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自室の扉を開け、中に入り、明香は寝台に寝っ転がった。
体も心も疲れていて、すぐにでも寝てしまうのではないかと思っていたが、妙に気が高ぶっているのか、何だか落ち着かない。ごろごろしていると、さやさやと爽やかな春風が、そばの小さな格子窓から入って来る。
今は遠くなった楽の音。
(観桜の宴だったのに、桜を愛でるどころじゃなかったな‥)
『満天の星空の下で』。嵐玉の嘲笑。その艶やかな声。青風楽団の楽。華音の困った顔。暁亮の舞。口つけた杯の酒精の香り。陽貴の耳飾りの揺れる音。
今日起こった様々なことが、泡が弾けるように浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。
いつもなら一緒に過ごす侍女たちの姿もなく、なんだか久しぶりに、一人だ。
思い立ち、庭園を覗く窓を開ける。
王宮の一角であるからには、近衛兵が定期的に辺りを見回っている筈だが、今は気配はない。
早春の候、辺りは芽吹く緑が広がっている。細い石畳が横切るほかは一面の緑、その上に植えられた木々が幾重にも折り重なって、そこを心地よい風が通っていく。
明香は窓枠を超え、外に出る。振り返り、そっと窓を閉めた。
誰もいない。誰も、見ていない。
自室を後にし、明香は緑の中を進んだ。
心の中に、ぽっかり穴ができたように、ただ無心に、周囲の樹々の緑の葉を眺めて歩く。
暫く行くと、渡り廊下を囲む腰高の壁があり、明香はそこに背を預けて座り込んだ。
ぼんやりと、自分が抜けて来た道を振り返る。
座り込んで視線が低くなった今は、枝に遮られて自室の窓も見えない。
向こうからも明香の姿は見えないだろう。
(もういいよね)
膝を抱え、明香は顔を伏せて小さくなる。
(もういいよね、わたし‥)
視界が潤んで来て、ぎゅっと目を閉じた。声が漏れるのは我慢したが、荒い呼吸音は止められない。
悔しさ、情けなさ、怒り、不安、たくさんの感情がこみあげてきて、明香の中を蹂躙する。
想いが涙になり、閉じたまなじりからあふれる。明香はそれをとどめなかった。
楽の音がする。観桜の宴は、もう始まっているのだろう。
(結局、間に合わなかったな)
愛馬を厩に預け、陽梨は西側庭園へと向かう。必ず来るようにと周藍に言われていたが、陽梨にもなすべきことがあり、気づいた時には昼下がりをとうに過ぎていた。今からでも行くべきか一瞬迷ったが、まったく顔を出さないのもどうかと思い、渋々足を向ける。
自分でも煮え切らない態度だな、と思う。
行きたいのか、行きたくないのか、決めかねているのは、つまるところ夏国王女明香に因る。
あのあどけない天真爛漫な笑顔を前にして、打算に塗れた自分がのこのこと顔を出すのは後ろめたい。顔を出すのは自分の腹が決まってからだと思っていたら、ずるずると何日も経ってしまっていた。
夏国大使暁亮の、静かな笑顔が思い浮かぶ。
(笑って怒る奴だよな、あれは。周藍が宴に来るよう念押ししてきたのも、結局はあいつの差し金だろう)
幼馴染が夏国の佳人に想いを寄せているのは知っている。つい、おまえはどこの国に仕えているんだと怒鳴りたくもなるが、周藍だとて、私情のみで動く人間ではない。
暁亮の要求の先に何があるのか知っていてなお周藍は暁亮に協力するのだし、陽梨もあの佳人に苦い顔を見せつつも動いているのだ。
むしゃくしゃしながら、仕方なしに急ぎ足で歩いていると、ふと、何かの気配を感じた。
足を止め、周囲を見渡すが、渡り廊下に人の姿は見えない。
思いついて、腰高の壁枠に手をかけ、庭園の方を見遣る。と、すぐ近くの壁の外側に、うずくまる小さな少女がいた。
膝を抱え、伏せている顔は見えない。だが、桜をあしらった簪を挿して、ゆるく波打つ黒髪を肩に広がらせ、浅葱の裳を着けた少女に、見覚えのある姿が重なる。
何より、今白焼宮にいるこのような身なりの幼い少女と言えば、一人しかいない。十歳の夏国王女明香しか。
「おい、どうした。‥泣いているのか?」
声をかける。自分でも驚く程、動揺した声が出た。
「何があった? 大丈夫か? どこか痛いのか?」
暫くして、明香はわずかに首を振って否定する。陽梨は壁を越えて庭園に下り、顔を伏せた明香の前にしゃがみ込んだ。下から覗き込み、表情を探ろうとするが、明香はしっかりと膝を抱えた中に顔を沈めていて、見せない。
しゃくり上げるような、殺した泣き声が、かすかに聞こえる。
陽梨は明香の背中に手をやり、撫でた。
泣くな、と思い、泣け、と思う。かける言葉もなく、しばらく陽梨はただ明香の背を撫でていた。




