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おまけ ある夜の出来事 2・続

慌ただしく秋国王子陽梨と秋国水軍周藍部下緑都が部屋を出ていき、夏国大使暁亮と周藍がその場に残された。

先程までの喧噪は嘘のように、部屋の中はしんと静まり返っている。慣れた部屋、落ち着く筈の場所で、今夜は居心地の悪さを感じながら、暁亮は部屋の(あるじ)周藍の顔をおずおずと見た。

酒を飲む場合の定位置、長椅子の向かって左側に、ひじ掛けに半分もたれかかって、くだけた様子で座っている。その周藍の顔は、特に紅潮している訳ではないが、常になく視線が熱を孕み、煙るようにぼうっとしていて、しかし突然現れた暁亮に、現実を受け入れ切れず硬直していた。

「子規どの、あの、大丈夫ですか? 相当飲んでますよね…?」

恐る恐る暁亮が問う。

酒瓶は陽梨の命により緑都が撤去した訳だが、黒い漆の卓の上に置かれた杯や、床にある空き瓶、むせ返るような酒精の香りに、酒に弱い暁亮にはどれ程の量が干されたのかおののく程だ。

と、ようやく現実を認識したのか、周藍は長くため息をついた。

「…せっかく来てもらって悪いんだが、部屋に戻ってくれ」

「え、でも、…」

「見ての通り酔っている。おまえが近くにいると何をするかわからない」

手の中の酒杯を卓上に置こうとし、水が入っているのを思い出して、周藍はそれを飲んだ。

酒精のない冷たい水は喉に気持ち良かったが、それも一瞬だ。酔うべくして存分に自ら酒を食らった手前、そう都合良く酔いが覚める訳もない。

立ちあがって暁亮を追い立てようにも、足に来て無様な恰好をさらしそうな気もする。更に、暁亮の間近に行って、今の自分が突然何かをしでかさないか自信もない。

それなのに、暁亮は周藍の気持ちを何ら慮ることなく、逡巡してまだ室内にとどまっている。

(頼むから早く出て行ってくれ)

伏せがちになり、上目遣いになり、長い睫毛の下に星の煌めくような藍色の瞳を見せて、気遣わし気にこちらをちらちらと見る様子に理性が飛びそうだ。

いつもの如く、夜闇を集めたようにさらさらと艶めく束ねられた黒髪、月のようにほの白い光沢のある肌、紅も差していないのに薔薇の花びらのように色づく唇、華奢な首から肩の輪郭を無意識になぞりかけ、その首元を覆う青紫の巻き布(スカーフ)に気づいた。

「えっ…」

衝動のままに周藍は目の前の暁亮の腕を掴み、引っ張る。

長椅子の空いた右側に暁亮が倒れこみ、その上にのしかかるような姿勢で、周藍は暁亮を見下ろしていた。

訳がわからないと言った無垢な顔で、でもすぐに事態を認識し、暁亮が一瞬息を止めて周藍を見上げる。

周藍は、左手で暁亮を長椅子に押し付けたまま、右手をその巻き布(スカーフ)に伸ばした。

端に指をかけ、ずらし、外す。

白い肌に似合わぬ青くうっ血したあとが残っている。夏国将軍源基に首を絞められたあとだ。

「…大丈夫です。子規どの。心配して下さったんですね」

痛々し気に眼差しを歪める周藍に、暁亮は優しく言い聞かせるように告げた。

「ちょっと見苦しいですけど、すぐに消えてしまいますから」

子供を安心させるように微笑みを浮かべる暁亮に、周藍はやりきれない思いを抱える。

なぜそこまで献身するのかという怒り。その暁亮の献身が受け入れられない哀しみ。

だがそのいずれもが、周藍が暁亮に向けるべき感情ではない。

今は暁亮は夏国大使で、暁亮をそんな目に合わせているのも夏国の武将。秋国に仕える周藍の出る幕ではないのだ。

仕える国を鞍替えする気はないのか、と尋ねたことはない。

暁亮が夏国王明理に抱いている忠誠は、なり行きのものではなく、また暁亮は自らの仕える国を選べない程自我の弱い人間でもない。暁亮は暁亮なりに、自ら選択して今その場所にいて、夏国王明理も、暁亮を恃みにしている。

