最終話 光、満つ
男の子は手を後ろに組んで、山村を優しい目で見つめてくる。
沸き立つような懐かしさがあった。
生まれてまだ4、5年の、柔らかく、エネルギーに満ちた生命の匂いがする。
2年前、当たり前に山村の傍にあった、愛おしい命と同じモノだ。
「おじさんは、・・・悪くないのかな」
山村がそう言うと、男の子は大きく頷いた。
「優しいから、春樹大好きだよ。 正輝くんも、おじさんのこと、大好きだったよ。絶対に。すこしも怒ってなんかいないよ」
初めて訪れる、この大阪で。自分や息子の知り合いになど、出会うはずの無いこの土地で。
この春樹と言う少年は、愛おしい息子、正輝の名を口にしたのだ。
ふわりと、風が動いた。
ゆっくりと背を伸ばし、春樹の目を見つめ返した山村は、もう、うろたえはしなかった。
天から降りてくる言葉のように、山村はその言葉を聞いていた。
体中の細胞ひとつひとつで、その声を受け止めていた。
「そうだったら、うれしいな」
山村はそう小さく言うと再び頭を垂れた。
今、ここで何かを発信すれば、その言葉は正輝に届くような気がした。
「でもね、寂しいんだ。正輝がいなくなって、パパはすごく寂しいんだ。体のどっかが千切れてしまったみたいに、寂しくて仕方ないんだ」
あたりに音は無かった。
さっきまでのまとわりつく暑さも感じられなかった。
ただ、再び山村の頭を撫でる手があった。
小さな柔らかな手が、いたわるように、優しく撫でてくる。
正輝は許してくれているのだろうか。天から自分を見ていてくれてるのだろうか。
自分は贖罪を切り離して、正輝の柔らかい思い出だけを抱いて生きてもいいんだろうか。
眠気ににた心地よさが、山村を包み込んでいた。
〈 いいんだよ、パパ 〉
そんな声が、脳の中に、優しく響いたような気がした。
いつの間にか、頭に触れる手の感触が消えていた。
ゆっくりと山村は頭を上げてみた。
あたりにはもう、あの男の子の姿は無く、一瞬にして山村の耳にザワザワとした喧騒が戻ってきた。
急行が到着するというアナウンスが流れ、山村は一瞬のうちに現実に引き戻された。
白昼の夢から放り出され、暫くボンヤリと辺りを見回していた山村だったが、不思議と心はシンと落ち着き、心地よい睡眠から目覚めた朝のように穏やかだった。
手の中に残ったペットボトルの緑茶を眺め、腰を上げた。
これも、あの子にあげようと思っていたのに、山村の胸の澱を溶かして行ったあの天使の姿はもう、どこにもなかった。
天上の正輝にチョコの話をしてくれるだろうか。
泣き虫の正輝の父親は、それでも正輝を愛して、日々を生きているのだと、伝えてくれるだろうか。
そんなことを思いながら、いつしか山村は微笑んでいた。
頬にまだ残る涙を手でぬぐうと、山村はホームへと入ってきた急行電車を、穏やかな気持ちでじっと見つめた。
◇
「春樹、ちゃんとついて来なさいって言ったでしょ!? どうしてあんたはいつもはぐれちゃうのよ! こんな所で置いて行かれちゃってもいいの?」
母親の憤慨する声に肩をすくめ、春樹は「ごめんなさい」と、うなだれた。
母親はいつまで経ってもホームから降りてこない春樹に業を煮やし、再びホームに様子を見に来たのだった。
階段から怒った顔を覗かせた母親の姿を確認するやいなや、春樹は慌ててあのベンチから離れ、母の元に飛んでいったが、母親の機嫌はなかなか直らなかった。
関西の暑さにやられ、二泊した旅館も満足が行かず、この旅行を酷く後悔しているらしい。
春樹は火に油を注いでしまったのだ。
「今度はぐれたら、置いて帰るからね、春樹!」
プンプンと腹を立て、春樹のほうを振り返りもせず、母親は改札の方へ歩いていく。
春樹はこれ以上叱られないように、必死でそのあとをついて行った。
けれど、こんな時は必要以上に近寄らない。
怒りにまかせて、焼けるように熱い手で自分の手を握られることが、春樹には一番怖かった。
肌を通して、怒りの棘が、真っすぐ自分に刺さって泣きたくなるから。
改札の手前で、そんな2人を、兄の圭一が笑いながら待っていた。
普段はおとなしく、母親の機嫌を損ねることのない春樹の失態を、8歳年上の兄は、少し気の毒がり、少し楽しんでいた。
「バカだな春樹。母さん、暑いとイライラしちゃって、機嫌が悪くなるんだから。怒らせちゃダメだって」
近寄って耳打ちしてきた圭一の忠告に、春樹は必死で頷いた。
「うん、春樹、今度はちゃんとついて行くから」
キャリーバッグを引きずりながら改札を抜けていく母親を追って、圭一も春樹も同じように改札をくぐった。
屋外に近づくにつれ、蝉の声と熱気が強まった。
「あれ? 春樹、チョコでも食ったのか?」
ふいに春樹の顔を覗き込んだ圭一が言った。
「口の横に、チョコ付いてるぞ」
春樹はハッとして、慌てて口を手でぬぐった。
「誰かにもらったのか?チョコ。 母さんにバレたらやばいぞー。あの人、そういうの大嫌いだから。本当に置いて帰られちゃうかもな」
圭一は横から肘でつんつんと、面白がって突いてくる。
どんどん距離が離れてしまう不機嫌な母親の背を追って必死に歩きながら、春樹は圭一を振り返り、そして懇願するように言った。
「ナイショね」
チョコのほろ苦さと共に、さっき触れた男の人の溢れ出す優しさと寂しさが、ふわりと再び、春樹の中に香った。
(END)