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第2話 失われた日

未熟児で生まれた山村のひとり息子正輝は、体は標準よりも小さかったが、活発で元気な子だった。

そして父親のことが、大好きな子だった。

仕事で遅い山村を、正輝はいつも頑張って起きて待っていようとするのだが、躾に厳しい母親に叱られ、遅くとも8時までにはベッドに放り込まれる。

平日は、朝の20分だけが唯一、父子のじゃれ合う時間だった。


あれは、正輝の5歳の誕生日だった。


「今日は正輝の誕生日だから、お父さん、がんばって早く帰るからな」

「やった、約束ね。絶対ね」

ぴょんぴょんと飛び跳ねて喜ぶ正輝を、母親の声が遮った。

「早く着替えなさい、正輝! 幼稚園のバス、来ちゃうわよ。今日の遠足に行けなくなってもいいの?」

「いやだ、行くもん!」

正輝は慌てて着替えると、すぐさまリュックの所に飛んでいき、今度は中身の確認をはじめた。


誕生日と遠足。

楽しいイベントが重なって、正輝は興奮気味だった。

一度リュックに詰めたおやつをもう一度取りだして、眺めている。

たぶん、昨日完璧にチェックしたはずなのに、気になって仕方がないのだろう。


虫歯や添加物を酷く警戒した母親から、普段は甘い市販のお菓子を与えて貰えない正輝にとって、遠足のおやつは何よりの楽しみだったらしい。

「あのね、ケイ君がね、チョコくれるって。ボクは何をあげようかな」

そう言いながら、駄菓子の入った袋を持ち上げて確認する息子を、山村は目を細めながら見つめた。


その日は、小春日和のいい天気だった。

マンションの4階のベランダには、昨日の休日に正輝と2人で作ったテルテル坊主が、緩やかに揺れている。

「テルテル坊主、頑張ってくれたな」

山村がそう言うと、正輝は、「うん、がんばったね」と、心ここにあらずで、朝食のパンを頬張っていた。


平穏な一日の始まり。

不幸な事など、何も起こりはしない。そのはずだった。

午後6時頃、職場から一度電話を入れたときは、何も変わりは無かった。

正輝は遠足を満喫し、早くも父親の帰りを待っているのだと、妻は電話口で苦笑していた。


仕事を何とか切り上げ、帰り道のケーキ屋で、注文していたケーキを受け取る頃には、時刻は8時を少し回ってしまっていた。

大丈夫。今日くらいは、妻も正輝をベッドに放り込む事はしないだろう。

そんなことを思いながらようやく辿り着いたマンションの前は、人だかりで騒然としていた。


何かあったんですかと、不安に駆られながら野次馬の1人に尋ねると、ベランダから子供が落ちたらしいよと、淡々とその男は言った。

心臓がドンと音を立てて跳ね、血の気が引いた。

全身が痺れるような不安に我を忘れ、手に持ったカバンとケーキを投げ出して人混みに走った。

遠くから救急車のサイレンが聞こえ始め、そしてそれと共鳴するように、甲高い金属音が鼓膜を突き刺した。

その音が、妻の叫び声だと理解できたとき、同時に山村の正気はどこかに消し飛んだ。


ここから先は、絶望という奈落に住むのだ。

そんな想いが一瞬、その脳裏をかすめただけだった。



正輝は山村の帰りを待ちわびて、4階のベランダから通りを見ようとしたらしい。

小さな正輝に手すりをよじ登れるわけもなく、母親はいつも好きにさせていたのだが、この日は違った。

前々日、2人で作ったテルテル坊主を正輝自ら吊せるように、山村は踏み台を用意したのだ。

折り畳み式の踏み台の使い方を教えてやると、正輝は嬉しそうにそれに乗り、テルテル坊主を物干し竿に括り付けた。

自分で吊したのだと、あの日正輝はとても嬉しそうだった。

その踏み台は、片付けられるのを忘れられ、その日もベランダの隅に小さく畳まれて、置いてあったのだ。


踏み台に乗り、4階のベランダの柵をよじ登った正輝が、最後に見たものは何だったろう。

一瞬でもいい。

不注意な父親を恨んでくれたら良かったのにと思った。


妻は誰かを恨むことでギリギリ精神を保って居られたようで、実家に引きこもり、やがて離婚届けを送ってきた。

躊躇わずにサインした。

もう何かを思案する気力も無くなっていた。



ふいに、山村の手を握っていた小さな手に、グッと力が入るのを感じた。

男の子が立ち止まったのだ。

山村はハッと我に返り、真夏の太陽の下で金色に光る男の子の頭を見下ろした。

春樹というその子は、ホーム中程にある売店の、お菓子コーナーをじっと見つめていた。


ひんやりと冷気の膜の降りたショーケースに、正輝の好きだったチョコレートバーが並んでいる。

山村の胸が疼いた。

それに呼応するように、その少年の手が、きゅっと強く、山村の手を握り返してきた。


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