風見猫
にゃー。
なにか呼びかけるように一鳴きした。
「またあの猫か。」そう呟きながらいつものようにシャッターを下ろす。
今野義昭は駅前の商店街で今野文具店という文具屋を営んでいる。10年前に35歳でリストラされたことがきっかけに、夫婦で始めた店だ。元々今野が文具メーカーに勤めていたこともあり、最近では経営も安定してきている。
あの猫というのは少し前からこの商店街をうろうろしては飲食店の店主や客から餌をもらっている黒猫だ。真っ黒で綺麗な毛並みと何もかも見透かしているような美しい青い目に商店街の人々は魅せられている。うちの商店街にはこの子がいからゆるキャラなんていらないわねぇ、なんて会話が出るほどベタ惚れなのである。
その猫が数日前から今野の店を訪れるようになった。毎日今野が店を閉めるその時に必ず、住まいとして使っている2階の窓の縁に立ち、今野に向かって鳴くのだ。
「一体なんだってんだ?」今野は呟きながら考えていた。突然同じ時間に現れるようになった黒猫。文具店になんの用があるというのだろう。インクの匂いにでもハマったのだろうか。そんな滑稽なことまで考えてみるが猫の気持ちなどわかるわけがないとすぐ考えるのを止めた。明日も仕事があるのだ、早く寝よう。
「おやすみ。」そう妻にささやき、眠りについた。
「おはよう、今野さん。」
明くる朝、今野がせわしなく店を開けていると声をかけられた。よく店を利用してくれる近くの高校の女子高生、高木美香だった。
「今日は忙しそうだね。どうしたの?」
相変わらず草原を突き抜ける風のように涼しげな声をしている。
「いやいや、忙しいわけじゃないんだ。ただ朝シャワーを浴びてたら時間がなくなってしまってね。」
笑いながらそう答えると美香はへぇといってくすくすと笑った。そして、今野に向き直ると真剣な顔をしてこう言った。
「今野さん、朝シャンはハゲるらしいよ?」
女子高生に心配されるほど不健康な頭皮はしてないと思ったが、そう言ってはこのクソガキを喜ばせるだけどと出来るだけ平静を保って、
「そんなの迷信だろ。それにいつもは夜にしか入らないよ。」と言ったが、どうやら今野の心はクソガキに見透かされていたらしい。美香はこれは面白いものを見たというようににやにやしてた。
「最近蒸し暑いですからね、私も朝シャンしてくればよかった。」
「美香ちゃん、その歳でハゲるのは悲しいよ?」
女子高生に対して失礼だと言うように美香は頬を膨らませて睨んだ。今野はその視線から逃げるように目を下に向けるとあの黒猫がいた。黒猫もこちらを睨んでいるようだった。
「あ、クロちゃんだ。どうしたんだい、今野さんがうざいのかな?」
美香が今野を非難しながら戯れると黒猫は美香の方を向き、
「にゃー、にゃー、にゃー。」となにか訴えるかのように3度ほど鳴いた。
「猫にすがっても私は痛くもかゆくもないよ」と今野はからかった。
しかし、先ほどまでとは違い美香からの返事はすぐには返ってこない。
唐突に美香がこう切り出した。
「今野さん奥さんは元気ですか?」
「あぁ、いつもどうりだよ。」
そうですか、というと美香はそそくさと行ってしまった。残された黒猫も今野をいちべつすると去っていった。それを見送る今野の表情は氷河のように冷たく固まっていた。
それから3日後の朝、高木美香は今野文具店の前に立っていた。店のシャッターは降りたままで黄色と黒のテープが貼ってある。
昨晩のことである。今野義昭は逮捕された。罪状は殺人及び死体遺棄だった。1週間をほど前に妻と口論になり怒りを抑えきれなくなった今野は妻の首を絞め殺害したということだったらしい。今野は逮捕後、
「妻の浮気が許せなかった。殺してしまえば永遠に自分のものになると思った」
と語ったという。
妻は死体はかなり腐敗が進んでいたらしい。近所から腐臭がするという話が出てもおかしくなかったが妻の死体が置かれていた部屋は厳重に密閉されていたということだった。
3日前の朝、今野と話していた美香のところの現れた黒猫は口にリングを咥えていた。手に取らずともそれがなんのリングなのか美香には分かった。今野の妻が文具店でいつもつけていた婚約指輪だった。
今野の妻が店に出ていないこと、いつもつけていた婚約指輪を黒猫が咥えていること。美香は不安に思った。なにか悪いことが起きたのではないか。
今野に妻の質問を投げかけた時の今野の冷たい表情から美香の不信感は大きくなった。確証はないが何かあるかもしれないそう思い美香は警察に相談したのだった。
今野が語っていることが事実なのか美香にはわからない。ただ、あの時なぜ一抹の不安を覚えたのだろうか。直前まで楽しく今野と話していたのに。わからない。
そう思っていると後ろに気配を感じた。振り返るとあの黒猫がいた。
「お前が教えてくれたのかい?」
美香がそう問いかけるとにゃー。と短く鳴いて黒猫は去っていた。いつもより澄んだ蒼い目のように見えた。




