―S'の場合―
たけなわを過ぎた飲み会の場には何とも言えない気怠さが漂っていた。
月に何度か誰かの部屋におしかけて持ち寄りでやる飲み会がある。本格的な冬の季節の入り端を迎えた今夜も、特に理由もなく僕たちは集まっていた。
――いや、理由らしい理由が一つあった。昨年大学を卒業して就職したあの人が、久々に休みが取れたのだった。と言っても日中はやはり仕事が入ってしまったということで、結局途中参加で早々に帰ってしまったのだが。
まあ、休みが取れたから、というのも久し振りに会いたいから、というのも言い訳で、つまりは飲みたい連中が都合をつけて集まったというだけのことなのだが。だって別に彼女は遠い所に住んでいるわけではないのだから。
室内の様子はと言うと、正に一言で「死屍累々」。
基本的にのみたい奴が飲みたいものを持って集まるのだから、リミットは自分で計らねばならない。しかしそれが旨くいった例はない。まあ、こういうのを「若者の特権」というのだろう。
――あれ?「若気の至り」だったっけ?
もちろん例外はいる。途中参加のくせに人の2.4倍くらいのペースで飲んで周りのつぶれているのを尻目につい十数分程前に帰宅していったあの人など良い例だ。彼女が酔いつぶれたところなど、僕は本当に一回くらいしか見たことがない。
今、この部屋に残っているのは僕を入れて3人。1人は完全につぶれてぐーすか寝こけている。もう1人もついさっきまでにやにや笑いながらその辺にあった雑誌を読んでいたが、今見ると本棚にもたれて動かない。
そして僕はといえば、酔い覚ましに窓辺で風に当たっている。まあ、多分、余人から見れば、他の2人と大差ない状態だろう。
既に肌寒いというレベルを超えて寒い夜気は、僕の火照って朦朧とした脳髄をちょうど良く冷ましてくれる。
かすかに香ばしい香りが部屋の側から漂ってくる。曇ガラスのはめこまれた化粧ドアの向こうのキッチンスペースで灰色の人影が動いているのが見える。今夜のホスト、つまりこの部屋の住人であるカンさんがコーヒーを淹れているようだ。
このホストは非常によく働く。
酒をつくって肴をつくって、皆が酔いつぶれる頃にはお茶かコーヒーが出てくるのだ。――もちろん、本人も呑みながらだから、しばしば怪しいシロモノ代物が出てくるのだが――それにしても、良い香りだ。何の豆かとかは分からないけど、匂いだけでもおいしそう。ゴボゴボという音も聞こえるから、そろそろできてくるだろうか。
だいぶ意識がクリアになってきた。わずかに尻の位置をずらして半身を起こす。
「〜〜〜う゛〜〜〜〜〜〜〜」
意味不明の呻き声が聞こえて、僕はそちらを向く。先程までまるまって爆睡していた後輩が、芋虫よろしくのそのそと身を起こしているところだった。
「おーーーだいじょぶかーーー?」
間延びしたような僕の声に気怠そうに頷きながら、彼が大丈夫です、というようなことをもごもご言う。とりあえず気分が悪いとかではなさそうだと思う。まあ、こいつは今夜集まったメンツの中で一番に脱落していたから、量としてはそんなにいっていないはずだった。むしろペースの上がったサイさんに付き合ったり、酔った頭でオリジナルカクテルを作り出したカンさんの試飲役にならなかった分、悪酔いは心配しなくてよいだろう。
ちなみにテンションが上がってペースを1.2倍程に上げたサイさんと一緒にカンさんのオリジナルカクテルを飲んでいた奴は、気が付くとこの部屋にはいなくなっていた。帰ってしまったのか、未だに外で酔いを醒ましているのか、それは確認できていない。
「…あ、れ?シュウ先輩、あの人は?あの―――」
どんよりした表情ながら、とりあえず覚醒したらしい後輩が周囲を見回しながら言う。
「……ああ、サイさん?もうとっくに帰ったよ。明日も仕事なんだと」
僕の答にきょとんとした表情になる。
「ええ?明日って日曜ですよお?」
「…あれ?そうだよなあ?でも確かにそう言ってたけど……」
まあ、不規則な仕事だと言っていたから、そういうことなのかもしれない。
「それにしてもすごい人でしたねえ」