何か余程のことがない限り、暁亮は夏国のその場にとどまるだろう。

ならば周藍にできることは、秋国で束の間の居場所を用意すること、

余程のことがあった場合の受け皿になることぐらいだ。

そう自分に言い聞かせていても、感情は時折、理性の鎖の戒めから逃れようとあがいている。

目の前にいる佳人が、謂れのない暴力にさらされ、心中で泣いているのなら。

周藍は暁亮の首のうっ血したあとに指を伸ばした。

指先が触れる。色は変わっていても、とろけるような感触を覚える。

暁亮は驚きに息を呑み、だが拒絶するでもなく、じっとその動きを受け入れている。

指先が何度かその場所を優しくたどり、ふと、その動きが止まった。

眼差しが交差する。

明かりが灯されてはいるものの、薄暗い室内で、暁亮は真っ直ぐに自分を見下ろす灰色の瞳を見た。

「あっ…」

びくりと体が震える。

湿った舌の感触。

「あ、あの、あっ…」

首元に口づけられ、舌で舐められ、体が強張り、だがそれも繰り返されて、次第にほどけてくる。

猫科の動物に舐められて慰められているような感覚。

やがて、周藍の唇はのどもとを上がり、口づけは暁亮の唇に落ちた。

酒精の香りがあふれ、何度となくついばむように口づけられて、暁亮こそが酔ってしまいそうになる。

このままどうなるのかと思い、ぎゅっと目をつぶったところで、

どさり、と周藍の体がのしかかった。

それきり、動かない。

「…あの、子規どの? 子規どの」

小さく声をかけて体を揺するが、返事はない。

様子を伺うと、落ち着いた呼吸音が聞こえる。呼吸音というか、これは、寝息だ。

「…お酒飲み過ぎですよ、もう」

珍しく拗ねたような口調になってしまい、暁亮はひととき花開くような微笑を浮かべる。

周藍の左手が暁亮の右手を握っている。指が絡み、離さないというように力をこめられたままのそのさまに暁亮は苦笑し、誰に知られることなく、周藍の背に左手を回してそっと抱きしめた。


爽やかな鳥の声に目を覚ますと、周藍は長椅子の上に横向きになって寝ていた。

あちこち凝っているような気がする。身を起こすと、かかっていた毛布が落ちかかる。

(昨日は飲み過ぎたな。まあ久しぶりに酔いたかったしな)

自ら進んで陽梨と酒を開けて――と、はたと気が付いた。

(桂淋がいなかったか!?)

連れて思い出される数々の場面。だが酔っていたためか、断片的にしか思い出せない。

確か緑都が来たような気がする。困惑しつつも入ってきた暁亮の顔は覚えている。首元のうっ血したあとが目に入って、それから、

(それからどうした!?)

記憶がない。

全く、情けないことだが、覚えていない。

何かしでかした気はする。が、何をしでかしたかは覚えていない。

しばし悩み、だがいつまでもそうしている訳にも行かず、周藍は軽くため息をついた。

(仕方ないだろう。こっちだって若い健康な男子なんだからな)

大体、警告はした筈だ。出入り禁止にもしたのに、勝手に入って来る方が悪い! …多分。

自分を鼓舞しつつも、次に暁亮に会った時にどんな顔をすれば良いのかきっと悩むんだろうな、と自らの虚勢に少々苦い気持ちになる。

(…何かしたのなら、せめて、覚えておけば良かった)

心中で己を呪いつつ、恐らくその暁亮がかけてくれた毛布を複雑な思いで見遣る周藍なのだった。

ほんとありがち。

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