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名前間違えました泣。ので改めました。
(正)彩祐←(誤)彩裕
「見えますか。あの舞台正面にいる小男が陽王。その左隣、橙色の上衣に紺色の帯を締めているのが正妃侑喜」
暗い部屋の窓に近づき、覆い布を細く開けて密かに外を覗くと、白焼宮西側庭園が俯瞰できた。石畳を敷き一段高くなった舞台の正面に宴席が設けられ、卓が並び、多くの貴人が集まっている。
周囲を囲む咲き初めの桜。観桜の宴が今まさに始まらんとしている。
白焼宮の侍女服を身に着けた彩祐は、陽芳の副官である玲威に案内され、庭園から少し離れた西塔の一室にいた。
学者と官吏が主に出入りするこの塔は、宴の開かれる今日このときは人気が少なく、殊に庭園のざわめきがよく聞こえる。
彩祐の表情を確かめつつ、玲威は一人ひとり宴席にいる貴人の名を告げていく。
秋国王陽斎。正妃侑喜。二妃蒴菓。秋国王女陽貴。
宰相松宣。近衛隊長桐架。水軍将軍周藍。
夏国王女明香。大使暁亮。夏国将軍源基。
貴人たちの紹介は続き、彩祐はそれを可能な限り覚えていく。とはいえ、彩祐は特に記憶力に秀でている訳でもなく、覚えられるのはせいぜい10人と言ったところだ。まして、いくら庭園が見えるとは言っても、人の顔が何とか認識できるくらいの距離である。
秋国、夏国の重鎮の顔と名前は叩き込んだが、後は顔や雰囲気を何となく掴んでおくくらいか。
暁亮の名に、体が強張る。兄の処刑の瞬間が脳裏に蘇り、視界が真っ赤に染まるような錯覚が湧く。
あの時感情に任せて放った矢は、あの夏国大使の肩に吸い込まれていった。
「‥今日は、陽梨はいないのか」
知らず、声が低くなる。あふれんばかりの怒りと憎しみがにじみ、制御できない。
だがそれでは駄目だ。また、外れる。この程度で揺れてしまっては、兄の仇を討つことなどできない。
「まだ来ていないようですね。招待客に名前はありましたが、恐らく、欠席するつもりなのでしょう。志保さまは、最近ずっと明香姫との接触を避けているようですから」
「明香姫‥。あの小さい浅葱の裳がそうだな。夏国王女は陽芳になびいているのか」
「どうでしょうね。どうも反応が芳しくありません。志破さまはいろいろと誘っていますが、うまく躱されているようにも見えます。まあ、どうでも良いことなのですが」
「どうでも良い? 夏国の後ろ盾がいるからこそ、明香姫にいろいろと誘いかけているのではないのか?」
「夏国の後ろ盾は必要ですが、明香姫の歓心を買うことは特に必要ない、ということです」
表情に乏しい冷徹な視線で、玲威は彩裕を見据える。
「己の役割を良く思い出したらどうです。志保さまを弑せば、明香姫は自動的に志破さまの妃になる」
陽芳が夏国王女に構っているのは、歓心を買うためではない。歓心を買おうとしていると人々に思わせるため。その裏で、陽芳はこうして副官を動かしている。己の野心を着実に果たすために。
どこの国でもいつの時代でも起こりうる、泥に塗れた政治裏。
翻弄される幼い王女が、彩祐にはわずかに哀れに思えた。
庭園では陽芳が挨拶を述べ、陽王が宴の開催を言祝ぐ。彩祐の見下ろす視界の中で、人々は酒杯を掲げ、飲み干す。
「‥始まったようですね」
玲威は窓辺を離れる。彩祐は宴席の様子から目を離せなかった。
兄彩興が座っていたかもしれない席に陽王が座す。彩興を囲まなかった貴人たちが宴を催し、祝杯を上げている。それが、今の秋国の現実だ。
奇妙な喪失感と嫉妬、憎しみで心が落ち着かず、ただ楽し気な人々の表情に見入ってしまう。
やがて小さな少女が舞台に進み出、高らかに澄んだ歌声が聞こえて来た。