かなり意識もはっきりしてきたらしい後輩がしみじみとした口調になる。誰のことを言っているのかは名前を出されなくてもわかるので、僕は頷いた。
「あの人、結局おれらより呑んでたでしょう?」
「しかもカンさんのあのカクテルを」
「おれ、ちょっと飲んでみたけど、やばかったっすよ、あれ」
「そーとー濃くて甘かったよな」
その時のことを思い出したのか後輩が顔をしかめながら言い、僕も同じような表情で深々頷いた。
件のカクテルとは今夜カンさんがつくった中でも最悪の出来のカクテルで、ミルク分と糖分の飽和状態の液体にアルコール分が加味されていると思えばいい。麦茶グラスに入った褐色に濁ったカクテル。甘さだけでも喉を焼いて、飲み込むと胸の中央辺りでかあっと熱が生まれた。その感覚を思い出すと、今更のように酔いが回ってくる。さすがのカンさんも失敗作だと認めて回収しようとしたそれを、サイさんは一度口をつけたんだから、と飲み干してしまったのだった。
「さすがにカンさん呆れてましたね」
そのとんでもないシロモノを喉を反らせながら飲み干したサイさんの姿が思い出される。そういえばあの後、いつものようにサイさんの笑い上戸のスイッチが入っていたんだっけ。
「キャハハハハハ……」
としか表現しようのないあの陽気さにも慣れたはずだが、やはりうるさかった。頭に響くその声は確かにとてもきれいなのだが。
ザルとかウワバミとかいう言葉は彼女のためにあるに違いないと僕は思う。
「でも、なんてのかなあ」
ふと後輩の声のトーンが変わる。
「なんつーか、うん、なんつーか、すごいいい女って感じがした」
「はあ!?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまい、慌てて自分の口を押さえた。頭がずきずきするのは酒のせいだろうか。
「いや、おれも何て言っていいかわかんないんすけど」
後輩は特に気にした様子もなく続ける。
「あの酒ののみっぷりもちょっと…なんですけど。でもなんてのか、何て言うか、すごく色っぽいってゆーのか……」
「そりゃサイさんは美人だけど」
「そういうんじゃないですよ。確かにかわいい人でしたけど。何つーのか…なんだろ?安心できないような。無防備ってのか?とにかく目が離せないような、そのくせ側にいて話してるとすげー安心できるってのか。あー、あの胸と目は反則だよなあ」
こいつ酔ってるな、と僕は改めて判断を下す。
つくづく、この場にサイさんがいなくて良かった。それにカンさんも――とつい思って、目を上げる。やはり曇ガラスの向こうで人影が見える。
「でもあれで今あのヒト、フリーなんでしょ?おかしいよなあ…ねえ?ほんとに何もないんすか?あの人たち」
こいつは酔うと饒舌になるらしい。
「だっていい雰囲気だったじゃないですか?間に割り込めないくらい。あんなひっついてんの見てたら、なんかこっちまで恥ずかしかったっすよ」
「あーーー…ああ。何もないらしいよ、あのヒトたちは。あれで」
「……わっかんねーーーーーー…男だったら普通はさあ…」
そう、あのヒトたちは何もない。少なくとも今は、と言っておくべきか。僕も詳しいことを知っているわけではないが。確かに以前は「何か」あったらしい。だが今では「付き合い」という関係ではない。はずだ。一応、サイさんはそう言っている。
「まったく、あんないい女、側にいて、何もしないっつーのがもったいないよなあ」
僕の手が無意識に奴の頭をはたく。いてえ、と悲鳴が上がったが大したことはないだろう。全然力など入っていない。
まったく、少しは考えろ。当事者の一方はドア一枚向こうにいるんだぞ。そう思って、慌てて顔を上げた。閉じたドアの向こうからカチャカチャと食器の触れ合う音がする。良かった、聞こえてはいないようだとほっとする。
「じゃあ、シュウさんは何も思わないんすか?」
はたかれた理由は分かったのか、声を潜めながらも睨んでくる。
「僕はないな。だいたい、僕はみづきさん一人で手一杯だよ」
「…うそくせーー」
