10 おまけ
「‥ってちっとも近しい人を誘ったちょっとした席、とは言えないと思うの。ひどくない? 明香だって緊張しちゃうよー」
いよいよ明日に迫った宴を前に、様子を見に来た夏国大使暁亮、字も桂淋さま。相変わらずこの人が現れると日が差し月が照らすように、辺りがはっと冴え渡る心地がする。そんな桂淋さまに、蓋を開けてのあまりの状況に明香さまが思わずこぼしている。
くすり、と蓮の花が開くように桂淋さまは笑った。
「もう! 笑いごとじゃないよ。それに暁亮は不用意に笑っちゃだめ。今誰かに倒れられたって、明香はお世話してる余裕ないんだよっ」
ああ、明香さま、全くその通りです。たったの三日間で陽王はじめ秋国重鎮の方々の前で楽を披露するなんて、もともと歌唱に優れる明香さまはともかく、伴奏の私たちにとってどれくらい無茶ぶりなんだか。だって私たち侍女なんです。楽を奏でるのが本業じゃないんですよっ。
でもでも、明香さまの『笑いごとじゃない』発言は全くその通りなんですが、だからって桂淋さまに笑ってほしくないとかいうのは全くありません。
せっかく! せっかく桂淋さまがこんなに私たちの近くで天人の如く微笑んでくださっているのに。
お願いですからそれを取り上げてしまわないで――!!
「明香さま、志保殿にはお伝えしましたか」
私たち侍女の嘆きをよそに、桂淋さまはその涼やかな声で明香さまに話しかける。
「志保さま? 明香は特に何も言ってないけれど‥。志破さまが誘うのじゃないかな? だって陽王にお妃さまたち、陽貴さまが来るみたいだし」
明香さま、明香さまは全く冷静ですよね。月神の如く神々しい桂淋さまから直に話しかけられているのに、なんでそんなに普通に受け答えできるのか、いつも思うんですが本当に不思議です。
私たち侍女は見守っているだけですが、桂淋さまから放たれる艶やかさにもう完全鎮圧寸前です。とは言え、秋国に来てから明香さまのおそばにつけられた侍女たちとは違って、夏からお供してきた私たちは、まだ何とか免疫ができているのですけれども。
「‥あまりよく伝わっていないのかもしれません。私からもお伝えして、是非いらっしゃるようにとお誘いいたしますね」
「‥志保さまをお呼びするのは、どうかしら。お忙しいみたいだし、直接声をかけてしまったら、断り辛くなって無理させてしまうのじゃ、ないかしら」
「明香さま‥。らしくありませんよ」
すると桂淋さまは、歌の練習を終えたままで立ち姿の明香さまのそばに近寄り、片膝を下ろして明香さまのお顔を覗き込みました。
(きゃー!!!)
声を上げては駄目! 気絶しては駄目! この場から退場する訳にはいかないのよ!!
でもでも、桂淋さまが、お膝をついて下から顔を覗き込むなんて‥明香さま羨ましすぎる!!
とはいえ、さすがの明香さまも至近距離からの桂淋さまの魅力に、うろたえていらっしゃるのかしら。
いつも天真爛漫で明るい明香さまが、うまく表情を作れないでいる。
‥いえ、そうではないわね。あれ程いろいろと私たち一介の侍女なら悶死しそうなほど、桂淋さまと触れ合われている明香さまですもの。今更顔を覗き込まれたくらいでどうこうなさったりしないわ。
本当に全く羨ましい。私なら、あの桂淋さまに跪かれて下から覗き込まれるなんて、お姫さま扱いに鼻血ものだけど。
でも、ここのところ、明香さまはお疲れのようで、こっそりため息をこぼしているのを侍女たちは皆知っている。
はじめは、夏から秋への長旅で疲れたせいだとか、十歳という年齢にも関わらず婚礼の話が出て思うところがあるからだとか、嫁ぎ先が夏ではなくてつい先日まで戦をしていた秋国だからだとか、そんな風に思っていた。
でも、どうやらそうではなさそうだというのに、皆が気づき始めていた。
明香さまがため息をこぼすのは、志破さまが訪問した後の、ふとした時がとっても多い。
志破さまの物言いやお誘いにはちょっと強引なところがあるから、その押しのせいなのかしら。
明香さまだとて私たちの大切な主。世には様々なお姫さま方がいらっしゃるようだけど、うちの明香さまに勝る方はそうはいない。素直で、愛らしくて、明るくて、元気で、いつも見ている者たちに笑顔を与えてくださる太陽のような方。
その明香さまが、こうも不安定でいらっしゃるなんて。
桂淋さま、どうか明香さまを元気づけてください。
私たちは密かにお二人を見守らせていただきます。
私たちなら桂淋さまの美貌に魂を抜かれて失神して退場するところを、明香さまは何ということなく乗り越えて、その後の展開を直に見せてくれるんです。
「遠慮なさらず、難しく考えなくて良いのです。嫌だったら来ないだけ、他の者と違って、志保殿はそれができるお立場なのですから。明香さまは気軽にお誘いして良いのですよ。
頑張った姿は多くの人に見てもらいたいものだし、華やかな集まりに知人を招待するのは、普通のことです」
「でも‥」
「むしろ、お誘いしない方が良くないのでは? 陽王さまをはじめ、王族の方々が多くいらっしゃるようです。志保さまだけお誘いしないのは、明香さまが志保さまに隔意を持っていると思われるのでは」
「そんな筈ないよ! 明香は‥」
優しく諭される桂淋さまに、明香さまは声を荒げた。
(あ‥)
そして私たちは気づいた。明香さまは、志保さまとこそ、仲良くしたいのだと。
明香さまの頬が、薄く桜色に染まる。一瞬だったけれど、それはまさしく、恋する乙女の恥じらいだった。
(明香さま、なんて初々しい‥。十歳とは言え、やはり明香さまも乙女なのですね‥)
(でも、なんで? 志保さま? 頻繁に来られる志破さまではなくて? っていうかいつの間に?)
明香さまの表情に私たちは議論百出なのだけれど、その後の会話は、桂淋さまが声を潜められてあまり聞き取れなかった。
私たちが目にしたのは、
憂いを帯びた笑みを浮かべる桂淋さまに、驚かれる明香さま。
桂淋さまを気遣う眼差しで見つめられる明香さま。
そんな明香さまに、心配はいらないとばかりに優しく微笑まれる桂淋さま。
そして‥。
(きゃー!!!)
桂淋さまが明香さまの背中に手を伸ばした!
片膝をついたまま明香さまを抱き寄せて耳元で何か囁いてるう!!
明香さま嬉しそうに微笑んでる場合なんですか!?
何なんですかその親しさは!?
っていうか耐えられるんですかその状況に!? だって桂淋さまなんですよ!?
ばたばたばたと今度こそ音がした。秋国の侍女は途中で耐えられず既に腰が抜けていたようだったけれど、とうとう夏国精鋭の侍女も三人倒れた。倒れていなくても、うずくまったり、何かにもたれかかって言葉を無くしている。
辛うじて立っているのは、わたくし、華音くらい。
(明香さま‥。本当に尊敬します‥。あの攻撃を躱してしまわれるなんて‥)
明香さまはますます私たちの忠誠を集めた。
こんな状況にあってもほとんど妬まれないところが、明香さまの明香さまたる所以なのである。