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―Kの場合―

 彼女のことをひとことで表現するならば、ちょうちょうだと思う。

 ただし、昼の陽の中ではなく月影でこそきらきらと羽根を輝かす迷い蝶。

 離れていれば鑑賞に値する美しさのくせに、近目ではグロテスクですらあるところまでそっくりだ。

 捕まえたい。閉じ込めておきたい。そんな願望を捨て切れず、さりとて俺にその力はないことも重々承知していて。

 俺はただ、目の前をひらひらと飛び回るたった一人のちょうちょうに翻弄され続けている。



  ***



 彼女が行方をくらませたとの連絡が入ったのは11月に入ったばかりの昼過ぎ。大学時代の後輩から携帯にメールが届いていた。曰く、


『サイさんが職場逃亡したそうです。

 見かけたらミコさんに連絡お願いします。

 僕やマスターにもできれば』


 気分が悪い。毎年のことだが。毎年同じように同じ騒ぎを起こすのはやめてくれ。頼むから。そう、怒鳴りつけられたらどんなにいいか。その場面を想像して俺は深々と溜息を吐いた。



 ちょうちょうは気まぐれだ。花から花へ、触れたり遊んだり止まったり。

 花の都合に構わず、自分の好むところへ、気が向くままに、ふらふらと舞い飛び回る。

 それがどうということではない。それがちょうちょうというもので、それを知った上で花たちは彼女を愛し、欲するのだから。

 ただそれに不満を持つなと言える権利は、例え当のちょうちょうにだってない。そう俺は思う。

 俺は平穏に暮らしたい。

 たった一人のちょうちょうに惑わされるなんて、冗談ではないのだ。



  ***



 5年前、彼女は事故で家族を亡くした。

 家族で初めて行った海外旅行中の出来事であったらしい。彼女一人が助かったのは、たまたま別行動をしていたからなのだとか。

 彼女はごく普通の家庭で、ごく普通に愛されて、育った。それが非日常の事故で突然、永遠に失われた。ひどい衝撃だったろう。苦しんで当然だろう。

 だが彼女が本当に心を砕かれてしまったのは、そんなことだけではないことは、皆は知らないことなのだ。




 その夜出会ったのは本当に偶然だった。

 たまたま大学のサークル棟で寝こけてた俺が目を覚ましたのが既に日付も変わろうかという頃。さすがに室内どころか棟全体に人気がなかった。帰るか、と思った時、来たのが彼女だった。

 こんな、既に「夜」ですらない時間に人が来ることも、ましてやそれが女一人であることも異常だったが、何より背負った雰囲気が異様だった。

 入口で俺の姿を見留め、一瞬驚いた顔をしたものの、何も言わずに近付いてきた彼女は、視線も足取りもどこかふらふらしていた。机を挟んで向かいのパイプ椅子に座る。その時、ふわりとアルコール臭がした。

「酔ってんのか?」

「酔ってませんよー…ただワイン一瓶空けただけーー」

 …絶対に酔ってるだろう、それは!

 と思ったが、何も言わなかった。それ以上に言うべきことがあると思った。

「――帰るんですか?」

「あー…まあ、そろそろ……」

 語尾は誤魔化すように消した。それよりも、と声に力を込める。

「どうかしたか?」

 どうかしてないわけがない。彼女の家族が旅行中に事故に遭ったことは既に聞いていた。直後にこいつから電話があったのだ。そしてしばらくは学校に行けないと思う、という連絡。やはり真夜中にかかってきたごく短い電話は、いつもの彼女の声とは思えない程、別人の声だった。心配、はしていたのだ。例え普段はどんなに複雑に思ってはいても。

 彼女はじっと俯いていた。机の表に何か書いてあるのかという程、じっと動かなかった。泣いているのか、それとも眠っているのか、と俺が思い始めたころ、ようやくその肩が動いた。

「本当に、ひとりぼっちなんだなあって、思って――」

「…え?」

 ぼそりとつぶやかれた言葉は、こんなに静かな場所でさえ、聞き逃しそうなほど、微かなものだった。思わず身を乗り出した俺の目の前で、ようやく彼女が顔を上げた。色素の薄い、ブラウンの瞳が真正面にある。しかしそれは驚くほどに空虚で力無く、俺の背筋に寒気が走る。

「ねえ、千尋さん―――」

 彼女の形のいい唇が動くのが見える。口唇もその口調も、乾き切っているように思えたのは気のせいか。

「私って一体何者なんでしょうね――」

 普段なら何言ってんだ、と馬鹿にしたくなるようなセリフが、何故か何も言えないと思う程に俺の全身の自由を奪い取った。

「―――――――――」

蠱惑の口唇が言葉を紡ぐ。


 凍り付いたように硬直している俺の視線とかっきり絡み合う彼女の瞳。

 どこか浮世離れした色彩の淡いその色。

 形良く整ったかっきりした眉。

 すっと伸びた鼻梁。

 青い血の色を透かしたこめかみ。

 程よくなだらかな頬の線のもり上がり。

 淡く紅色を透かした形の良い口唇。

 抗えない俺は、ぎこちなく距離を詰めていた。




 明け方の光を浴びる彼女の背は鮮やかな輝きに満ちていた。その眩さに思わず俺は目を細めた。細く輝く視界の中で、ゆっくり彼女が振り返る。

「おはよう」

 にこりと微笑む彼女は、昨夜とはまるで別人であるように俺には思えた。何かを脱ぎ捨てたように、美しく見えた。



  **



『でもなんか、あの人今夜は疲れてたんですかね――』

『なんてのか、すげー悲しそうに見えた。うまく言えないけど。さみしいってのか――とにかく、何とも言えない感じがしたんすけど』


 後輩の言葉が俺の背筋に寒気を走らせた。覚えのある寒気だった。それがどういうことか、理解する前に俺は立ち上がっていた。部屋を出る俺を後輩たちが呼び止めたが、なんと答えたかも覚えていない。


 間違えたか?