聞こえないくらいの呟きは、しかし口の動きで何を言いたいかは分かった。しかしあえて無視する。
確かにサイさんは美人だし僕とて彼女に女性としての魅力を感じないわけではない。
でも、駄目なのだ。何というか、あの人と一緒にいると確かに楽しいけれども同時にひどく恐ろしくなるときがあるのだ。引き込まれるという感じか?いやむしろ呑まれるというべきか。
「はまるなよ」
つい口にしてしまってから、改めて言い直す。
「あの人にはまると抜け出せなくなるぜ」
ぶはっと後輩が噴出す。
「何すかそれ。先輩の言ってることの方がよっぽど生々しいっすよ」
何とでも言えばいいし笑えばいい。どうせこれが僕の正直な感想なのだから。
ガチリとドアが開いた。あたたかく香ばしい匂いがふわりと漂う。
「何笑ってんだよ」
今夜のホストのカンさんがコーヒーを持って来る。この人は何でも凝り性で、これも自分でお気に入りをブレンドしたコーヒーなのだ。コーヒーなんてインスタントでも缶でも違いなんて分からない僕には、その辺りのこだわりはよく分からない。でも酔い覚ましとしてはカンさんのコーヒーは絶品なのは確かで、僕は大好きだ。
「いやあ、噂通りのすごい人だったなーって」
適度にぼやかしながらへらへら笑ってみせると、カンさんもくくっと笑った。
その後しばらくは再びこの場にはいない人の話題を中心にくっちゃべっていた。マグカップのコーヒーがなくなる頃、ふと話題が途切れる。一瞬の静寂が部屋の温度を一気に下げたような気がする。そんなタイミングでふと後輩が言う。
「――でも、何かあの人、今日は疲れてたんすかね―――」
「え?」
「だって、なんてのか、確かにすげーうるさくて酒入ると最凶っての分かった気がするけど、でも何かそれ以外のときはすごい寂しそうで――いや、悲しいってのか、とにかく何とも言えない泣きそうなカオしてたんですよねーー。それともあれが普通なのかな…」
気付かなかった。そうだっけ?というのが素直な感想だった。まあ、仕事で疲れていたのかもしれない。そんな日だってあるだろう、あの人だって。
物音に気が付いて振り向くと、カンさんが部屋を出て行こうとしていた。
「悪い、出てくる」
「へ?どこへ?」
「ちょっと」
なんだかこちらが要領を得ないまま、カンさんは出て行ってしまった。何だかわけが分からないが、すごく真剣な表情だったのが印象に残っている。
結局、その夜カンさんは帰って来なかった。
その日の少し前にサイさんが事故で家族を亡くしていたことを知ったのは、それから少し後のことだった。
***
「そっか。もう今年もそんな時季か」
僕がサイさんの職場逃亡を知ったのはその日の昼であった。本当に偶然たまたま昼食のために『Mooner’s Bar』に入ったため、ミコさんからマスターへの電話を聞くことができたのだ。
あの時から五年経つ。サイさんは毎年この月、11月になるとナーバスになる。つまり家族の命日が近くなるといたたまれない気持になるらしい。サイさんにとって家族を亡くしたことはそれほどに辛い出来事なのだ。
ミコさんはこれはサイさんの甘えなのだと言う。ただし、許容すべき甘えであると。
カンさんは、普段張り詰めているサイさんが、まるっきり脱力してしまっている状態なのだと言う。月夜のサイさんがゆるんではかなくなってしまう、その延長上なのだと。
二人とも似たようなことを言い、多分同じくらい心配している。どちらも傍目には分かり辛い人だけど、僕には分かる。少し違うのは、ミコさんは怒っていて、カンさんは思い詰めるように悲しそうなことだ。そしてミコさんはそんなカンさんにも怒っているようだ。
「とりあえず、サイさんを見かけたら連絡しますよ。行きそうな所にも気を付けておきます…ええ、ここにシュウさんもいますので、伝えておきますよ…――ええ、はい」
マスターが僕に視線を向けて、小さく口を歪めて笑ってみせる。僕も軽く頷きを返す。
とりあえず、カンさんにも連絡を入れておこう、と僕は思った。
―――空木秋晴(シュウさん)の場合―――――




