おまけ 夏国王の寵姫 5
「照凛、一体何があったの?」
清水宮から戻った私を出迎えに来た姉さんは、すぐに心配そうな顔をした。
駆け寄り、私の目を覗き込む。
私は姉さんの顔をじっと見返した。
私の頬に飛んだ麗桟の血は、黄鼓が気づいて拭ってくれた。幸い衣服は汚れておらず、処刑の凄惨な光景はどこにも残っていない。でも、青褪めて黙り込む私の態度や、どこか強張った黄鼓の表情から、異変があったことは明白だ。
「姉さん、私、わかったわ。私のするべきこと」
何をどう伝えようかと思ううちに、するっと口から言葉が出ていた。
「私、清水宮に行く、行かなくちゃいけない。あいつを、あの猛獣を、何とかして飼い慣らさなきゃいけないの。できるだけ早くに」
大きく、重い、莫大な存在感を持つあの暗い空気。
その明理の前に出た時の、自分の卑小さ。
(あのままにしておけば、あの空気はどんどん重く大きくなって、きっと、たくさんの死人が出るようになる)
だが今はまだ、あの空気は善にも悪にもどちらにも転んでいない。
幸いにも、あの危うい男は、まだ魔性のものとはなっていないのだ。
あの獅子のような男を、物語の人外のように、危険で計り知れない可能性を秘めたあいつを、私は飼い慣らし、普通の男に堕落させなければならない。
それが、きっと天から私に課せられた命題なのだ。
「明日から、私は清水宮に上がるわ。本当はもっと先の予定だったんだけど、やることができたの。
姉さん、突然の別れになっちゃった。姉さんは、きっとどこでだって幸せを見つけられるだろうし、今は寒月さまだっている。もう大丈夫だよね。私、妾妃扱いで後宮に入るから、多分、これからはもうなかなか会えないと思う。でも、どうか、姉さん、元気でいてね」
「照凛、‥何を言ってるの? 明日からって、本当なの?」
「本当よ」
言っているうちに、泣けてきた。
私は、自分のことをもっと気丈な人間だと思っていた。清水宮に上がることは、姉さんも私も予め知らされていたし、強制ではなくて、自分で受け入れたことだ。王の妃の一人になるのは栄誉なことでもある。
それなのに、今、姉さんを前にしてこうして話していると、涙が止まらない。大声を上げて泣きそうになるから、それ以上言葉を紡ぐことができない。
お母さまもお父さまも死んで、私はずっと姉さんにひっついていた。
おなかが空いてひもじくてたまらない時も、家を出て夜の寒さに震えた時も、ずっと姉さんと一緒だった。
何もなくても、姉さんと一緒に、ごはんを食べて、隣を歩いて、手をつないで眠ったのだ。
(すっごくむかつくけど、あの男の言った通りだわ。母親はいなくても、姉さんの裳にずっと隠れていた訳よね)
姉さんを娼館に売ろうかと画策していた時も、どこか頭の隅で、それでも私は当たり前のように姉さんにひっついていられると思っていたのだ。
でも、もう、明日からは、そうではない。
(嫌だ。悲しい。怖い。淋しい)
(姉さん。ずっと離れたくない)
「照凛‥」
顔を真っ赤にして、無言で泣き続ける私を、姉さんはそっと抱きしめてくれた。
私は母親にすがる赤子よろしく、姉さんの身体に腕を回し、そのどこか甘い匂いをぎゅっと吸い込む。
「照凛、貴女が嫌なら、やめて良いのよ」
「無理。もう決まったわ。明日から来いって明王に直接言われた。今更やめるなんて、寒月さまに迷惑がかかる。姉さんにも」
「寒月さまや私のことなんて気にしなくてもいいわよ。明王に怒られるなら、夏国を出て秋 国か冬国に行ったらいいわ。そんなの、どうとでもなるわよ」
今までだって、どうとでもなってきたんだから。鷹揚に姉さんは言う。
でも、私は頷けなかった。
「‥わたし、いかなくちゃいけないの。自分で決めたの。だから、仕方ないの」
自分でもわかっている。
行きたくない。姉さんと別れたくない。あの怖い男のところなんて嫌だ。
(でも、あれを放っておく訳にいかない。それに、あの麗桟の一族の命を、もう私は預かった)
(自分で決めたのだ。あれと、明王と戦わなきゃいけないって)
「ごめん。姉さん。わたし、これ、止まらないの。でも明日になったら止まるから。ちゃんと行けるから、今日だけ、今だけ、ごめんなさい」
姉さんは私の頭をよしよしと撫でる。
背中を撫で、肩を撫で、もう一度頭を撫でる。
私も、姉さんの背中を撫でた。
私も泣いていたけど、姉さんも、泣いているような気がしたのだ。




