まずは基本から
8月のとある日、イグニスは私室で窓辺に寄り掛かっていた。
「雨か…こうも降り続けばクレアが外に出られないと嘆いているだろうな」
しとしと降りから、石畳を叩きつけるような大雨へと変わっていく。苦笑を浮かべながら妹に思いを馳せる。
そっと目を閉じてベッドに座り直そうとしたその時、ドアの向こうから聞き慣れた声が響いてきた。
「姫様、廊下は走っちゃ駄目ですよ!まだ掃除が終わっていないんですから、雨で滑ったりしたらどうするんです」
慌てる兵士に少女はぴたりと立ち止まり、銀の髪が湿度で肌に張りつくのを不快に感じながらも振り返る。
「ごめんなさい、急いでいたの。これからお兄様と勉強しようと思って」
ほら、と手に抱えた丸い大時計や辞書を見せる。沢山のカラーペンやシールも箱に詰め込まれていた。
「あぁ、以前言っていた…他に何か必要なものがございますか?」
「では…10時になるまでに美味しいパイを作って下さい。材料は多めに買ってきてありますから、残りは皆さんで消費して頂ける?」
語調に合わせてふわりとした口調で返し、兄の部屋へと向かう。木製のドアを軽くノックする。
「入れ」
私室に来るのは、クレアか彼女が選んだ看護師だと分かっていたからすぐにドアを開く。
「はい、そこに座って下さい。ちょっと準備しますから…授業はすぐ始まりますよ」
「ふむ、これが学習机か。どのような座り心地なのかな?」
学校の先生を気取って楽しげに壁ぎわまで歩き、椅子を梯子代わりに時計を取り付けるクレア。
その様子は生き生きとしていて、思わずイグニスは腰掛けた椅子でぴんと背を張る。
「では、チャイムが鳴るまでに教科書とノート…必要な物を選んで揃えて下さい」
凛とした声で言い、立ち止まる事なく、次は棚と壁の隙間にしまっていたホワイトボードを机の前まで引っ張って来るとマジックを使い、今日の日付を書く。その時、時計から音が流れる。
「おはようございます、今日行う授業の説明をさせて頂きます。」
「分かった。詳しく教えてくれ…お手柔らかに頼むよ」
クレアが箱から取り出したのは、イグニスが机に置いた国語の教科書と同じ物。
二人の兄妹はテレパシー能力を持って生まれ、それを気味悪がった父に軟禁された故。妹クレアが生まれるまで一言も喋らなかったイグニス、一方クレアは予知能力も持ち合わせていた。そんな二人を利用すべく宮殿に呼び戻した父を信頼せず、ずっと二人は言葉を覚える事を拒否。
しかしクレアは預言者として民の助けになるべく、4歳にしてようやく話し始める。妹を見て補佐すると決め、母に言葉を教えてもらった兄はこの時8歳になっていた。
だから読み書きをクレアに任せていたのだが、自らが内政を行うようになると頭だけでの文字のリーディングはかなり身体に負担を掛けると知り、今回の状況に至る。
「えへ、そんなに甘くはないですよ。はい…今日の当番はイグニス、ホワイトボードに名前を書いて下さい」
クレアはいつも通り、にこ、と無邪気に笑うが有無を言わさぬ口調に立ち上がりホワイトボードへ歩む。青いマジックで枠内に『ignis』と慎重に書く。マジック特有の匂いが充満して蓋をすぐに閉めた。
「よろしい、始めましょう」
そして、二人だけの授業が始まる。




