おまけ 夏王宮の取り巻く人々
その日、夏国王明理は夕餉の食事を終えて箸を置くと、ふむ、声を漏らした。
料理の味が変わった気がする。というか、以前ほど美味ではなくなった気がする。
香ばしく焼かれた鶏肉にかかった甘酸っぱい餡や、青菜の胡麻和えのこく、海老団子の吸い物にきかせた柚子の香、どれも一味冴えが足りない。
明理は別に美食家という訳ではなく、味が多少変わったからといって目くじらをたてる性格ではない。むしろ、戦乱の世を軍人として生き成り上がって王になっただけあって、必要があれば蛇や蜥蜴だって焼いて食べたし、山菜というには憚られる雑草でも食べて生きてきた。味覚における守備範囲は十分広い方だろう。だが今は仮にも一国の王である上に、明理はもともとは農家の生まれ。食べ物の良さも十分に知っているし、舌が鈍感な訳ではない。
「最近、厨房で人が変わったか?」
控えていた侍従に尋ねたが、否との答えだった。
「厨房を任せていたのは、佐李だったか‥」
ごく真面目な人柄で、女ながら職務に真摯であり、誇りも持っていた。
なまなかな理由で手を抜くとは思えないし、厨房で特に事件が起きた記憶もない。
いつ頃から味が変わったのか、としばし考え、やがて明理は再度ふむと頷いた。
秋国を訪れてから夏王宮に帰還して以来、書類仕事が続き、鬱屈していたところである。
せめて日々の食事にくらい、楽しみを見出しても良いではないか。それなのに、せっかくの料理で心を満たされないこの有様。
佐李にはしばらく反省してもらわねばなるまい。
執務室の机に戻り、処理していた紙面をよそに白紙を一枚とり、さらさらと明理は一言書きつけた。
「明王が、いない、だと‥!?」
赤い炎も熱くなれば青みを帯びて白く輝くように、怒気も行き過ぎれば青褪めるものなのだなあ、と、明理の息子、明禅は思った。もちろん口にはださない。口にしたら最後、今明理の残した書きつけを見てわなわなと震えている夏国宰相の怒りの矛先が自分に来てしまうではないか。
「今に始まったことではないとは言え‥そろそろ限界かと思っていたとはいえ‥」
一応毎度のことだとわかっていたのか。
「あんの馬鹿王があーっ!!」
ぐしゃり、と書きつけが握りつぶされ、敵とばかりに投げ捨てられた。どすどすと八つ当たり気味の盛大な足音が王の執務室を出ていく。明禅は床にたたきつけられた紙を拾い、しわだらけのそれを開いた。
『故国に戻ったならば、行きつけの酒屋で管を巻くことこそ人の常也』
「‥って、王の行きつけってどこなんだ。というか何軒あるんだ。首都洸中の居酒屋全部が俺の行きつけだとか言っていたのはどこの誰だ」
呆れてため息が出るが、明禅は既に事態を受け入れている。
こういうところこそ我が父なのだった。
どうしよう。今日もまたやってしまった。
佐李は流しに手をつき、そっとため息をついた。これで何回目だろう。今までは、夏王宮の貴人の食事を任されるのだと自負し、趣向を凝らしたり、素材のうまさを如何に引き出すか苦心しながら、わくわくする気持ちで調理してきた。だがここしばらく、心は冬の枯れ木よりも乾いていて、献立を考える気力も湧かない。こんなことでは、明王の食事を調える栄えある役目から降ろされてしまう。
「それもこれも、桂淋さまが帰っていらっしゃらないから‥!!」
自分の職務さえ満足にこなせなくなった敗北感に包まれ、佐李は絞り出すように声をあげる。
桂淋、本名は暁亮。だがその人を暁亮と呼べるのはほんの一握り、育て親の華鳴と王族ぐらいである。本当は暁亮と呼んでみたいが、恐れ多くてできない乙女が、密かに夏国王女明香に嫉妬していたのはまた別の話か。
「どうして。なぜお帰りにならないの。はじめはほんのちょっと王代理の使者として向かわれただけだったのに。秋国で乱が起きて、お帰りが延びて、やっと首謀者が捕えられたと思ったら、お怪我をなさってしばらく身動きできないなんて。ああ。ああ、桂淋さまがいない清水宮なんて、宝玉を欠いた首飾りもいいとこよ‥!!」
