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夏国大使暁亮が、秋国王宮白焼宮内に与えられた執務室へと戻った時、時は既に日付をまたがっていた。
夏国将軍源基と秋国第二王子陽芳、その副官玲威を取り押さえるため、秋国王陽斎や正妃侑喜を巻き込んでひと芝居打つよう仕込んだ後、暁亮は秋国水軍将軍周藍と共に、夏国第二王子明韻と彼の引き連れる夏国軍を迎えに国境付近まで馬を走らせた。一軍を先導して案内しつつ秋国王都椿までとって返し、建国祭前日の夜に到着を間に合わせ、その後は王宮内で剣戟をこなしながら、逃亡した陽芳と玲威を追った。
結果として、陽芳は暁亮が捕らえて陽梨に引き渡した。玲威は周藍が追ったが、奥まった一角で十人程の惨殺死体と共に躯となっていた。
玲威を殺した者はなおも見つかってはいない。だがしかし、取りあえず、秋国の危機はひと段落ついたのだ。
(さすがに疲れたかな)
扉を開けて執務室の中に入ると、侍従の端新がまだ起きて控えていた。
「お疲れ様でした。桂淋様」
暁亮の姿にさっと立ち上がる端新は、未だ幼さを残す十三歳の少年である。短く柔らかい金褐色の髪に、鹿のような黒いつぶらな瞳をしている。くるくるの巻き毛で栗鼠に似た瞳の夏国第三王子明章とは一つ違いの年上となるが、押しが弱いためか、ともすると明章よりも頼りなく年下に見える。
「先に休んでいて良いと言ったのに。君こそ、もう休まなければ」
気遣う端新に、暁亮は優しく声をかけた。端新はふるふると首を振る。
「…気になって眠れなくて。無事範依様は御到着なされましたか」
今日の捕り物はあくまでも軍事警備演習。訓練だ。表向き、夏国将軍や秋国第二王子の陽王への反乱はない。暁亮は、側仕えの端新には、建国祭に合わせて秋国を訪問する明韻を迎えに行く、としか伝えていなかった。
暁亮はにこ、と微笑し、頷く。端新は自国王子の無事の到着に、ほっと息をつく。
「出発が遅れたとのことで、心配していましたが…、いえ、私如きが心配したところで、どうということもないのですが。無事間に合ったのなら、何よりです」
「範依さまは早速明香さまにお会いして、陽王への挨拶もそこそこに引っ込んでしまわれました。到着が遅くもう休まれましたが、明日は御挨拶する機会もあるでしょう。私も改めて伺うつもりです。端新も一緒に来てください」
「はい、是非。しかし範依様らしいですね。相変わらず、明香様をとても可愛がられているのですね」
ふふっ、と端新が笑みをこぼす。
夏国王子三人の、妹明香への溺愛っぷりは、夏国王宮清水宮に出入りする者には有名である。
「さて、今日はこの執務室も店じまいです。…端新、最後に、子規将軍のところまでお使いをして頂けませんか? 少し話したいことがあるので、私の自室まで来るようにと言伝て欲しいのです」
「今からですか?」
わずかに驚いた後、心配そうに眉を顰める端新に、暁亮はにこやかながらも少々後ろめたそうに弁解する。
「ほんの少しだけですよ。そんなに遅くまで話し込むつもりはありません。明日の建国祭では、子規将軍もお務めがあるでしょうし」
「あの…、子規将軍が良い方だというのは、わかりますが、…少し仲良くしすぎなのでは?」
「仲良くしすぎ? そうでしょうか」
「そうですよ。こんな夜更けに、男の人を自室へ呼ぶなんて、…」
「…何か誤解されているようですが、私はこういう者ですよ?」
暁亮は両手を広げて自分の恰好を示す。
「貴婦人淑女の如く着飾っている訳でもありませんし。袍を穿いている訳でも、簪や紅を挿している訳でもない」
「でも、でも…!! 桂淋さまは、あの、お美しすぎるので。何か間違いがあってもいけません!!」
「杞憂です。心配してくださったのは、ありがとう」
暁亮は端新に部屋を出るように促す。
「子規どのは間違いを起こすような方ではありません。寧ろ、私がいつも楽しくお話させていただくばかりで、申し訳ないくらいです。さあ、いつまでも話し込んでいては、それこそ休むのが遅くなってしまいます。君が案じてくれているのだし、夜更かしはほんの少しだけにしますから、お使いをお願いしますね」
「…はい」
拗ねた子犬のような目つきで、端新は渋々頷く。暁亮はつい端新の頭をよしよしと撫でた。
短く柔らかい金褐色の髪が暁亮の手にくしゃりと触れる。
端新と暁亮は執務室の戸締りをし、部屋を出た。
月が煌々と夜闇を照らす姿が、白焼宮回廊に切り取られた窓から覗き見える。
