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夏国王明理が秋国王陽斎のを訪れたのは、早春にも満たない、春の気配かすかな冷え冷えとした深更の頃だった。陽斎はその日珍しく仕事が片付かないままに遅くなってしまい、ようやくきりがついて寝室に戻ろうかという頃、よう、と声をかけて明理が侍女を伴い入室してきた。
48歳の夏国王は、若々しく精悍で、生気に満ち溢れている。秋国宰相・松宣は野蛮王、狼と揶揄するが、下卑たところは一切なく、寧ろ獅子のごとく威風堂々としている。癖のある黒髪に夏国人特有の青い瞳は、見る者をひれ伏させずにいられない気迫を纏う。
何度見ても、明理を見るたびに陽斎は過去の輝かしい日々を思い出さずにはいられない。退廃の空気が忍び寄る今は亡き春帝国の王宮で、共に肩を並べ語り合った日々。陽斎は所謂良家のお人好しな御曹司、実力で農民からのし上がってきた年下の同僚の言動に慧眼することしきりだった。そして巌のごとくに二人を見守る年長の武将、凍氷。
その日々ももう帰らない。春王宮は界帝の狂気に破滅し、三人は国を立て、互いに王となった。
「精が出るな。優等生の積葉にしては珍しく居残りか」
「馳野‥」
「いよいよ明日、帰国だろう。その前に一杯交わさないか。青蓮を持って来た」
紗を被った侍女が、静かに微笑して持っていた酒瓶を掲げる。夏国の名酒、青蓮。飲むとすっと透き通った感触がのどを落ちていき、清涼な爽快感が残る。そして口当たりの良さに反してとんでもなく強い酒でもあり、貴人殺しとも呼ばれる。
「一杯交わさないか、ではないだろう。仮にも王が、人目を気にせず何をやっているんだ。近衛が立っていただろう、そこに」
「さあ、寝てるんじゃないか。この寒さで風邪でもひかないといいが」
飄々と嗤う。寝てるのではなく、寝かせたんだな、と陽斎は溜息をつく。
わかっていたはずだ。明理とは、そういう男である。
今更何を気にするというのか。この男がその気になったら、何人も止めることはできない、そんな雰囲気が明理にはある。明理が陽斎に何か害意を持っているのなら、こんな周りくどく酒など用意せずぶすりと剣を突き立てるだろう。
ともあれ、青蓮は陽斎の密かな好物であった。
明理の伴って来た侍女に戸棚を示し、酒器を一組用意させる。瑠璃の高坏に青蓮が注がれ、明理はそれを手に取るといたずらっぽく微笑して毒見のつもりか先に口に含んだ。
陽斎も高坏を手に取り、軽く掲げて明理と合わせた。小さく高坏のぶつかる音がし、中の水面が揺れる。
「何かつまみがあるだろう。出せ」
「木の実の煎ったものくらいあった筈だが‥」
すっと侍女が動き、陽斎の目線の先の戸棚を開ける。小さい壺を取り、酒器を並べた小卓に添えた。
壺の蓋を開けると、中身を覗いて早速明理が手を出す。傍若無人な明理のふるまいはもう慣れていたが、この侍女も随分物怖じしない。こんな侍女が白焼宮にいただろうかと改めて見直すと、その視線の動きに気づいて侍女はそっと紗を外した。
「なっ‥!!」
薄い紗で隠れていた目元が露わになる。
「どうだ、美しかろう。名酒のそばにはきれいどころが必要かと思ってな」
「光栄です。陽王、ご機嫌麗しゅう」
陽斎は絶句した。
紗を外し、流れるぬばたまの黒髪はしなやかに煌めき、伏せられて微笑する藍色の瞳は夜空の深遠さをたたえる。睫毛の先々にまで真珠が散らされたかのよう、桃色の紅をはいた滑らかな頬と唇は恋を知り染まる乙女のごとき初々しい。
太陽が目をくらませ、月も恥じらって隠れるほどの匂い立つ美貌をたたえた天女に、瞬間自分がどこにどうしているかも忘れるほど目を奪われる。
だがそれでも陽斎はいっぱしの王であった。すぐに立ち直り、彼は自身を取り戻して呻いた。
「きょ、暁亮!! 其方その格好は一体‥!」
「お気に召しませんか。これでも化粧に尽力してみたのですが」
「気に召すも何も、其方、男だったのではないのか!?」
「世間ではそういうことになっていますね。それもこれも、明王のご命令ですので」
秋王宮侍女のお仕着せに身を包んだ天女が、にっこりと優雅に答える。