他の料理人がたまたま席をはずしているのをいいことに、激情のままに佐李は独白した。
「あの美しい方がお怪我をなさったって聞いて、侍女たち皆とどれだけ気を揉んだか。傷もほとんど残ることなくようやくお怪我が治ったと聞いて、どれだけ嬉しかったか。やっとお帰りになられたと思ったのに、ほとんどお声を聴く暇もないままに、今度は秋国で夏国大使のお勤めに抜擢されるだなんて‥。
こんなことがあっていいの!! 神さま、私たち哀れな女たちに、どうか桂淋さまをお返しください。あの方の微笑み、あの方の囁きがなければ、私たち桂淋さま愛好会には夜も昼もないわ‥!!」
絶望に打ちひしがれる佐李。これこそが、最近夏国王宮・清水宮の至るところで起きている乙女たちの不幸なのであった。
とそこへ、とんとん、と戸を叩く音がする。涙にくれ、いつのまにか土間に座り込んでいた佐李だったが、何とか気を取り直して誰何した。
「あの、佐李さんにお手紙です。お受取りください」
「手紙?‥」
侍従より渡され、いぶかしく思いながらも佐李は受け取る。手紙をくれるような人物に心当たりはない。もしや故郷で父母に不幸な出来事でもあったのか。しかしそれにしては、やけに見かけが雅だ。料紙は小さく透かし彫りの入った薄紙で、両親がこんな洒落たものを使うとは到底思えない。
では何か。縁談か?
佐李は手紙を開けた。
『佐李さま。お元気でしょうか。私は肩の傷も癒え、ようやく生活も落ち着いて参りました。秋国はもう芽吹きの季節で、あちこちで可憐な野の花が顔を出してきています。厨房の主の佐李さまなら、私がただ見ただけでその花の価値がわかったような顔になるところを、料理という観点から全く違った価値を見いだせるのでしょうね。
佐李さまの作るお料理も、もう随分と食べていなくて、寂しいです。秋のお料理もとてもおいしいのですが、やはり少し味付けが辛くて、私などは食べなれた夏国の素材を生かした繊細な味を懐かしく思います。その中でも、佐李さまのお料理は本当に食べる方のことを良く考え、趣向が凝らされていて、素晴らしいものだったと思っています。毎日佐李さまのお料理をいただける明王は、きっとお喜びになっているに違いありません。
秋国での務めがあるとは言え、長く夏国に帰らず、時折、鳥のように気の向くままに飛んで帰れたらとため息をつくことがあります。そんなときに思い出すのは、清水宮で一生懸命働いている皆のことです。皆が真摯に故郷で毎日の暮らしを営み、職務に励んでいると思えばこそ、私も故国のために秋で頑張ろうという気持ちになります。
最後にお会いした時から、随分経ちますが、その間にも次々と新しい試みで数々のお料理を生み出されていらっしゃるのでしょうね。どうかお体にお気をつけて、息災でお過ごしください。帰国した折にお話を伺えることを楽しみにしています。桂淋』
流れるような筆致で字が署名されている。まさかの、暁亮からの直筆の手紙だった。
『‥真摯に故郷で毎日の暮らしを営み、職務に励んでいると思えばこそ、私も故国のために秋で頑張ろうという気持ちになります。‥』
『‥佐李さまが毎日一生懸命にお務めしているからこそ、私も頑張ろうという気持ちになれるんです。‥』
ふっと花咲くように柔らかに微笑む暁亮の幻が、佐李の心を隅々まで満たした。
「‥私、やらなくては。桂淋さまのために、素晴らしい、新しい、おいしいお料理を作りあげなくては!!」
‥この日、何通かの手紙が秋国から清水宮に届き、侍女たちを中心に配られた。
いずれも春を思わせる淡い色合いの上品な料紙が使われ、それを受け取ったものたちは頬を染めて己が務めをより熱心にこなすようになったのだという。
そしてその何日か後には、下町の酒場で明王が捕獲され、執務室に連行された。
拉致られた割りには妙に晴れ晴れとした表情で、以前よりも一層磨きのかかった晩餐に舌鼓を打ったのだという。