端新が周藍を呼びに去った後、暁亮は執務室からそう離れていない自室の扉を開け、廊下の明かりの一つから入口脇の卓上に置いた小さな角灯に火を移し、また壁際に設けられた照明にも火を入れた。
広い卓と長椅子が据えられた居間が、ぼうと照らされる。
角灯を持ち、紺地に深緑の蔓草模様が縁を囲む絨毯の上を、瀟洒な黒塗りの卓と長椅子をよそに奥の部屋へと向かい、寝室の扉を開けたところで、暁亮はふと首元に指を走らせた。
源基に絞められた時にできたあざは、今どうなっているだろうか。あざを隠すためにここ最近ずっと薄い絹布を巻いていたが、さすがに煩わしくなり、取る。
するり、と巻いていた紺色の絹布が床に落ちる。
暁亮は寝室に入り、そばの小卓へ角灯を置いた。
「お帰りなさいませ、我が麗しの君」
(…やはり)
闇に沈んだ寝室の中、角灯の明かりで寝台に腰掛ける男の姿が浮かび上がる。長身で細身、美しいが退廃的でどこか禍々しい男。
麗巴だった。
「こんなに遅くまで、お務め御苦労様です。ですが、あまり精魂込めて励まれませんように。せっかくの花の顔に隈ができてしまいますよ」
「何をしに来た」
「何を? 無論、我が麗しの君に御挨拶に」
麗巴は気安く親しみのこもった微笑を暁亮に向ける。だがそれは、暁亮には獲物を前に舌を出し入れする蛇のように不気味に見える。ぞくりと背に怖気が走り、暁亮は心中で警戒を強めた。
「お久しぶりですね。夏国大使にあらせられましては、常時御活躍のようで何より。陽芳王子は大人しく牢へと入りましたか」
形ばかり疑問形だが、麗巴の発言には疑念はない。
「まるで見て来たようですね」
「麗しの君のことは、いつでも、どんな些細なことでも気になってしまいますので。
しかし壮巴もひどいことをする。長年の主人の右腕を斬りつけるとは、ねえ。たとえ利き腕でなくとも、動きに支障が出れば何かと不便でしょうに」
麗巴は流暢に話しだしたが、暁亮は頷きもせず、冷静に眼前の麗人を観察する。
この男と初めて遭遇したのは、暁亮が秋国を訪れて間もない、昨年の秋の終わりだった。
夏国王明理の代理として秋国王陽斎への使者をつとめた後、麗巴は宴の席で笛を奏でる楽人の一人として白焼宮に招かれていた。
宴ののち、麗巴は暁亮の前に現れ、その耳元を指さして言ったのだ。
『聖金三日月紅星。その貴方の耳飾り、その昔、春帝国皇宮で見られた名のあるもののようですね』
「あの耳飾りは外してしまわれたのですか? ひどく大切にされていたのに」
「…」
それは、暁亮の死した母が身に着けていた、形見だった。
暁亮は母を覚えていない。赤子の時、暁亮を抱いた若い女性が行倒れているのを、今の夏国軍師華鳴が見つけた。その女性は背中を太刀で斬られており、暁亮を華鳴に託して死んだ。
赤子の自分の衣装に縫い取られた、おそらくは誕生日を示す日付と、女性が身に着けていた片方だけの耳飾り。華鳴に託した時に告げられた名前。
その程度しか、暁亮は知らない。
残された耳飾り、三日月のような形の金細工で、紅い星の如く紅玉をあしらった耳飾りを、暁亮は長くお守りがわりに身に着けていた。
けれど、麗巴にそう告げられてから、暁亮はその耳飾りを着けることをやめた。
もしかしたらそれは、自分の身元を示す大きな手掛かりになる品かもしれない。だがその一方で、ひどく不吉な運命をもたらすような気がしたのだ。
「まさか捨ててなどいないでしょうね。我が麗しの君にとてもよく似合っていたのに」
芝居がかったように言う麗巴に、暁亮は応とも否とも答えない。
暁亮が言ったのは、まるで違う言葉だった。
「貴方が何者であろうと、夏国は屈しない」
ほう、と麗巴は片眉を上げる。
「無論秋国も。私も、貴方には従わない。裏で何をしようと個人の自由だが、それが他人の幸せを踏みにじる行為なら、夏国は、いえ、私は、貴方を許さない」
「…許さない、ですか。あなたが。私を?」
「ええ。麗巴。必ずや貴方を防いでみせます。ですから、秋国や夏国に介入して戦をたきつけても、無駄です。どうぞ貴方の主にお伝えください」
「私の主に、ね…。ふふふ」
きりりと真摯に青い炎をたたえるような暁亮の藍色の瞳に、その言に、麗巴はこらえきれず歪んだ笑みをこぼした。
「我が麗しの君。あなたの美しさ、尊さには、本当に参ってしまう。ねえ、私が、あなたのような方のことを主なんかにすべて伝えてしまうと思いますか? まさか! そんな、勿体ない! 主があなたの真実を知ったら、夏国や秋国など放り投げて、あなたをこそ追いかけますよ。そして不承不承、私もそれに従わざるを得ない。
