第3話 チョコレート
その男の子は、ただじっと売店に並んだチョコレートバーを見つめている。
その視線が、山村にはどうしても正輝に重なって見えて仕方なかった。
山村の妻はとにかく、躾に厳しかった。
チョコレートは特に子供の天敵だと思っているらしく、一切買い与えることはしなかった。
いつもはそれに大人しく従う正輝だったが、妻が用事で正輝を残して出かけるようなことがあれば、とたんにその瞳はイタズラっぽく輝きだした。
山村も休日返上の共犯者となり、妻が出かけるやいなや、二人揃って近くのスーパーに乗り込むのだ。
お目当てのチョコレートバーを菓子棚から一本だけ掴み取り、正輝がニコリと山村に笑いかける。
言葉はいらない。暗黙の了解と言う奴だ。
「おまえ、でっかくなったらワルになるな」
そう言いながら、チョコレートを握ったままのその小さな体を抱え上げると、正輝はキャッキャと笑い、そして必ず最後に付け加えるのだ。
「ナイショね」、と。
案外、気の小さいワルだった。
「春樹君はチョコ、好き? ちょっと待ってて。おじさん、買ってあげるよ」
それはほとんど衝動だった。
心の中から吹き出す衝動だった。
そんな山村を見上げ、男の子は嬉しそうに目を輝かせた。
この子も、もしかしたら母親から甘いモノを禁じられ、厳しく育てられているのかもしれない。
けれど今この瞬間、この少年の共犯者になりたかった。
この子の親を捜さねばならない時に、何をしているのだという想いは隅に追いやられ、山村はそのチョコレートバーと、緑茶のペットボトルをレジに持っていき、精算を済ませた。
「ありがとう、食べてもいい?」
男の子はひんやりと冷たいチョコレートを受け取ると、遠慮がちに訊いてきた。
山村が頷いてやると、その子はうれしそうにチョコレートバーを頬張った。
時折山村に目を向け、目が合うたびにニコッと笑う。仕草のひとつひとつが愛らしい。
「でも、春樹君のママに怒られないかな、チョコのこと」
立ったまま、懸命にチョコを頬張るその姿に癒されながら、今さらながら山村は言ってみた。
男の子はしばらくモグモグしながら山村を見つめていたが、やがて再びニコリと笑い、つぶやいた。
「ナイショね」
山村は一瞬わけのわからない波に呑み込まれ、息が出来なくなった。
その男の子の声色も口調も、まるで正輝のものだった。
目頭が痛いほど熱を持ち、視界が歪んだのと同時に、頬に涙が伝った。
慌てて手の甲でぬぐう。
男の子はすでにチョコレートを食べ終わり、ただ驚いたようにこちらを見ている。
目の前で40を越えた男がいきなり涙をこぼしたのだ。小さなその子には訳が分からなかったのだろう。
山村はフラフラとすぐそばにあったベンチに座り、頭を垂れ、「目にゴミが入ったんだ」と言い訳をして、改めてハンカチで顔を拭った。
鼻の奥がジンと痛み、涙が溢れてくる。
ああ、この子の親を捜してやらなければならないというのに。自分はいったい何をやっているんだろう。
息を吸い込み、気を逸らそうとするのだが、涙が止まらない。
ふと、頭に触れるモノがあった。
男の子が、うなだれている山村の頭をそっと撫でているのだ。
驚いて一瞬動きを止めたが、その感触がとてつもなく心地よく、山村はその手が自分の頭を撫でるのに任せた。
その手の主はやがて、「ごめんね」、と小さく言った。
「なぜ、ごめん?」
「春樹が泣かせちゃったんでしょう?」
「そんなことないよ。君はちっとも悪くない」
「おじさんだって、ちっとも悪くないよ」
その声に、体中の血が一瞬ざわめいた。
現実も熱も遮断し、ほわりと包み込んでくれるような声。
山村はゆっくり頭を上げ、呆けたように目の前に立つ男の子を見つめた。
目が合うと、琥珀色の瞳を細め、その子は再び柔らかく笑った。