲に突っ込まず、生に必死にしがみついているからです。いくら発見して身体に麻酔薬を打ち込み、魔法で麻痺させても、逃げるための余力は残しているのか強引に力で振りほどいて逃げてしまう」
「なら……もしかしたら! 鏡さんは今も強くなり続けているんですよね?」
「いえ……時間の問題です」
「どうしてですか?」
「我々がその内勝てると思ってしまっているのが良い証拠でしょう? 誰も戦意を喪失させることなく、ギリギリなんとかできると思っている。どれだけ強くなったとしても、彼が脅威なのは制限解除だけ。その制限解除でさえ、一万人の前には無力なのですから……いくら効果時間が伸びて、反動からの復帰が早くなろうと無駄です」
ロイドの言葉に油機は表情を暗くする。油機も、まだどこかで期待していたからだ。あの規格外の男が、全ての常識を打ち破り、誰もが夢だろと笑ってしまうとんでもないどんでん返しを見せてくれるのではないかと期待していた。
でも、ロイドの言葉をすんなりと受け入れてしまうくらいにはもう諦めていた。何故なら、既に5日間という時間が経過していたから。
「なにより……どんな人間であっても、飲まず食わずではいずれ体力も尽きる。この極寒のモスクワの地での食糧確保は至難です。どんな化け物のような力を持っていたとしても、所詮は……人。一人では無力なのですよ」
「ここまで戦えるのに……来栖は鏡さんの力をまだ認めないんですね」
「あの人が認める条件はわかりませんが、恐らく……今のままでは無理でしょうね。少なくとも、あれに勝てると僕たちが思わない限り」
その時、モスクワの空に大きな爆発音が鳴り響く。だが拠点にいた誰もそれに驚くことなく、冷静に顔を見合わせて頷き合うと、その爆発が聞こえた地点へと向かって走っていった。
その音が、鏡との開戦の合図であることを、最早全員が理解していたからである。
「どうして……あの人はもっと遠くに逃げ出さないんでしょうか?」
「それはわかりません。確かに、この地に留まらずに逃げ出せば、もっと長い間生き延びられたでしょうね。彼には朧丸という姿を消す力を持った小動物もついていますからね」
そればかりは謎と、ロイドも首を傾げて困った顔を見せる。鏡の行動で、わからないことがいくつかあった。一つは、開戦する時は必ず、鏡の方から姿を現すということ。
「もしかしたら、まだ仲間は生きているのだと思っていて、取り戻そうとしているのかもしれませんね……助かった命よりも、仲間の方が大事ってところでしょうか?」
「仲間の方が大事……それなら、もっと必死になってもいいと思うんです。どうしてあの人は、誰も殺そうとしないんでしょうか?」
同じことを考えていたのか、ロイドは気難しい表情を浮かべる。
「常に一万人が戦える状況じゃないはずです。何度も逃げ隠れられてるということは、それだけ奇襲のチャンスもあったということです。一人ずつ殺して戦力を削っていけば……いずれこちらが苦しい状況になると思いませんか?」
「そこは私も疑問に思っていましたが……わかりません。ですが、確かに死傷者は出ていませんが、甚大な被害があるのは間違いありません。皆、再起不能になるくらいには打ちのめされています。まあ……回復班がいるおかげで鏡さんは毎回何も出来ずに終わっていると言っても過言じゃありませんが」
その行動理由がわからず、ロイドはそのまま困ったように首を傾げると、開戦の合図があった場所へと赴き歩き進む。その背中を、陣営の武器のメンテナンス要員として加わっていた油機は静かに見届けた。




