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明香が、自分は歌が上手いのだと自覚したのはいつのことだったろう。
5歳だか6歳だか、自我があるようなないような頃。夏国王宮。清水宮の片隅で、花を摘みながら歌っているところに、近くの廊下を年のいった官吏が通りかかった。
そして突然泣いたのだ。
びっくりして歌うのをやめ、明香はその官吏に駆け寄った。
「どうしたの? どこか痛いの?」
「いえ‥何でもありません。明香さま、今、歌を歌っていたのは明香さまでしょうか? もし良かったら、もう一度歌っていただけないでしょうか」
真剣な表情で乞われ、戸惑いながらも明香はもう一度歌った。
それは、明香の母がよく口ずさんでいた、故郷を偲ぶ歌だった。歌詞の意味など明香にはよくわからなかったが、旋律が何となく気に入って、見よう見まねで明香もよく歌うようになっていた。
官吏は、泣くのをやめるどころか、ますます涙が止まらず、泣き続ける。
歌っているから泣いているのだと思い、このまま歌っていてよいのかと迷う。けれど本人がそうしてほしいというのだからと、明香は、せめて心をこめて一生懸命歌った。
何回か歌った後一呼吸休みを入れると、泣き続けて最後には両手で顔を覆っていたその官吏は、やがて顔を上げ、清々しい表情で優しく明香に微笑み、深く一礼して去ったのだった。
後で聞くところによると、その官吏は春帝国壊滅の折りの戦乱で、故郷となる村が焼き討ちに遭って帰るところを亡くしたという。
『明香さまはとても歌がお上手ですね。私は、久しぶりに故郷を思い出すことができました‥』
喪われたことが辛くて自らを戒めていた。明香の歌をきっかけに、思い出さないようにしていた懐かしい記憶が解放され、ただ悲しむばかりではなく、愛おしい思い出にすることができた。
その官吏の優しい眼差し、撫でてくれた手。かすかに震えた喜びにあふれる声。
明香が歌ったら、ありがとうの言葉が返って来た。それが、明香の記憶に刻まれた原風景だった。
だから明香は歌うのが好きだ。
先日、碧華苑への誘いを断った代わりと言わんばかりに、陽芳が歌を聞かせてほしいと言ってきた。
三日後に近しいものを集めて席を設けるから是非にと言われ、断る理由もない。
曲を選び、練習する。普段明香が気ままに歌うのは童謡と流行歌である。しかし自国ならともかく、隣国の王子が臨席する場でそのような歌を選ぶ訳にはいかない。場に相応しい、それなりに格調が高く万人受けする歌は、正直明香の守備範囲外だ。それでも、暁亮に相談して何とか曲は選んだ。
選んだ曲は3曲。
『満天の星空の下で』は、夜空の美しさに人の営みをたとえ、讃える歌。
『母の恵みは大地の祈り』は、生命を育む母親への感謝を歌う。
『つゆ草の紫挿す』は、つゆ草を髪に挿した美しい乙女をこう、昔からある恋歌。
いずれも名曲で歌曲としてよく宴などで歌われる、誰もが知っている歌だ。しかし事は明香だけでなく、伴奏する侍女たちもそれなりの楽を奏でなければならない。
三日間特訓ね、と明香は呟いた。