―Kの場合―
夜の闇に蝶が舞っていた。
盲のように、狂えるように、羽ばたくその姿は、どこか恐ろしく、けれども美しかった。
困ったなあ。
心底そう思いながら、俺は目の前の彼女を見る。泣き腫らした目に荒んだ雰囲気。先ほどまで喚いていた口は今は歪んだまま引き結ばれて、時折すすり上げる息の音とため息のような大きな呼吸音だけが漏れていた。
この人とは付き合い始めてもうすぐ3ヶ月になろうかというくらいだったが、初めて見る形相であり、初めて聞く罵声であった。
「どうして何も言わないのよ」
しばらくぶりの嗚咽以外の言葉は、俺にとってはやはり理不尽という以外ないもので、俺はやはり何も答えられず、一旦開きかけた口を閉ざす。
「どうして何にも言わないのよ!そうよ、どうせあなたは何も言わないのよ。何も考えてないんだものね、あたしのことなんか!」
どうやら何も返事がなかったことが彼女にとって気に喰わなかったらしく、喰ってかかるようにまくしたてられる。
困ったなあ。何度目か分からない慨嘆を胸中でこぼす。もはや慰めようという気も萎えている。弁解するべきなのかもしれないが、一体何を言えばいいのか分からない。そもそも彼女は一体何をそんなに怒っているのか、それすら俺にははっきり分かっていない。
ただ、これがいつものパターンであるということは確かなことだった。
彼女との関係において、に限らない。女性と付き合うとだいたいいつ頃からかこういう状況に陥る。しかしいつも俺にはそんなときの彼女たちのことが理解できないのだ。一体俺が彼女たちに何をして機嫌を損ねたものやら、何を彼女たちにすれば満足してくれるのやら。ただ、こういう状況に陥る頃の俺はひどく疲れているということは確かなことであった。
「聞いてないでしょ、あたしの言ってること!」
ばん、と派手な音がして俺は目を上げた。いつの間にやら俯いていたらしい。見ると彼女は机に両の掌を突いてこちらを睨んでいた。
「何を考えてたのよ、誰のことを考えてたの!?」
「悪かったよ。だから落ち着いてくれ」
ぼうっとしていたのは事実であるから、俺は素直に謝る。とりあえず話をしないことにはどうしようもない。しかし彼女は余計に怒ってしまったようだった。
「いっつもいっつもそうなんだから!ちゃんとあたしを見なさいよ!なんなのよ、あなた!あたしって一体なんなのよ!」
正直に言って意味が分からない。彼女のいわんとすることが、俺にはもはや理解できない。なんだかどうでもよくなってきてしまった。
「おまえ、うるさいよ」
尚も何か言おうとしていた彼女の言葉を遮って言った。
後のことは思い出したくもない。ただただ無性に美しい光の舞う光景を脳裏で追いかけていた。
―――菅田千尋(カンさん)の場合―――




