57
秋国王宮白焼宮の中を、秋国第二王子陽芳の副官だった玲威は、奥へ奥へと走り抜ける。
重なる交戦と逃亡により、配下の兵は随分と減ってしまい、今では十人にも満たない。そのうちのほとんどが秋国にて潜伏する数年のうちに玲威が懐柔した兵たちであり、元より玲威が主から与えられた配下の者たちは、折を見て水没する船から逃れる鼠のように去って行ってしまった。
(見限られたのだ)
玲威の頭にぽつりと浮かぶ。忌まわしい考えだが、消失せず繰り返し浮かび上がる。
陽芳の元で過ごした数年の努力の期間を振り返り、何もかもうまく行くはずだった前夜の浮かれた自分を呪い、玲威は焦燥感に追われながら走る。
暗く、静かな、夜に沈む王宮を――。
その先に、一人の男が立ち、どこか禍々しい微笑を湛えて玲威を待っていた。
「麗巴…!」
「久しぶりですねえ。壮巴」
現れたのは、すらりと長身の細身の男。流麗なふるまいから、細身ながらもしなやかな体のつくりが窺える。目元涼しく切れ長の琥珀の瞳に、ゆるやかに波打つ髪を気だるげに一つに束ね、控えめに銀糸の刺繍を忍ばせた黒紫の衣服を身にまとっている。
美しく整った造形、しかしその美しさは、天人の如しと讃えられる夏国大使暁亮とは真逆、舌をちろちろと出し入れする蛇のように冷たく、禍々しい。まさしく麗巴というその呼び名の如くに。
「麗巴、おまえ、なぜここに…」
「そんなに驚かなくても良いでしょう。壮巴の仕事の仕上がりを見物しに来たのですよ。明日は秋国建国祭、さぞかし愉快な出来事の仕掛けがあるに違いないと思いましてね」
すらすらと歌うように述べる麗巴に、壮巴は顔を歪ませる。
「見物だなどと! 相変わらずいけ好かない」
「御挨拶ですね。私と貴方の仲だと言うのに。ねえ、壮巴。しかし、思いもかけず別の意味で見ものでした。数年の仕込みが台無し、秋国王陽斎はぴんぴんしているし、第一王子陽梨も健在、手塩にかけて手なずけた陽芳を連行することも叶わず。大変ですね。主は、さぞやお怒りになるでしょうね」
麗巴の毒を孕んだ言葉に、玲威は蒼白になる。
「主は、…このことをもう知って…」
「あの方のこと。貴方の周囲にだって、この秋国王宮にだって、いくらでも耳はいますよ」
「麗巴…、頼む! 主にとりなしてくれないか」
急に麗巴の腕を取り、懇願する玲威に、麗巴はおや、と片眉を顰めた。
「おまえの口添えがあれば、きっと何とかなる。私はまだ死にたくない…!
頼む、麗巴。此度のこと、決して私の失策ではないのだ。まさか秋国王子陽梨が夏国大使と組むだなんて、そんなことが誰に想像できる!? 先日までの敵国ではないか! 私はきちんと役目を果たした。陽芳のもとで信頼を勝ち得、秋国王家をひっかきまわしてやったではないか。頼む、麗巴! おまえから主に…」
「お断りします」
にっこり笑って麗巴は答えた。
「なぜ、私がそんなことをしなくてはならないんです? 無能な者は死すべし。無能とは、壮巴、貴方のことですよ。何年かけても、結局こんな残念な結果にしかならなかったでしょう?」
「麗巴…、」
「貴方の元から離脱した者たちはどこへ行ったと思います。主の元で、逐一貴方のふるまいと成果を報告していましたよ。私が何か言うまでもなく、あの方はもうすべてを御存知です。貴方に残された最適解はですねえ、…陽芳の誘拐だったでしょうね。
貴方に陽梨が殺せるとはとても思えない。役者が違う。そして陽梨がいる限り、陽斎を殺していたところで、結局秋国は立ち直った。夏国王明理は遊びや見せかけではなく本気で秋国と友好を結ぶようだ。陽斎が死んでも、夏国が陽梨を支えるでしょう。陽梨にとって可愛い弟の陽芳の身柄を押さえていれば、少なくとも次期秋国王陽梨を揺さぶる手駒となった筈。そうしたら、まだ私たちが暗躍する余地があったのですよ。
もう手遅れですね。陽梨はもう隙を見せないでしょう。貴方は我が身可愛さに陽芳を囮にして放って来てしまった。詰めが甘いのですよねえ」
それにね、と麗巴は続ける。
「貴方は、我が麗しの君に手を出したでしょう?」
ある意味嬉しそうに、罠にかかった獲物を見るように、麗巴は舌をぺろりと舐めた。
「いつ見ても美しく揺るがない私の麗しの君に、その汚い手で触れようとしましたよね? 私が貴方を許すと思いますか? ――いいえ。いいえ、決して。
あの麗しの君に手を出していいのは、私だけです。あの美しい天人の如き美貌を、踏みにじり、切り刻み、生の汚濁に塗れさせて、みっともなく命乞いをさせて、なお堕とす権利があるのは、私だけなんです。
…以前忠告しましたよね? 私はまだまだ、あの佳人と遊びたいんですよ。ですからね…」
「…!! …っ、麗、巴、き、さま、…」
「命をもって償いなさい」
玲威が反応する間もなく、麗巴は玲威の腹部に剣を突きたてていた。
その突きたてた剣をねじり、臓腑を刃に巻き込んだ後で、抜く。血しぶきが上がり、玲威が床に崩れ落ちる。麗巴は剣を伝う血を振り払い、周りの兵士たちを見回した。
「さて。貴方たちはどうしましょう。せいぜい、いい声で啼いてくださいね?」
ほどなくして、秋国水軍将軍周藍が白焼宮奥のその廊下で、秋国第二王子陽芳副官玲威の亡骸を発見した時、その場には、最後に玲威に付き従ったと思われる十人ほどの兵士の惨殺死体が共にあった。
一方的な虐殺の場は、遺体の数に相応しいだけの夥しい赤い血が流れ、彼らは一人残らず事切れていた。
若いとはいえ、冬国との歴戦を潜り抜けてきた周藍でさえ、その場を目にした時、ぞっと背筋を凍らせた。
兵士たちの幾人かは、ただ斬り殺されただけではなく、
足の腱を斬られ這いずり回った者、
目をくり抜かれた者、
腕を切り落とされた者、
はらわたを引きずり出された者が混じり、
死者の表情は恐怖に歪み、猟奇的な殺人者の存在をあからさまに伝えていた。