「馳野!! おまえ一体何を!!」
「久しぶりだな、その慌てた顔。おまえそうしていると狸があわを食ったみたいで実に見応えがある。誰かから言われたことはないか?」
からからと明理は笑う。
「どうだ、驚いたか。暁亮に女の格好をさせるとどうなるか、身をもって実感できて良かったな。こんなのを清水宮に出現させてみろ。血の気の多いうちの男どもが血眼でこいつを追いかけ回すに決まっているだろう。一夜で壊滅だな。
だからな、女装を禁じてみた」
「女装!?」
「いえ、私は男装の方が動きやすくて好ましいのですけれど」
「男装!?」
「まあ、一杯のめ。青蓮が飲んでくれと待っているぞ? とびっきりの美人ととびっきりの酒を揃えてやったんだから、楽しまなくては損ではないか」
明理が陽斎の握りしめる瑠璃の高坏を指す。思考停止した陽斎は指されるままにそれを見、ごくり、と唾を飲んだあと、ええいと勢いよくあおった。
すっとのどを駆け抜ける、青蓮のかすかな甘み。一拍置いて顕現する酩酊感。
実はざると名高い陽斎でさえ、今日のこの一幕には十分に酔えそうである。
空いた盃に暁亮がまた青蓮を注ぐ。
もう一度それをあおり、ようやく陽斎は人心地が着いてきた。
「‥馳野。お前はお前であるままなのだな。安心した」
「ほう。なんだ、今まで不安だったのか?」
「不安だったとも。直に会わなくなって何年過ぎたと言うんだ。おまえと、凍氷の将と、三人肩を並べていた時は微塵も感じなかった不安が、この何年かは幾度となく訪れた。
私たちは一体どうなってしまったのかと。本当に、あの時の友情は失われ、国を分かっただけではなく絆までも分かたれてしまったのかと」
顔を見なくなり、お互いの名で呼び合うこともなく、見えるのは互いが立てた国の動きだけ。
国境となる川を境に起こるいざこざ、その都度飛び交う憶測。
明理はそんな奴ではない、凍氷はそんな男ではないと部下に訴えてみても、何の保証もない甘い考えだと切り捨てられ、いつでも信じることに眉を潜められた。
「青臭いことを言う。積葉は正論が好きだよな。おまえが一番許せないことは、正しいことを正しいと言えないことだった」
「ああ。そして凍氷が最も許せないことは、弱き者の行いが歪められ、強き者に虐げられること」
「そして俺は‥」
自由にふるまえないこと。したいことができないこと。
故に明理は王になったのたった。
「‥馳野。おまえは、結局何がしたいんだ? 此度の冬国侵略、内乱の勃発、秋国の危機は単なる偶然ではないだろう。おまえが仕組んだな」
「心外だな。私がそんな細かいことをちまちまと考えられる性分だと思うか?」
「‥いや、思わない。ならば仕組んだのは、この暁亮か。おまえが来る前から秋に来ていたな」
瞬間目を見張る暁亮を陽斎は横目で見遣る。少しは恐れ入ったか、と陽斎は声をかけようとし、やめた。いささか芝居じみた表情。推察されるのは見越していたのだろう。
青蓮を味わい、壺の胡桃をかじりながら、陽斎は考える。明理が暁亮を侍女の姿で伴ったこと、この場を設けたこと。
手札を明かし、懐に飛び込む。そして得られるものは、秋国王陽斎の理解と協力か。
「そろそろ、飽いてな」
ぽつりと明理は言った。
「王なんかになるものじゃないな。全く自由ではない。あちこちからがんじがらめにされて、私はもう息が絶えそうだ。という訳で、この辺でさっさと平穏な老後を計画したいんだ。だがこの三国いがみあう状態ではどうもな。とったとられた、勝った負けたでは、いつ乗った船が転覆するかわからんような不安が残るではないか。
あの時は、帝国を割るしかないと思ってそうしたが。この地のもっともよい状態とは何かと考えると、やはり三国喧嘩している場合ではないかと思えてな。割れたものをつなぐのなら、やっぱり人をつなぐことから始めんとなあ。
という訳で積葉、おまえ明香をもらってくれないか」
「明香? 馳野、おまえ娘がいたのか。いくつだ」
「十歳だったかな。無論、やるのは積葉ではない。私より更に年上の狸爺に嫁がせたところで、あと何年生きるかもわからないのに、意味がないではないか。やるのは次の陽王だ。