 見誤っていたか?

 判断を誤っていたか?

 それ以前に

 何故気付くべきことに気付かなかった?

 何故、今日初めてあいつに会った奴に見えたものが、自分には見えていなかった?

 この腕は彼女を抱いていたのに。

 息のかかる程すぐ側で言葉を交わしていたのに。

――まだ、俺は、間に合うのか?


 街灯の少ない夜道の先で、見覚えのある背中を見つけた。

 あの朝の背中に似て、さにあらず。

 それはあの夜、月の明かりの下で見た彼女の姿だった。



 一体この時間まで何をしていたのか。俺の家から彼女の家までは20分もかからない。しかしどう見積もっても彼女が俺の家を出てから30分以上は過ぎている。

 車も通らない、人も通らない。ちかちかまたたく街路灯がまばらに並ぶ、静まりかえったオフィスビルの狭間。

 大きく振り回すように歩を進める彼女の靴がアスファルトに積もった落ち葉を踏む音だけが風の中に聞こえていた。

 しばらくその姿を眺めて逡巡してから、俺は二、三歩後ろまで近付いた。そこで息を整え、おもむろに口を開く。

「斎」

 がさり、と枯れた葉の砕ける音がした。明滅する街路灯に照らされたコートの背中が、ゆっくりと振り返る。

 星のように白い頬。夜の闇に紛れるしっとりした黒い髪。薄墨色におちる影の奥で、鈍く光る両の瞳。首に巻かれた鮮やかなブルーのマフラーが風に煽られ、ばたばたと音を立てる。その頬に光る、幾筋もの透明の雫が、まるで別世界のもののように見えた。

 何故今の今になってようやくこれが俺に見えるようになったのだろう。

 見るための材料は揃っていたはずなのに。




 けんかしたんだ。

 意地張って。

 だからあの日別行動したんだ。

 そしたらみんな事故しちゃって。

 あたしだけ助かって。

 何で一緒にいなかったんだろ。

 そしたらあたし今こんなとこで一人ぼっちじゃないのに。

 もしあたしがあの時死ぬ運命じゃないのだとしたら、

 もしあの時あたしがあそこにいたらみんなも死ななかったかもしれないのに。

 病院に着いたのだってもっと早くに行けなかったのかな。

 助けてってお願いすることもできなかった。

 血を使ってって言ったらだめだった。

 あたしの血、みんなに合わなかったって。

 あたしの血、みんなを助けることすらできなかったの。

 こんなに有り余ってるのに。

 あたしの血はみんなと同じじゃなかったんだって。

 血が同じじゃなくたってあたしがみんなを愛してたことは嘘じゃなくて。

 みんながあたしを愛してくれていたことは一つも嘘じゃないけど。

 でもあたしが築いてきたあたしの記憶は、

 あたしが今のあたしであるための足場が、

 あたしがみんなと同じところで生きてきたって証が、

 あたしがみんなと家族だったって証拠が。

 全部嘘だったんだって。

 全部、根底が違ったんだって。

 あたしは本当は一人ぼっちで。

 そして本当に独りぼっちになっちゃって。

 あたしはあたしが誰なのかも分からなくなっちゃって。




 抱き締めていた腕の中で、確かに切れ切れに、俺は斎の言葉を聴いていたのに。

 今目の前で月光に照らされ輝く幾筋もの雫が、一つ一つのセリフを俺に思い出させる。

 見えていたはずなのに、見ていなかったもの。

 目の前のこの女が、自尊心の強い、強い女が、何かを脱ぎ捨てることができるときなど、夜の闇を除いて他にないことなど分かり切っていたのに。

 朝の彼女が何かを脱ぎ捨てていたのではなかった。

 夜闇で虚ろに笑ったその姿こそが、真の三山斎の姿だったのだ。




「――待ってたの」

 夜の風に乗って、微かな声が俺の耳に届いた。

「探しに来てくれるの、待ってたの」

 細かく明滅する街灯の下で、ゆっくりと斎の頬が笑みの形に歪んでいくのが見える。

「見つけてくれるの、待ってたの」

 口元の筋肉が引きつるように痙攣し、そのたびにぱた、ぱた、と雫が撥ねる。

 嗚咽もなく、ただ静かに涙を流す三山斎の姿はひどく醜くて、ひどく清らかに見えて、例えようもないほど慕わしかった。



  ***



 三山斎という女のことを表現しようとすると、きっと誰もが困ると思う。

 ある者はばりばりのキャリアウーマンだと言うだろうし、ある者は酒を飲んでは夢のような言葉を吐き続けるだけと言うだろう。

 そのどちらも正しいと知っている俺は、というと、それはもう、本当に困ってしまうのだ。

 頭をひねっている俺の目の前を、ひらりとよぎる羽根。


「――ああ、そうだ」


 三山斎はちょうちょうのような女だと思う。

 ひらひら目の前を飛び回り、捕まえようとすればいつも空を掴ませられる。

 捕まえられないのに、目の前でひらひらあでやかに舞う、うるさいちょうちょう。

 古の人がむき出しの魂の姿と信じ、彼岸と比岸を往来できるものと信じた美しい羽根虫。




 メールを読みつつ深々と溜息を吐く。しかし脳裏には高速処理で斎の行きそうな場所がリストアップされている。そんな自分自身に更に溜息を一つ。


 結局俺は、この蠱惑に捕らわれ続けているのだろう。




―――菅田千尋(カンさん)の場合―――


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