ねえ、我が麗しの君、私のものになりませんか? あなたみたいなきらきらした佳人を、その不羈の魂を宿した美しいひとを、絶望させて、私の言うなりに飼いならしてみたいと、常々思っているんです。
その若駒の如くしなやかな精神を、完膚なきまでに叩き折るにはどうしたら良いでしょうね? 誰か大切な方でも誘拐してみせましょうか? あの明香姫なんてどうです? それとも、あなたに懸想している子規将軍の前で犯して見せましょうか? ふふっ、人生が豊かで、楽しそうで、良かったですねえ。幸せな人生には大切なものがたくさんある。だから、どれも見事な脅迫の種に化けてくれそうですね」
「…貴様っ!!」
暁亮は顔色を変え、剣を抜く。流水の如く迅速で俊敏な動きに、だが麗巴は紙一重で刃をかわし、手刀で暁亮の剣を落とす。
鋭い足払いで暁亮を倒して床に組み敷き、その両手を頭上に絡めとる。
「おや、どれが効いたのかな? 明香姫? 子規将軍? 先日の冷静さはどこへやら、麗しの姫君はあっという間に取り押さえられてしまった。このままあなたをさらってしまおうかな? それともここで、凌辱されたいですか?」
「ふざけるな。誰が貴様などに…!」
「でもねえ。この体勢だと、もう抗うのは無理じゃないかな。うわあ、どうしましょう。ぞくぞくしてきましたよ。私が我が麗しの君を手に入れられるなんて、もう少し先のことかと思っていました。ああ、でも少し物足りないかな。こうもあっさりとねえ…」
舌なめずりするような麗巴に、暁亮は頬を屈辱の朱に染め、顔を背ける。
小さく震えるような、初々しい乙女のような反応に、麗巴が目を細めた瞬間、隙を逃さず蹴りを放つ。
がん、と靴が飛び、衝立に当たって倒れ、音が響いた。
「…今のはなかなか。本当に転んでも只では起きない」
だが麗巴はその蹴りもかわした。
「手ごわい。やはり今が絶好の機会か」
「貴様に絶好の機会などない。未来永劫、貴様には従わない!!」
「そういう強気なところが、本当、輝かしくて参ってしまいます。さあ、…」
前置きはこの辺で、と言いかけた麗巴の耳に、荒々しい足音が聞こえてきた。
その意味を悟り、麗巴は暁亮から身を離す。拘束していた腕を解き、窓辺に寄る。
「桂淋!! 今の物音はなんだ!? 入るぞ!!」
隣の部屋の扉が開き、続いて人が入って来る足音。その足音はすぐにこの寝室へ向かい、入口の扉が開く。
周藍が入って来たのと、麗巴が窓から外に出たのはほぼ同時だった。
床に倒れていたところから身を起こす暁亮と、窓から飛び降りる男の後ろ姿の両方を目にし、周藍は驚愕に眼を見張る。
(…保険がうまく効いてくれて何より)
心中で暁亮は呟く。そして周藍の顔を見返し、安堵すると同時に後ろめたく思う。
(きっとまた、悩んでしまうのかな)
人の好いこの元敵国の将軍は、暁亮の身の上に降りかかることを、我が事のように気にしてしまうらしい。
(私は子規将軍に助けられているのに。子規殿を利用するばかりで…)
玲威が何者かに殺されたと聞き、その様子とかねてからの疑念に、暁亮はすぐさま麗巴を思い浮かべた。
そして麗巴が白焼宮に来たなら、必ず自分の元へも訪れるだろうと予測した。
だから端新に周藍を呼びに行かせた。麗巴が玲威―壮巴と共に、今回の件の黒幕と大きく関わっているなら、接触して情報を引き出すに絶好の機会。だが麗巴も相当の手練れ、一人で立ち向かうには暁亮の分が悪い。
「桂淋。今の男は…」
衣服の乱れた暁亮のただならぬ様子に、周藍は厳しい視線を向ける。今の不審者を追う必要があるのなら、暁亮は周藍にそう告げる筈。追えと言わないのなら、その必要がないのだ。だがだからと言って、この状態を何の説明もなしに看過できない。
(さて、何と言ったものか。取りあえず、寝ることを考えないと)
長引くのは望ましくない。場をうまく納める言葉を考えながら、暁亮は立ち上がり、襟元を改めた。
なにせ明日は建国祭。夏国大使である暁亮も、秋国水軍将軍である周藍も、派手な役どころではないがそれなりに務めはある。少しでも体を休めておかないと響いてしまう。
去り際の麗巴の言葉を、暁亮はできるだけ考えに入れないこととした。
『我が主もあなたの存在に気づいたようです。もうすぐ、あなたの元に招待状が届くでしょうね』
だからせめてそれまで、私と遊んでくださいね。
そう麗巴は暁亮に残して去った。




