―Sの場合―
墓地を出ると目の前に小さな教会があって、その裏からたくさんの子供たちの声が聞こえていた。あたしは少しだけためらうと、ゆっくり中へ入って行った。
開けっ放しの鉄柵の扉を抜けて木立の下、砂利道を歩く。角を曲がるとあたしに気付いた初老の女性がにっこり笑った。
「ああ、いらっしゃい、三山さん」
闊達なその声が懐かしくて、あたしは自然と口許が弛むのをおぼえた。
ここは教会に設けられた孤児院。そしてあたしを迎えてくれたのは恵子さん。この小さな孤児院の院長さんでもある。
彼女と知り合ったのはここにお墓を作ったとき。
一人で何もかもやらねばならなかったあたしは、恐らく過労とストレスで、気分を悪くしていた。木陰のベンチでへたり込んでいたあたしを裏に連れて行って休ませてくれたのが恵子さんだった。それ以来、何となく墓参りの度にあたしは彼女を訪ねている。年齢はかなり離れているが、彼女との話は、とても楽しい。
「久し振りね。元気そうで良かったわ」
事務所でお茶を出してくれながら、彼女が笑った。
恵子さんはとても若い。実年齢はもちろん知っているけれど、むしろそちらの方が間違っているのではないかとさえ思うことがある。それが彼女が幼い子供たちと毎日接しているからなのかどうかは分からない。だけど彼女がこれまで色んなことを経験してきていることは確かで、こういうのが人生乗り越えてきた人の大きさなのだろうかと思う。しかしそれでいてまったく押し付けがましくないその人への接し方は、間違いなく彼女自身の美徳だと思う。
最近のこと、仕事のこと、旅行の話。
とりとめもなく話し、聞く。最終的にはあたしは彼女の話を聞く専門に回ってしまうが、それが楽しい。
あたしたちがそうして話している間も、事務所内を子供たちが出たり入ったりして駆け回っている。一応は事務所には子供たちは立ち入り禁止になっているので恵子さんも注意はするのだが、子供たちは一向にやめる気配がない。入れ替わり立ち替わりいがぐり頭やおさげ髪の新顔がやって来る。もしかしたらちょっとした肝試しになっているのかもしれない。
「そう言えば、夏っちゃん、元気ですか?どうしてます?」
夏っちゃんとは夏子ちゃんという女の子で、この施設の子である。出会ったときはまだ赤ちゃんだった。今はもう6歳になるだろうか?あたしはここに来るたび、彼女と遊んでいるのだ。しかし確か、彼女には養子縁組の話がきていたはずだった。その後どうなったかとかは聞いていなかったので、気になっていたのだ。
すると恵子さんは悲しそうな表情になった。
「それがね…あの子、ここに戻っているのよ。話、解消しちゃってね」
驚くあたしに恵子さんは説明してくれた。
話は結構最終的なところまで進んでいたらしい。夏っちゃんも特に拒否反応は示していなかった。そのように見えた。しかし何度目かにその家族と会っていたとき、夏っちゃんは『発作』を起こしてしまった。結局はそれが原因で話は解消してしまったらしい。
夏っちゃんにそんな病気があったことを知らなかったあたしは本当に驚いた。少なくともあたしはその場面に立ち会ったことがなかったのだから。
「施設では起こらないの。原因も分からないし。でも一旦暴れ始めると、誰にも止められなくなっちゃうの。意識を失うまではね。今回みたいな話が進んで、その家族と接し始めると起こり始めるようなの……」
ということは、今までにも何度かそういうことがあったということなのか。あたしにはとても信じられなかった。少なくともあたしの知る夏子ちゃんはそんな事情を抱えているような子供にはとても見えないのだから。
「でも私はあの子にはきちんとお父さんとお母さんを迎えてあげたい。その中で幸福を見つけてほしい。本当は夏っちゃんもそれを望んでいるはずなの」
恵子さんの言葉に、あたしも深く頷く。夏っちゃんは事情があって本当の両親の許から離されているという。
夏っちゃんの精神が自立して、実親の許で暮らしたいと望むのならそれでもいい。でもそれまで、そこまで成長するためにも、たくさんの愛情を受けてほしい。たくさんの心と人と選択肢があることを知ってほしい。そんなものを与えられる父母という存在が、彼女には必要なのだと思う。