明香はなあ、自慢じゃないが可愛いぞ。いつも明るくて元気でな‥。一人娘で目に入れても痛くないほど可愛いのに、なんでこんな狸親父の元にやらねばならんのか、ああ、なんて可哀そうなんだ、明香は」
「‥言いたい放題だな。覚えておけよ、この野蛮王め」
嘯く明理に陽斎は低い声を出して睨む。
しかし、夏国王女、それも一人しかいない王女を次の陽王に嫁がせるとなると、確かにただの同盟よりは余程堅固な絆になる。
「うちの可愛い癒しの明香がいなくなっては、私も余生が危ぶまれる。という訳で、そちらからは陽貴姫を頂きたい。何でもお人好しの積葉に似て、気立て良く優しい、おっとりした姫だそうではないか。顔が狸爺に似なくて本当に良かったな」
「陽貴を? 陽貴だとて、秋の唯一の王女なのだぞ。そう簡単にやれるか」
「うちだって一人娘をやるんだから、くれたって良いではないか」
「仮にも王女の結婚だ。子供の遊びではないんだぞ」
「遊びだなんて失礼だな。下にも置かぬ扱いで大切にするさ。多分息子が」
「‥多分が着くのかそこに」
「もらうのは明晴だからなあ。あいつはあれで良い奴なんだが夫としてはなあ‥」
「陽貴の夫が夫としてはどうだと言うんだ!?」
「いえ、颯真さまは誠実で気さく、明るいお人柄で、決して問題がある訳では。それから浮気等の不実の心配は全くないと思います」
それまで発言を控えていた暁亮が、とりなすように口を挟んだ。
『全く』の部分が妙に協調されていたような気がするが、良いのかそれで。
「颯真さまは明王に良く似ておられる風貌で、ですが明王より温厚で常識人かと‥。明王のご親友でいらっしゃる陽王におかれましては、これで随分安心されるのでは」
「それより次の陽王はどうなんだ。順当に行けば陽梨だろう。もう一人、陽芳とか言うのもいたな。ちゃんと明香を大切にしてくれるんだろうな。明香を泣かせてみろ、夏と秋の全面戦争だからな」
「そっちこそ陽貴を泣かせたら、ただじゃおかない。覚悟しておけよ」
「なんだと!」
「なんだ!」
立ち上がり睨み合う二人の王の酒杯に、暁亮はそれとなく青蓮を注いだ。明理と陽斎はふん!と顔を背け合い、手にした酒杯を呷る。競争するように飲んで空になった酒杯に、暁亮はまた酒を注ぐ。
貴人殺しも何杯目になるだろう。いくら酒豪で有名な明理でも、また密かにざるだったらしい陽斎も、そろそろ効いてきたようだ。言うことが常になく幼い。
もっと穏やかで濃やかな話合になるかと思っていたのに、これではどこにでもいる酔っ払いである。
二人の王は随分と気を許し合う仲だったのだな、と暁亮は思った。
「‥つまり明王は、現在の三国の状態が不安定であるため、夏と秋とで本気で同盟を結びたいだけだと。その証として明香姫を秋に、陽貴さまを夏に嫁がせたいのだと。そういうことですか」
秋国宰相松宣の言に、陽斎は頷く。あの夜の出来事すべてを話す気はないが、結局明理の考えは、表も裏もなくただ友好を強固なものにしたいということだった。
暁亮の侍女姿に度肝を抜かれたが、それは陽斎であったからこそ晒したのであって、この場で言うことではないだろう。ただでさえ秋国侍女の間で恐ろしい速度で暁亮信仰が拡大しているらしいのだ。あの天女の姿に男性官吏の間にも信仰が広ったら、ある意味白焼宮陥落の気がする。
王に飽いた、という明理の心情は、王でないものにとって甚だ許しがたいものではあるが、陽斎はどこかそれを理解できた。誰よりも縛られることを厭う明理は、実は意外と、人のしがらみに弱いところがある。滅した春帝国の皇帝にもっともはやく見切りをつけながら、王として立ったのは三人の中で最も遅かったのも、玉座という豪奢な牢獄に繋がれることを恐れていたからではないか。
その明理が、安心して王を辞めるために、夏と秋の和を必要とするという。
ならば自分くらいは、それに協力しても良いではないか。陽斎はそう思ったのだった。
松宣は陽斎表情をじっと観察し、その言の表裏を確かめているようだった。
しかし彼とても陽斎に長く使え、王として掲げる秋国の宰相である。また陽斎と親しく交わっていた若い頃の明理を知ってもいる。
渋々ではあったが、何とか松宣も陽斎の考えを受け入れたのだった。




