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第1話 夏の日

エスカレーターを登ってみると、ついさっき急行電車が行ってしまったばかりなのだろう、ホームには人影が疎らだった。

山村はさっそく照りつける8月の陽射しから顔を背け、日陰のベンチを探した。

新設されて間もない小綺麗な京阪線のホームには、冷房完備の待合室もあったが、何となくその箱に入る気にはなれなかった。


次の急行が来るまでには20分くらいあるだろうか。

特に急ぐわけでもないし、先に来る準急でJR環状線まで出ようか。

そんなことをムンと汗を誘う空気の中で考えながら、山村はホーム中程のベンチに向かった。


地方周りの営業職は、とにかく移動ばかりで疲れるが、山村には有り難かった。

1人住まいの千代田のワンルームマンションに帰るよりも、いろんな土地を飛び回っていた方が気が休まる。

2年前、独り身になってから引っ越して来たあのマンションには、何の愛着もない。

ただ辛いことを取り留めもなく思い出してしまうだけの、小さな侘びしい箱だった。


今日はこれから大阪へ戻り、その足で神戸に向かう。

そこで神戸支社の担当と落ち合い、たぶん夜は三ノ宮辺りで飲むことになるだろう。

首筋に浮いた汗をハンカチで拭いながら山村は、確認する意味もない予定を頭に巡らせた。


売店の横にあるベンチの手前まで来たとき、山村はふと足を止めた。

壁際に置かれた水飲み機の前に、小さな男の子が立ち、飛び出す水を無心に眺めているのだ。


足でレバーを踏むと、角から噴水のように細い水が、キラキラと光を纏って吹き上がる。

それが面白いのか、男の子は何度もカチャカチャとレバーを踏み、放射状の光る糸を眺めていた。

その興味深げな横顔、見開かれた人形のような目にひきよせられ、山村はぼんやりとその子をながめていた。

Tシャツや短パンから伸びた手足は驚くほど華奢で、4、5歳なのだろうと感じた。

幼稚園の年中くらいだろうか。

そうだ、正輝と同じくらいだ。

途端に胸がぎゅんと、苦しくなった。


男の子はそのうち、細い首をいっぱいに伸ばし、水を飲もうと頑張り始めた。

けれど、あと僅か届かない。

つま先立ちになり、背を伸ばし、それでも足らずに今度は小さな舌を出して水を求めた。

その様子があまりにも可愛らしく、山村は男の子の横でクスクスと笑い声を漏らした。

驚いたのだろうか。姿勢を戻し、キョトンとした顔でその子は山村をじっと見上げてきた。


「飲みたいかい? おじさんが抱っこしてあげるよ」

男の子の了解も待たず、山村はその子の脇に手を入れると、足でレバーを踏みながらヒョイと抱え上げた。

その体は人形かと思うほど、とても軽かった。

放射する水にその子の口を近づけてやりながら、山村はその軽さに、訳も分からず打ちのめされた。


白いベランダに、ふわりと揺れるテルテル坊主。

血の気の引く映像が、何者かの悪意のように脳裏をすり抜けた。


スッと肩の力が抜け、山村はまだ僅かしか水を飲んでいないだろうその子の体を地面に降ろした。

再びクルリとした薄茶の瞳が、不思議そうに山村を見上げてくる。


「ごめん、ごめん。・・・まだ水、飲む?」

そう訊くと、男の子はニコリと笑い、首をブンブン、勢いよく横に振った。

けれど次の瞬間、その目は自分の置かれた状況を確認するように、ホームをぐるりと見渡した。

そこで山村もハッとする。

「もしかして、おうちの人と、はぐれちゃったのかい? ぼうや」


辺りはこの子の家族らしい人影は見あたらない。

ポツポツと、若者やサラリーマン風の姿が見えるだけだった。

駅前の木々から微かに聞こえて来る蝉の声が、再びジリジリと暑さを思い出させ、汗を誘った。


「春樹ねぇ、さっきまでママと居たよ。ちゃんとママ、そこに居たのに」

必死で何かに弁明しようとするその姿は、その年代の子供らしく、健気で愛らしかった。


「そうか、春樹くんはママとはぐれちゃったのかな。でも、大丈夫。きっとママ、その辺に居るはずだから。下の改札に降りて行っちゃったのかもしれないね。いっしょに探してあげるよ。おいで」


できるだけ優しく声をかけ、山村は手を差し出した。

春樹と名乗った男の子はホッとしたように頷き、山村の手を握ってきた。


サラリとした、柔らかな手だった。

刹那、胸をえぐられるような切なさと、その小さな小さな手を、ぐっと力強く握ってしまいたい衝動に駆られ、眩暈がした。


“正輝・・・”


2年前に失った愛おしい命への想いが、その眩暈と共に、山村の胸を再び満たした。




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【人物紹介】

・天野春樹 … 他人の肌に触れると、その記憶や感情の一部を瞬時に読みとってしまう能力を持つ。純粋で、心優しき少年。





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