夏っちゃんはとてもはにかみ屋でインドアな性格の子供だ。屋外で走り回って遊ぶよりも室内で本を読んだりお人形で遊んだりする方が好きな子供だ。だからこそ、あたしなんかに懐いてくれるのだろう。でもとても優しい、いい子だ。どうしてこんな女の子がうまく生きていけないのだろう。不公平だと思う。
「遊んでいってあげてくれる?」
「もちろん。あの子に会うためにここに来てるようなものですから」
その言葉を期に事務所を出て子供たちの部屋へ向かう。夏っちゃんはやはりそこにいた。部屋の入口で夏っちゃんの名を呼ぶと、窓の側の明るいところでこちらに背を向けていた彼女が振り返って嬉しそうに笑った。
今日の夏っちゃんはお絵描きをしていた。他にも2、3人の子供たちがいたが、みんなそれぞれ絵具でどろどろになっていた。キャンパスは四つ切りの画用紙なんかじゃ足りなかったようである。
夏っちゃんと一緒に子供たちの相手をしつつ側で見守っているあたしに、夏っちゃんが近付いてきた。そして両手で持っていた画用紙をあたしに差し出した。礼を言って受け取って見ると、そこには女の子の絵が描かれていた。
「おお、上手。これは誰?」
あたしが尋ねると夏っちゃんははにかんだようにもじもじ笑いながら、あたしを指差す。
「え、あたし…?わあ、ありがとう、嬉しいわあ」
あたしは知らず満面の笑顔になっていたようだ。片手で夏っちゃんをぎゅっと抱きしめてあげる。夏っちゃんがくしゃくしゃに表情を歪めながら笑い声を上げる。
昔読んだ絵本に載っていたお姫様のような女の子。あたしとの共通点といえば、髪の長さと性別くらいだが、それをあたしと言ってくれることが、うれしかった。
「あ、恵子さん見てください。夏っちゃんがあたしを描いてくれたんです」
ちょうど部屋に入って来た恵子さんに絵を見せながら言うと、彼女はひどく驚いた表情をした。しかしすぐににっこり笑うと、夏っちゃんと絵をあたしを交互に見ながら夏っちゃんの頭を優しく撫でた。
「良かったね、夏っちゃん。三山のお姉ちゃん喜んでくれて」
恵子さんの言葉に、夏っちゃんが大きく頷いてあたしを見た。声を上げて笑っている夏っちゃんはとても珍しくて、あたしはいつもよりも夏っちゃんがとてもかわいいと思った。
「ねえ、三山さん、夏子ちゃんのお母さんになる気はない?」
日の暮れる頃、院を辞去して駅へと向かうあたしを門まで見送りに出てくれた恵子さんが言う。その唐突さに冗談かと思って振り返るが、彼女はひどく真剣な表情をしていた。そのことに戸惑いつつ、あたしは首を振る。
「あたしには無理ですよ。だいたい、養子をとるには結婚してなきゃ駄目なんでしょう?」
「結婚する予定はないの?」
「あいにくと」
おどけたような仕草で肩を竦めてみせるが、恵子さんはやはり真剣そのものだった。だけどやっぱりあたしには無理だと思う。だから重ねて真剣に断りの言葉を告げる。こんなこと、軽々しく同意なんてできるわけがない。夏っちゃんを大好きだと思う感情と彼女のお母さんになるということは同次元で考えてよいものではないはずだ。
「そう、残念だわ。でもしつこいと思うかもしれないけど、本当に少しでも心の隅に置いておいてくれると嬉しいわ。夏子ちゃんは本当にあなたのことが大好きなのよ」
あたしが断ることはそれほど意外なことではなかったのだろう、すぐに恵子さんはそう言ってくれた。それほどがっかりもしてはいないようだった。でも声と表情は真剣だった。だからあたしもそのままでいてはいけないような気持になる。
「ありがとうございます。そう言っていただけるのは、本当にありがたいことなのだと思います。あたしも夏っちゃんのこと大好きですよ。だからあの子には本当に幸せになってほしい。そのための最善の方法は、あたしにも考えさせてください。そのためなら助力は惜しみません。それにお母さんにはなれなくても、あたしはずっと夏っちゃんのお姉さんではありたいと思っています」
考えながら、言葉を選びながらそう告げたあたしに、恵子さんはやはりにっこり笑って頷いてくれた。
―――三山斎(サイさん)の場合―――




