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秋国訪問にあたり、明香は王宮・白焼宮の東側に居室を賜った。
滞在予定は比較的ゆとりを設けて組まれている。それは、夏国王女・明香が秋王子たちと親交を深め、将来の秋国王妃が秋国と馴染むためであり、明香自身が所詮10歳に過ぎないためだった。
そして、夏の王女に秋の民がまったくの好意のみを抱いている訳ではない。なにせ友好条約は先日やっと締結されたばかりであり、それまではお互い握手もすれば剣も交えた不安定な間柄だったのである。
明香は王宮でもてなされ―王宮以外の場所に、殆ど行くことができなかった。
唯一出かけるとすれば、第二王子陽芳が誘うときくらいか。
「明香姫、今日は碧華苑へ参りませんか。あまり大きくありませんが、風靡な池があるのです。桟橋に四阿が設けてあって、なかなか風情がありますよ。姫は歌が得意なのだとか。私も笛くらいなら何とか吹けますので、是非明香姫のお声を聞かせていただけませんか」
こんなことでいいのかな、と明香は首を傾げる。
せっかく秋国を直に訪れたというのに、お茶会、船遊び、楽を奏で、風景を楽しむ。
しかも誘うのは陽芳ばかりだ。王宮に滞在しているのだから全く会わないとは言わないが、陽梨とは顔合わせ以来ほとんど話していない。
快活に話しかける陽芳よりも、明香を前にして言葉に詰まった陽梨の方が印象に残っている。
陽梨が第一王子で、最も王位に近いからか。だから、王妃にと望まれた明香の心に引っかかっているのだろうか。
つまり、先入観。
今のところ、陽芳は愛想良く、人当たり良く、明香の喜びそうなことを思いついては明香を誘ってくれる、優しいお兄さんだ。
一方、陽梨についてはよく知らない。
このまま日が経てば、陽芳を好きになるのかな、と考えてみる。
普通ならそうなのかもしれない。誰だって、ろくに話したこともない人よりも、頻繁に話しかけてきて、多く同じ時間を過ごして、自分に優しくしてくれる人を好きになるだろう。
だけど、何かが待ったを告げていた。
その何かを、明香は無碍にしない。
「‥明香姫? 気が進みませんか?」
しばらく黙り込んでしまった明香に、陽芳はわずかに眉を顰める。
気づかれないと思っているのか、自分でも気づいていないのか。
そういう、要求が通らないときにちらほらと見える不満の表れに、明香は陽芳に気を許しきれない。
「今日は、お歌を歌う気分じゃないわ。何だか咽喉が掠れた感じがするの。しばらくお部屋で休んでいたら治ると思うんだけど‥」
だからごめんなさい。と明香は残念そうに続ける。
「志破≪しは≫さまはどんなお歌が好きかな。明るいお歌、ちょっと悲しいお歌、いっぱいあるけど、秋で皆が好きなのはどんなお歌かしら。今度教えてくれますか? 明香、練習するわ。少しだけ楽器も持って来たの。明香がお歌が好きだから、侍女の皆も、明香が歌えるように練習してくれたの」
「では、後で楽譜を届けましょう。練習は私もご一緒していいですか?」
「だめ。明香、びっくりさせたいの。咽喉がよくなったら、いっぱい練習するね。明香がいいって思うまで、志破さまには秘密です」
いたずらっぽく微笑む。仕方ないと陽芳は頷き、明香の部屋を後にする。戸の閉まる音がしてようやく、明香はほっと小さく息をついた。知らずどこか力が入っていたようだ。
「‥頻繁にお誘いに来られますね。志破さまは」
侍女の華音≪かのん≫がつぶやく。
「意識してらっしゃるんでしょうか‥」
次期王位を。
純粋な好意だけで、17歳男子が10歳の明香の元を訪れるとは思えない。誰もが思うことだ。
‥陽梨だって来ればいいのに。
「そうかもね。でもそれ以上は言っちゃだめ。本当はどうなのかわからないのだし。
でもちょっと志破さまばかりで忙しかったね。のどもあんまり良くないし、明香は今日は内輪でゆっくりしたいな」
「内輪で? ではお部屋でのんびりされますか」
「お部屋からは出るよ。明香は、今日は夏国の人といるのです」
含みを持たせて言うと、即座に気づいて侍女たちが華やいだ声を上げる。
「暁亮≪きょうりょう≫とお話するの。お茶会の予約は入れてあるよ!」
暁亮とは、夏国大使として秋王宮に長期滞在中の官吏である。
その花の顔≪かんばせ≫に日も恥じらい月も隠れるといったばかりの、芳紀18歳の佳人なのであった。