夏国王女明香が歌っている。『満天の星空の下で』。古くからある名曲を、少女特有の澄んだ声が祈るように高らかに天へ上がっていく。四つの楽の音が少女の高い声を押し上げ、折り重なる。
「私はもう戻りますが、貴女はどうしますか」
「‥もう少しここにいる。後で部屋に戻れば問題ないだろう」
「貴女のように半ば屍と化した人間でも、明香姫の歌に魅かれるのですか?」
いつも無表情な玲威の声音が、珍しく歪んだ響きを帯びた。
「身分で賛辞を買うような歌など、何の価値もない。まあ、すぐに本物の歌姫が登場するでしょうから、それを鑑賞されれば良いでしょう。
‥部屋には必ず戻りなさい。もっとも、志破さまの庇護なくこの王宮で捕縛されれば、貴女も兄上の後を追い死の国に旅立つだけ。好きにすると良い」
彩祐は無言だった。玲威は部屋を後にする。
扉が閉められると、窓から漏れる光はわずかで、部屋の中は暗く、しんとしている。
庭園で少女が歌う澄んだ歌声が届く。その歌声も、途中から始まった楽団の演奏と、横に並ぶ第二声に紛れていく。本物の歌姫とは、明香の横に並ぶあの第二声のことなのだろう。
清らかに澄んだ声に覆い被さる、豊潤で艶に満ちた女の歌声。
歌姫の声の方が確かにきれいで、より豊かだったが、彩祐には、岩肌を流れる清水が汚泥に濁っていくように汚らわしく感じられ、好かなかった。
やがて歌は終わり、観衆から三度目の拍手が返る。
とそこで、夏国大使暁亮が陽王の前に出て何事か言ったようだ。予想外の出来事に聴衆はざわめき、その中で新たに四曲目が始まった。
『四季恋歌』。
明香が戦を鎮めようと天に歌を捧げる巫女姫になり、巫女姫を守る戦士となって暁亮が剣舞を始める。
(多くの尊き命 その魂 うたかたのごとく消えゆき)
(数々の家が焼け 畑が荒らされ 虚ろに打ち捨てられていく)
歌う明香と舞う暁亮をじっと見つめながら、彩祐は兄彩興のことを思い出す。
はじめ、陽王に与することを良しとしない古い血統の貴族たちが、彩興たちに声をかけて来た時には、兄は困った顔をして誘いを断るばかりだった。
それがいつの間にか、貴族たちの中心となり、内乱を起こすまでになっていた。
彩祐はただ嬉しかった。春帝国崩壊のどさくさに紛れて国を興した陽斎よりも、最も古く尊い血統を保ち、この地で人々を支え続けて来た彩家の御曹子、彩興の方が、余程王になるに相応しいと思っていた。陽斎は兄から秋国を奪略したのだとさえ、心のどこかにあった。彩家の血を賛美し、彩興の気品を褒め称える貴族たちの態度は当然だと受け止め、積極的に兄に尽くし、勝利のための力になろうとした。
(未だ終わりも見ない戦禍よ 父は家へ帰らず 息子は母から引きはさなれる)
(神よ 憐れみ給え 人の世の哀しみよ 続く別離の苦しみよ)
だが、それは本当に彩興の望んでいたことだったのだろうか?
欲に塗れた貴族たちの間で、戦で貧窮して尚その手を受けず自らを律し清く生きていこうとした兄が、なぜ急に態度を変え、内乱を率いるまでに至ったのか。
(我は祈らん この身なら捧げ給う 果てしなき火の中へなげうつ)
(我は祈らん この身を喰らい給え 渦巻く濁流にいざ飛び込まん)
舞台で、巫女は祈り、戦士は巫女を守る。歌が聞こえる。
彩興はいつでも妹である彩祐を慈しみ、守り、その幸せを祈っていた。
内乱が陽王によって収められ、彩興は多くの反乱貴族と共に処刑され、
秋国は平穏を取り戻し、彩祐は、その平穏な国に生きて存る。
(ああどうか 穏やかに過ごす時を人々に返して)
(さあどうか 戦うあの人を守り 笑顔に戻して)
今まで考えもしなかった兄の心象を、彩祐は思い図ろうとし、とどめた。
最早どうにもならない。何をどう気づいたところで、兄は戻らない。
あの時、処刑された。兄は死んだ。
秋国王子陽梨の名の下に、首を落とされたのだ。




