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鏡の前に座った明香の髪を、侍女華音が丁寧にくしけずる。左横の髪を少しとって巻き上げ、薔薇水晶≪ローズクオーツ≫を散りばめた桜の簪を挿す。明香のとっておきだ。
「いかがですか?」
「とってもいいわ。華音、ありがとう」
鏡の中の少女が、にっこりと微笑んだ。
今日は薄桃色の上着に銀色の帯、紅い靴、桜の簪、桜の耳飾りと、春先っぽくまとめている。なにせ夏国屈指の佳人に会おうというのだ、明香も侍女たちも装いに気合が入っている。
華やぐ気持ちが伝わるのか、普段あまりしない化粧も何も言わないうちから用意されている。薄く粉をはたいてもらい、唇に紅をさしてもらった。
明香はあまり美人な方ではない。きれいというより、可愛らしいとしか言われたことのない自分が、一目で相手の心を摘み取ってしまうほどの神々しさを持つ暁亮≪きょうりょう≫の容貌に張り合おうなんて更々考えていない。ただ大好きな憧れの人に、ほんのわずかでもきれいだと思ってもらいたくて、つい張り切ってしまう。もしかしたら、日々の陽芳との付き合いに疲れた反動も混じっているかもしれない。
お茶会の時間が近づき、明香は円卓のある居間へと移った。甘い匂いの香が品よくたかれ、卓には白と紅の小ぶりな花が飾られ、菓子が並べられ、茶器が用意され、準備万端。
「本日はお招きありがとうございます」
天上の楽の音のような、降り注ぐ日の光のようなさやけき声と共に、暁亮が現れた。
ぬばたまの黒髪は夜闇に月明かりを返す清流のごとく艶やかで、藍色の瞳は星明りに煌めく藍玉≪ラピスラズリ≫のごとく輝きを秘めている。何度見ても感嘆のため息をこぼしてやまない。端の方の侍女は倒れているんじゃないかしら、とどこか冷静に明香は苦笑した。
「久しぶりに会えて嬉しいわ、暁亮。元気だった?」
「はい。明香さまもお変わりなく。桜の簪、特別に大切にされていましたね。今日のお招きの席でつけていただけて光栄です」
慣れている筈の明香でさえ、心を奪われそうになる、天上人のごとき微笑み。さすがに耐え切れなかったのか、ばたばたと背後でものが倒れる音がした。
「‥気にしないで。相変わらずの現象だから皆慣れているわ」
明香に付き従う夏国の侍女たちが、冷静に介抱する。卒倒したのは普段暁亮と触れ合うことのなかった、秋国の侍女たちだった。
「座って。おいしいお茶を用意しているの。春っぽく野苺の香りのお茶よ。甘酸っぱいけどとても香りが高いの。男の人はこういうのあまり飲まないかもしれないけど‥」
「そうですね。初めてです。でもとても芳醇な野の香がします。‥明香さまらしいですね」
「そうかしら?」
「ええ。明香さまは、夏王宮では地にあるものを自由に愛でていらっしゃいました。季節を彩るものもよくご存知で、一番の花、一番の果を見つけてはよく教えてくださいました。
秋王宮ではそうも行かず、少し退屈なさっているのではないですか?」
「確かに、勝手が違って退屈に思うときもあるけど。その言い方だと、何だか明香はとってもお転婆みたいに聞こえるわ」
「こちらに来られてからはとてもいい子をされているので、私は少し、心配です」
つんとすました顔を作ると、思いがけず、気づかわし気な視線を向けられる。
「『いい子』だなんて。明香だって、もう十歳になったのよ。子供じゃないとは言わないけど、ちょっとは大人扱いしてくれてもいいんじゃない?」
「‥明香さま‥」
「お父さまからは、きちんと今回のお話を聞いているわ」
さっと辺りを見回して明香は目配せをし、華音を含めた夏国から連れてきた侍女を何人か残して、他を下がらせた。
「明香の花婿が次の秋王なのよね。秋王になるのか、秋王にするのかは、わからないけれど」
対秋国の外交を束ねるだけあって、暁亮は知っているのだろう。だがその眼差しは純粋に明香を案じて揺れている。
夏王宮に暁亮が上がるようになってから、明香はすぐに暁亮に懐いた。明香が今よりもずっと小さい子供で、暁亮にとっては主君の娘であったからだけにとどまらず、暁亮は明香を大事にしてくれた。明香の何が暁亮の琴線に触れたのかは明香は知らないが、十歳に課せられた婚礼の話に少なからず胸を痛めていたのだろう。
「大丈夫。明香は自分の役目を知っているわ。だからきちんと期待に応えるわ。助けてね、暁亮」
「もちろんです。数ならぬ身ですが、明香さまのために尽力いたします」
「数ならぬ身だなんて、貴方が言ったらいっそ嫌味になっちゃう。暁亮はもうちょっと自分のきれいさを認識した方がいいわ。ある意味暁亮の協力は最強よ」
そうでしょうか、と苦笑する。その表情に浮かんだわずかな憂いが、また悩ましくも美しさを冴えさせる。この国に来て、秋国人が何人血迷ったのかな、と明香は遠い目をした。
「そういえば‥」
ふと思いつき、明香は呟いた。
「明香が秋王に拝謁したとき、暁亮も控えていたよね。立場からして当然なんだけど。暁亮の隣にいた人って、秋国の方よね」
「え、ええっ?」
「背が高くて、片目が隠れるくらい前髪を伸ばしてて、‥あの人って、志保さまの幼馴染だった、かな?随分仲良さげだったけど、ええっと、お名前は‥」
「明香さま本当ですかそれは!?」
割って入ったのはそれまで話すことなく大人しく給仕していた華音だった。
「どこの、誰なんです!? 親しくしていたって本当ですか!? そんな、まさか、よりによって秋国の女性だなんて‥ただでさえ桂淋≪けいりん≫さまが夏国から秋国へと移られて、私たちは毎日何を生きがいにすればいいのか嘆いていたというのに!!」
桂淋とは暁亮の字≪あざな≫だ。
「ちょっと待って華音。女性じゃないわ。男性よ。ええと、周藍?字が子規だったかしら?水軍の将軍だとか。志保さまと同い年って言ってたわ。鋭い目つきの人で、でも暁亮を見るとふっと目元が和んで‥」
「男性!!‥」
華音は絶句した。彼女が何を想像したのかは、明香はよくわからなかった。
暁亮は恥ずかしそうに視線をそらした。その様が、明香にある妄想を蘇らせた。
朱金の花嫁装束に身を包み、そっと明香を見つめる暁亮。
『明香さま。今までお世話になりました。私が秋国に嫁いでも、心は常に明香さまのおそばに‥』
「いやーっ。暁亮、お願い、まだお嫁に行かないで!! 明香はまだ耐えられそうにないわ。きっと暁亮をより引き立てる衣裳を用意するから!! せっかくの婚礼は、せめて豪華絢爛に調えたいの!!」
「は? 婚礼?」
戸惑う暁亮をよそに、夏国王女とその侍女たちは、それぞれの妄想に悶えるのだった。