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―Mの場合―

 11月初めの日はとても気持ちの良い天気で明けた。気分良く職場に着いた私はいつもの様に鍵を取り出そうとして、しかし既にそれが開いていることに気が付いた。

「おはよう。めずらしいね、あんたが先に来てるなんて」

「たまにはね。目が覚めちゃったからさあ。あ、おはよ」

 開業前の掃除をしながら振り向いた三山は、実に爽やかな笑顔だった。早朝の切り裂くような空気の冷たさにさらされてこわばっていた私の頬がほっとゆるんだ。


 三山と私は大学時代からの友人で、今ではとある会社を共同経営する間柄である。正確に言えば、彼女の事業を私が経理・事務面からサポートしているということになる。もちろんそうは言っても二人しか人手のない会社のこと。私も接客をこなすのだが。


 私が荷物を置いている内に三山は事務所内の清掃を終え、外を掃除するために出て行った。私は帳簿類を整理することにしてデスクに向かう。

 椅子にかける前に気が付いて、柱に付けたカレンダーを一枚破る。書き込みができるシンプルなカレンダーのまっさらなページには、落ち葉色のインクで11月の文字が示されていた。

『ああ、そうか、11月なんだ』

 今更のように私は認識した。

 掃除を終えて戻ってきた三山が私の方へ向かってきて、その途中、カレンダーの前で立ち止まる。

 しばらくじっとそれを見つめていた三山が、ぽつりと呟くのが聞こえた。

「ああ、もうなんだ」

 そっと三山の表情を盗み見て、私は改めて今日のスケジュールを確認した。

 三山が逃亡したのはその日の昼過ぎのことだった。



 いつも明るくてエネルギッシュな三山が落ち込んでしまう時期がある。それが毎年のこの辺り。11月だった。

 この時期は彼女にとっては大変辛い時期なのだ。家族旅行中に事故に遭い、ただ一人生き残った、それが5年前のこと。

 三山斎という人間を劇的に変えたといって過言のない事件の起きた時期なのである。

 そういった事情は承知の上で、再会して3年このかた、毎年この時期になると逃亡を企てる、既にパターン化した彼女の行動になれっこになったとはいえ、やはり仕事をしている身でのこの行動はいただけない。とりあえず三山の携帯電話に連絡をしてみる。

 長いコールの後、やっと三山の声が返ってくる。それでも回線が通じただけでも私は安堵する。

「何やってんの。今どこにいるの。今日15時から来客でしょう」

「あー…そう、だっけ?」

 何を言ってもとぼけた返答を返す三山の声は微かで、聴き漏らさまいと私は全神経を聴覚に集中させる。

「ミコにまかせる…お願いねー」

 私の言葉に生返事をしていた三山は、そう言って唐突に通話を切ってしまう。

「まかせるってこら…!いつ戻るかくらい……」

 怒鳴ろうとしたが、思いとどまって受話器を置く。


 毎回のことなのだ。それは分かっている。だからそこまで心配はしない。だから、私がこんなに腹を立てているのは、そういうわけじゃない。

 それでもそんな私たちの個人的な事情は社会生活においては何の強制力を持たないのだ。

私は大きく息を吐いて気持ちを入れ替えると、来客を迎える準備をするために席を立った。




『くやしいなあ』

 胸の奥で燻っていたらしいぼんやりした想いを日本語に変換するとそういう言葉に成ったらしい。

『何がくやしい?』

 仕事の合間、ぽっとできた空白の時間にふと脳味噌の片隅がどうでもいいことに思考を巡らせる。だからこんなことは大変にどうでもよいことで、意味などない。重要性などないこと。 だから好き勝手に思考の暴走を許してしまう。


 何がくやしいと言って、私が三山の一番になりえないというのが、なりえていないというのが、くやしいと思う。私は彼女のことを親友だと思っていて、彼女も私のことを親友だと言ってくれているから、尚のこと。

 私たちは色々なことを話し合う。それこそ公私取り混ぜてたくさんのことを。

 それでも私は彼女の最大の傷に触れることができない。それは、私がその彼女の傷である時間を共有できていないからなのだろうと思う。そしてそう思うからこそ、私もこれ以上何もできないでいる。本当はもっと三山の力になりたいと思っているのに。


 5年前、三山が事故に遭った頃、私は三山の側にいなかった。

 大学を卒業してからすぐに私は留学していた。日本で就職していた三山とは時々電話やメールで連絡を取り合っていた。しかし1年も過ぎる頃にはそれも間遠になっていった。三山のことを忘れたわけでも友情を感じなくなっていたわけでもなく、単に私が無精者であっただけなのだけれども。

 三山が事故に遭い家族を亡くしたということは、2年目を目前にした頃に三山から知らされていた。しかし当然のことながらそのために帰国することはできなくて、気にしながらも帰国して三山に再会したときには既に事故から2年が経過していた。

 3年ぶりに三山に会って、私はひどく後悔した。側にいてあげたかったと思った。

 何が変わっていたと言葉にはできない。ただ確信できたのは、三山に刻まれた傷は容易には消えない、一生背負うものであろうということ。2年が過ぎたその時未だ歪に固まりきっていなかったそれは、5年経った今でも一見平らかなようでいて、実は歪みきったまま凝ってしまっていた。少しでも突付けば血と膿を吐き出してしまうかもしれない、生傷なのである。

 側にいてあげたかったと思った。今でも時間を巻き戻せるものならばそうしたいと思っている。結果的には何も変わらないのかもしれないけれど。でももしも私が側にいたら、今尚彼女に残る傷を少しでも浅いものにしてあげられたのかもしれないと、そのくらいは自惚れていたいのだ。

 そのくらいには、三山斎に対する私の存在を重いものであると自惚れていたいのだ。


 だから、とても腹立たしいのだ。

 彼女を、三山斎を癒すことが、もしかしたら救うことすらできるかもしれないくせに、逃げる道しか選ぼうとしないあの男のことが。


 気に喰わないのだ。


 憎らしいのだ。



―――立花美子(ミコさん)の場合―――


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